児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年06月

今日6月16日は、中国・唐の時代、玄宗皇帝の妃となりましたが、安禄山の反乱(安史の乱)を引き起こしたため「傾国の美女」と呼ばれる楊貴妃(ようきひ)が、756年に亡くなった日です。

絶世の美人が、はなやかな生活をおくり、やがて、あわれな死をとげるという悲劇は、エジプトの クレオパトラ 、唐の楊貴妃に代表されます。

すきとおるような白いはだ、しなやかな黒髪、かがやくように美しい楊貴妃の魅力は、玄宗皇帝の心をとりこにしました。楊貴妃は、はじめ玄宗の息子寿王瑁(じゅおうほう)の妃でしたが、玄宗の目にとまって、皇帝の妃にむかえられました。そして玄宗に愛され、宮廷の女性としては最高の位につきました。745年、楊貴妃が26歳、玄宗60歳のときです。

美しいだけでなく歌や踊りもじょうずでかしこい楊貴妃を玄宗は、ひとときもそばからはなさずにかわいがりました。玄宗は楊貴妃に夢中になり、楊貴妃の身内を高い位につかせ、権力をあたえました。楊貴妃の一族で楊国忠という男は、酒のみで、ばくちうちで、教養のとぼしい人でした。この楊国忠が皇帝をたすけて、政治をとり行う宰相にまで出世してしまったので、人びとはあきれかえりました。

玄宗は、皇帝として長いあいだりっぱな政治を行ない、文化をさかんにしてきました。しかし、楊貴妃があらわれると政治のために時間をとるのが、めんどうになってしまいました。夜おそくまで宴会をひらいて酒を飲み、ぜいたくな遊びに明けくれる毎日です。人びとは重い税金に苦しんでいるというのに、楊一族のわがままなふるまいは、とどまるところをしりません。玄宗はそのころ、政治をすべて楊国忠にまかせきってしまったので、唐の国はかたむき、宮廷はみだれきっていました。

安禄山の反乱がおこったのは、そんなときです。安禄山はもと玄宗の家来でしたが、755年、楊国忠を討つために軍隊をひきいて、都へ攻めのぼってきたのです。玄宗は、安禄山を信用していただけに、びっくりしました。平和が長くつづいて、国の守りをおこたっていたので、武器もさびついて使いものになりません。玄宗は楊貴妃とその一族をつれて、将兵に守られ、蜀の国へのがれようとしました。長安の都から西へ50キロメートルほどの馬嵬(ばかい)という村まできたときです。皇帝にしたがう将兵のあいだからも楊一族に不満の声がわきあがりました。玄宗の手ではしずめることができません。楊国忠がきりころされました。そして楊貴妃も、玄宗が命ごいをしたのもむなしく、ころされてしまいました。

玄宗はたいへん悲しみ、楊貴妃の似顔絵を、朝夕ながめ暮らしたということです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)3巻「マホメット・チンギスハン・マルコポーロ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「楊貴妃」をもとにつづりました。


「6月16日にあった主なできごと」

1924年 三民主義…現代中国の生みの親ともいわれる 孫文 は、民族・民権・民生主義を総合する「三民主義」の革命理論を、国民党の軍幹部を養成する学校の開校式で系統的な講演をし、孫文指導下の国民運動は最高潮に盛り上がりました。しかし、翌年3月「革命なおいまだ成功せず」の遺言を残し、60年の生涯を終えました。

今日6月15日は、鎌倉時代の3代目の執権となり、、武士の初めての法律『御成敗式目』(貞永式目)をこしらえ、16代続いた執権政治の基礎をきずいた北条泰時(ほうじょう やすとき)が、1242年に亡くなった日です。

泰時が、まだ9歳だったときのこと。散歩をしていた泰時の前を、ひとりの武士が馬にまたがったまま通り過ぎました。すると、このことを知った将軍 源頼朝 は、その武士を呼びつけ、馬をおりて泰時に頭をさげなかったことを、強く叱りました。ところが泰時は、いっしょうけんめいに武士をかばいました。これを見て感心したのは頼朝です。「まだ幼いのに、やさしい心をもったやつだ」。頼朝は泰時をほめ、ほうびに自分の刀をあたえました。これは、泰時が幼いときからかしこく、頼朝にたいへんかわいがられたことを伝える話です。

北条義時の長男として生まれた泰時は、北条氏の力が日の出の勢いでのびていくなかで育ちました。父義時が、祖父 北条時政 のあとをついで幕府の執権になったときは、泰時は22歳でした。

1213年、幕府にそむいた和田義盛を討って、武将泰時の名をあげ、35歳で、幕府の武士をすべてとりしまる侍所別当の位につきました。

1221年に起こった承久の乱で、さらに名を高めました。

武士の力が国の政治をあやつるほどにつよくなったことをなげいた朝廷が、鎌倉幕府をたおすために兵を起こすと、泰時は、幕府軍の総大将として朝廷軍を打ちやぶりながら東海道をおし進み、またたくまに京都を占領してしまったのです。そして、六波羅に京都を取りしまる探題をおき、朝廷も、朝廷に味方をしていた武士も、おさえてしまいました。

泰時は、急死した父のあとをついで、41歳のときに鎌倉幕府の3代目の執権職につきました。執権は、強い権力をもつ幕府最高職です。しかし、社会にむかって権力をふるうまえに、連署という、執権を助ける役職を新しくつくり、さらに、裁判や役人の任命などを会議で決めるための評定衆の制度ももうけ、幕府の政治をしっかりと進めていくための体制を固めました。

また、評定衆たちに命じて、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めたをつくり、武士たちの精神を正させました。この『御成敗式目』は、日本で初めての武士の法律でしたが、そのご長く、武家社会のことをとり決めるときの手本となりました。

泰時は、18年間の執権職のあいだに、そのご第16代までつづいた、北条氏の執権政治のきそをきずき、1242年に59歳で亡くなりました。人間の道理を重んじた泰時は、朝廷を攻めた罪を、そのごの正しい政治でつぐなおうとしたのだといわれています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)21巻「平清盛・源頼朝・源義経」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「北条泰時」をもとにつづりました。

 

「6月15日にあった主なできごと」

774年 空海誕生…平安時代に中国から真言密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた 空海 が、生まれました。空海は、弘法大師の名で親しまれています。

1215年 マグナカルタ成立…イギリス憲法の聖書ともいわれる「マグナカルタ」(大憲章)に、横暴だったジョン王が署名し、王も法に従うという原則が定められ、イギリス立憲政治の出発点となりました。

今日6月12日は、絵本や書籍ばかりでなく、テレビアニメや映画でおなじみの『アルプスの少女ハイジ』を著したスイスの女流児童文学者ヨハンナ・スピリが、1827年に生まれた日です。

アルプスの山やスイスの自然と聞くと、たいていの人は、アルプスの少女ハイジを思いうかべるようです。美しいアルプスの山々とヤギに囲まれ、おじいさんのもとですくすく育っていくハイジは、まさにアルプスの申し子といってもよいかもしれません。

スイスのチューリッヒに近いヒルツェル村で、医者の子として生まれたヨハンナは、ハイジと同じようにやんちゃ少女として育ち、学校はあまり好きではなかったようです。1852年、25歳のときに弁護士と結婚しチューリッヒに移り住みました。

文筆活動をはじめたのは、1870年ころからで、当時普仏戦争がおこり、たくさんの戦病者が出たことを知って、そんな不幸な人たちのために「ハイジ」のもとになった「ヘルゴーランドの少女の物語」を書いたところ好評でした。そこで、本格的に「ハイジ」の著作に取り組みはじめ、7年がかりで完成させたのが『アルプスの少女ハイジ』でした。第一部を1880年、第二部を1881年に刊行。

ところが、1884年に夫とひとり息子を相ついで亡くし、ひとりになったヨハンナは慈善活動、読書、著作、旅行に専念しました。1901年に亡くなるまでに「アルプスの少年」など50点以上の物語を出版しています。

「ハイジ」の物語の、およその内容は次の通りです。

ハイジの父親は大工でしたが、ハイジが2歳の時に亡くなり、つづいて母親も亡くなって、ハイジは、5歳になるまで母の妹のデーテに育てられました。ところがデーテは、ドイツのフランクフルトのお屋敷で家政婦として働くことになったため、山小屋にひとりで住んでいる、父方の祖父であるおじいさんに預けられることになりました。

おじいさんはがんこな変わり者で、村人とはいっさいつきあいをしません。ハイジには、このおじいさん以外の身寄りはなく、こうして、おじいさんとハイジの二人きりのくらしがはじまりました。まもなくハイジは、毎日山の上までヤギを連れてあがってくる少年ペーターと仲良しになりました。

がんこなおじいさんも、かわいいハイジと暮らしているうち、かたくなな性格もやわらいでいきました。やがて冬がきて山に雪が降り積もると、ペーターもやってきません。そんなある日、ペーターがハイジを自分の家にこないかと誘いにきました。そして、おじいさんのソリに乗せてもらって、ペーターの家に行きました。こうして、ハイジはペーターのおかあさんや、目のみえないおばあさんたちと知り合います。

子ヤギのユキちゃん、おじいさんが飼っている犬のヨーゼフやヤギのシロ・クマ……大自然に生きる動植物たちとのふれあい。厳しくも優しく、懐の深さを感じさせるアルプスの大自然。そして何よりも、いっしょに暮らすおじいさんを通じ、ハイジはさまざまなことを学び、健やかに育っていくのでした。

ハイジが8歳になったある春の日、デーテが再び山を訪れ、ハイジをフランクフルトのお屋敷に連れていき、病気の娘の遊び相手にさせようというのです。おじいさんは、烈火のごとく怒りました。しかしデーテは、こんな良い話はない、帰りたければ汽車にのればいつでも帰れると、無理やりハイジにきれいな洋服を着せて、連れ去ってしまいます。おじいさんやペーターにさよならもしないまま……。

フランクフルトでハイジを待っていたのは、足が不自由で体の弱い少女クララとゼーゼマン家の人びとでした。クララには母親はなく、父親は仕事でほとんど家にいません。ロッテンマイヤーという女性の執事が家のいっさいのきりもりをしていました。ハイジは食事の作法も知らないし、学校へ行ったこともないので、おかしなことばかりします。そして、アルプスの楽しい話の数々に、クララはハイジがお気に入りです。でも、ロッテンマイヤーはハイジに厳しいしつけや勉強を強制するばかりか、山の話題を禁止しました。クララやクララの父ゼーゼマン、クララの祖母、クララの主治医、使用人のセバスチャンなど心の支えはあったものの、ハイジはなかなかフランクフルトでの生活になじめません。やがてハイジは、アルプスでの暮らしを思うあまり夢遊病の状態となってしまいました。

ハイジを診断したクララの主治医は、ただちにハイジを山へ帰すように指示しました。こうして、ハイジは夢にまで見たアルプスのおじいさんのもとへ帰れることになりました・・・・・・。


「6月12日にあった主なできごと」

645年 大化の改新の始まり… 中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足(のちの 藤原鎌足 )らが、当時の最高権力者だった 蘇我入鹿 を殺害しました。このクーデターから650年ころまでの内政改革は、大化の改新とよばれています。

今日6月11日は、手紙形式で書かれた名作『あしながおじさん』を著したアメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが、1916年に亡くなった日です。

ジーン・ウェブスターの本名はアリス・ウェブスターで、1876年にニューヨーク州のエリー湖に近いフレドニアに生まれました。父親は、マーク・トウェイン の作品を刊行する出版社を経営していました。母親はトウェインのいとこにあたり、ユーモアに満ちた話じょうずで、日常の小さなできごとも、たちまち物語にしてしまう能力の持ち主でした。ジーンもその感化を受けて、幼いころから文章をつづるのが大好きでした。

やがて、ニューヨーク州のヴァッサー女子大学に入学、経済学を専攻しました。寮生活の時、アリスという学生と同室になり、両方がアリスで不便だったため、祖母がジーンだったことからその名にして、それが小説を書くときのペンネームになりました。学生時代に、小説を書くかたわら、経済学を学んだことで社会問題に関心が高まり、教護院や孤児院などを観察する機会が多く、施設に育つ恵まれない子どもたちとふれあうのが好きになりました。

大学卒業後は、社会事業の手伝いをしながら、小説を書き続けましたがいっこうに認められません。でも、持ち前の明るさと、強い意志で創作をつづけ、1912年36歳の時、孤児院でふれあった子どもたちとの体験をもとにした『あしながおじさん』を発表すると、たちまちベストセラーとなりました。1915年には、『続あしながおじさん』を出版。まもなく、弁護士と結婚して、翌年6月9日に女の子を出産しましたが、2日後にニューヨークの病院で死去、わずか39年のはかない生涯でした。

『あしながおじさん』のあらすじは、次の通りです。

みなし児のジルージャ・アボットは、孤児院で一番の年上でした。通常、この孤児院には16歳までしかいられませんでしたが、ジルージャは優秀だったために、18歳までいることができました。でも、まもなく女学校を卒業するため、孤児院を出なくてはなりません。

ある日、月に1回孤児院に寄付をしてくれる人たちの会議があった日、ジルージャは院長に呼ばれました。評議員のひとりが匿名で、毎月一回学業の様子を手紙で報告することを条件に、大学進学のための資金援助をしてくれることになったと知らされました。ジルージャがみこまれたのは孤児院の生活ぶりをシニカルに、そしてユーモラスに描いた作文のセンスでした。院長室へいく途中、ジルージャは、廊下に落ちたとても長い人影を見かけましたが、それが後ろ姿の評議員であることを知り、のちに「あしながおじさん」と呼ぶきっかけとなりました。

大学でのジルージャは、孤児院で与えられた名前を嫌がって自らをジュディと呼び、同級生のサリーやジュリアとともに、学生生活を楽しみました。初めて孤児院の外で生活をすることになったジュディは、うれしくてたまりません。見るもの、聞くもの、すべてがめずらしく、それを「あしながおじさん」へ知らせることに喜びを感じました。自分自身でお金を出して買い物をしたことや読んだ本のこと、出席したパーティのことなどを、生き生きと手紙で送り続けるのでした。

長期休暇時の農園滞在、ニューヨーク訪問、サリーの兄のジミーやジュリアの叔父のペンデルトンといった男性との交友、自らの小説の商業出版といった経験の後、ジュディは大学を優等で卒業しました。ジュディは、長期休暇期間に訪れていた農園で卒業後の生活を始め、作家をめざして小説を書き進めながら「あしながおじさん」への手紙だけは、やめることなく書き続けました。

やがて、ジュディはペンデルトンからプロポーズを受けました。でも、孤児院出身であるという経歴を打ち明けることができず、彼を愛していながらも拒絶してしまいました。煩悶したジュディは、自分の気持ちを手紙にして「あしながおじさん」に送ると、会って話を聞くという返事がきたのです。初めての対面に緊張しながらニューヨークに向かったのでした・・・。

*結末まで綴って公開したところ、「ヘンリーおじさん」から次のようなコメントをいただきました。

ストーリーを最後まで教えてしまうと 読んで最後どうなるのか。。。?の 楽しみが失われてしまいます。 どうか、終結のあたりを削除してください。 あとは、本を読んでのお楽しみに。。。。で、 終わっていいと思います。

もうひとつ、この本は、英語でも読んでいただく ことがお勧めです。 文章が分かりやすいし、魅力的な内容と なっております。(コメント参照)

というわけで、結末を削除しました。今回、数十年ぶりに再読しましたが、新たな感動がありました。これを機会に、翻訳でも、原書でもぜひ挑戦してみてください。


「6月11日にあった主なできごと」

1899年 川端康成誕生…「伊豆の踊り子」 「雪国」 など、生の悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづった功績により、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家・川端康成が生まれました。(2008年6月11日ブログ 参照)

今日6月10日は、水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康 の孫にあたり第2代水戸藩主の徳川光圀(とくがわ みつくに)が、1628年に生まれた日です。

光圀は、1628年に初代の水戸藩主徳川頼房の三男として生まれましたが、6歳のときには、江戸幕府3代将軍 徳川家光 の命令で、兄をさしおいて父のあとをつぐことが決まっていました。

少年時代の光圀は、やがては藩主になるというのに、学問をきらって、いつもわがまま勝手にふるまい、そばにつかえた家来たちを、たいへん困らせました。

しかし、17歳のときに中国の歴史書『史記』を読んでからは、急に、学問にはげむようになりました。伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)という兄弟が、おたがいに父のあとをつぐのをゆずりあって美しく生きた話に胸をうたれ、自分のおこないを反省して、心を入れかえたのだといわれています。

1661年に33歳で藩主になった光圀は、学問と武芸を重んじて武士たちの心がまえを正させながら、領民たちのために、思いやりのある政治を進めていきました。

とくに、貧しい人びとへやさしい目を向け、年貢に困っている農民、身寄りのない老人、孤児、医者にかかれない病人たちへ、救いの手をさしのべました。また、領内をまわって、代官の不正をいましめ、苦しめられている町人や農民を助けました。

そのころ、将軍 徳川綱吉 がだした「生類憐みの令」で、人間の命よりも犬の命のほうがたいせつにされていましたが、光圀は、この悪法にも反対して、ばかげた政治から人びとを助けようとしました。光圀が、自分で犬を殺して、その皮を綱吉へ送りとどけたこともあったということです。

いっぽう『史記』を読んで、国の歴史のたいせつさを深く考えるようになっていた光圀は、29歳のときから生涯をかけて、おおくの学者とともに約2000年の日本の歴史をまとめる大事業にとりくみました。

この大事業は、光圀1代では、とても果たせませんでした。しかし、光圀の死ごも長くひきつがれ、明治に入った1906年に397巻の『大日本史』として完成されました。

光圀は、62歳で藩主をしりぞいて、水戸のはずれの西山荘に隠居しました。そして、そのご亡くなるまでのおよそ10年間を、村びとたちとまじわりながら、のどかにすごしました。

藩主時代の心やさしい政治と、西山荘での、いかにもご隠居らしい生活がもとになって、のちに、おもしろおかしい『水戸黄門漫遊記』が作りあげられたのです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)26巻「新井白石・徳川吉宗・平賀源内」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「徳川光圀」をもとにつづりました。


「6月10日にあった主なできごと」

1863年 緒方洪庵死去…大阪に適々斎塾(適塾)を開き 福沢諭吉 や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した緒方洪庵(おがた こうあん) が亡くなりました。( 2008年6月10日ブログ 参照)

1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、6月10日を「時の記念日」に制定しました。

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