児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年06月

今日6月23日は、『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』などを著した女流作家 壺井栄(つぼい さかえ)が、1967年に亡くなった日です。

壺井栄は、1899年香川県の小豆島にしょうゆ樽職人の5女として生まれました。蔵元の倒産により、経済状態が厳しく苦労を重ねましたが、高等小学校を卒業後、およそ10年間、村の郵便局や役場に勤めました。

1925年に上京して、小豆島出身の詩人・壺井繁治と結婚しましたが、若い頃は、あまり文学には関心がなく、平凡な主婦として過ごしていたようです。
やがて、夫に刺激されて小説を書きはじめ、1938年に処女作である『大根の葉』を発表してから、『柿の木のある家』や芸術選奨文部大臣賞を受賞した『母のない子と子のない母と』『坂道』と郷土色に満ちた愛情あふれる作品を次々と書き続けました。

1952年に発表された『二十四の瞳』は、子どものための作品というより、子どもも楽しめる庶民の生活記録ともいうべき小説です。この原作に感銘した木下恵介監督は、1954年高峰秀子の主演で、叙情性あふれた作品にしあげ、小豆島の名は全国に知れわたりました。映画作品は、[反戦のメッセージを女教師と教え子のふれあいの中に描いた日本映画が誇る傑作]と絶賛されています。1954年度キネマ旬報ベストテン1位(ちなみに黒澤明監督『七人の侍』が3位)、ブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ 外国語映画賞などを受賞しました。

「二十四の瞳」のあらすじは、次の通りです。

1928年4月、師範学校を卒業したばかりの「おなご先生」大石久子は、瀬戸内海小豆島の島の岬の分教場に赴任してきました。そこに入学した12人(男子5人、女子7人)の子どもたちは、すぐに大石先生になつき、子どもたちは「大石・小石」とはやしながら、先生が大好きになります。しかし、村の人たち、とくに女房たちは、先生が自転車に乗り、洋服姿で登校するのが「ハイカラ」すぎると反感をもち、面と向かって悪口をいったりすることもありました。

村のあちこちを荒らした嵐がすぎると、長い夏休みが終わりました。大石先生は、子どもたちを連れて、道路にまで打ち上げられた石を海にもどす仕事をさせました。こんな先生のやり方も、村人たちは気に入りません。さびしさをまぎらすために、先生は子どもたちと海岸に出て「あわて床屋」や「浜辺の歌」をうたうのでした。

そんなある日、大石先生は子どもたちの作った落とし穴に落ちて、アキレス腱を切断してしまいます。先生の欠勤がつづき、子どもたちは先生に会いたくて、8キロもの道を歩いて訪ねていくのでした。親たちは、大石先生が、子どもたちにとってどんなにかけがえのない存在であることがやっとわかりました。でも先生は、自転車に乗れなくなったために、本校へ転任することになってしまいます。

やがて、大石先生は船員をしている青年と結婚。そして1932年、子どもたちは5年生になり、本校に通うようになって、大石先生と再会しました。満州事変、上海事変と、日本が軍国主義の道へ傾斜していく頃、不景気のために父親が失職し母親を失った教え子が学校にこれなくなったり、警察に「アカ」と決めつけられたり、軍人になりたいという男の子たちの姿に情熱を失い、大石先生は、彼らの卒業とともに退職を決意するのでした。

戦争は本格化し、成長した男の子たちは、次々と兵隊にとられていきます。その子たちの耳元へ「生きて帰ってくるのよ」とささやく先生でした。

長い戦争が終わった1946年、夫を戦争で失った大石先生は、岬の分教場に「おなご先生」としてふたたび教壇に復帰しました。教師となったかつての教え子の呼びかけで、生き残った教え子たちが集まり、大石先生の歓迎会が開かれました。しかし、男子5人のうち3人は戦死、1人は戦場で負傷し失明していました。女子7人のなかの1人は病死、もう1人は消息不明のまま。先生はすっかり「泣きめそ先生」になってしまいます。二十四の瞳は揃わなかったけれど、想い出だけは今も彼らの胸にしっかりと残っていたのでした……。

今日6月22日は、アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが、1752年にたこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにした日です。

ベンジャミン・フランクリンは、息子のウィリアムを連れて、フィラデルフィアの町はずれにある牧場へ急いでいました。

『フランクリンは、いまにも、かみなりが鳴りそうな空に、針金をとりつけた布のたこを上げました。たこ糸には、手もとのところに電気を通さない絹のリボンを結びつけ、たこ糸とリボンのあいだに、かぎをつるしました。そして、電気をためるライデンびんにそのかぎをつないでおきました。

まもなく、暗い空に、いなずまが走り、電気をおびたたこ糸が、毛ばだつのが見えました。思いきって、手をかぎに近づけてみると、手とかぎのあいだに小さな電光が飛ぶのも見えました。

フランクリンは、たこをおろして家にとんで帰り、ライデンびんにベルをつないでみました。すると、思ったとおり、ベルは鳴りはじめました。

「いなずまは、やはり、宇宙の電気だったのだ。それなら、もう、かみなりが落ちるのをおそれることはないぞ。高い鉄の柱を立てておけば、落ちてきたかみなりは、みんな地下へにげてしまう」

実験に成功したフランクリンは、かみなりが電気であることを証明すると、避雷針を発明しました』


以上『』内の記述は、いずみ書房ホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第6巻「フランクリン」から引用したものです。(フランクリンの詳しい生涯を記していますので、ぜひアクセスしてみてください)

電気に興味を持ったフランクリンが、1752年、雷を伴う嵐の中で凧をあげ、凧糸の末端にワイヤーで接続したライデン瓶により雷雲の帯電を証明するという有名なエピソードです。そして、雷の電気はプラスとマイナスの極性があることも確認したといわれ、この命がけの研究結果によってフランクリンは、イギリス科学者最高の権威であるロンドン王立協会の会員となりました。

この年の10月フランクリンは、避雷針の立て方を新聞に発表。これが今も使われている、空中放電を起こしやすくするために先端を尖らせた棒状の導体「避雷針」なのです。


「6月22日にあった主なできごと」

1633年 ガリレオ終身刑…イタリアの物理学者 ガリレオ は、宗教裁判で終身刑を言い渡されました。当時、地球は動かず太陽が地球を回っているという「天動説」がローマ教皇庁の考えでした。しかし、ポーランドの天文学者 コペルニクス のとなえた「地動説」を支持、みずからの観測を重ねて本に著したことで、教会の怒りをかい、罰せられたのでした。(まもなくトスカーナ大公国での軟禁に減刑) 病身だったガリレオは、厳しい取調べに、天動説を認める書類に署名しましたが「それでも地球は動いている」とつぶやいたといわれます。なお、この判決が359年後の1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、教会の誤りを公式に認めました。

今日6月19日は、「人間失格」 「走れメロス」 「斜陽」 「晩年」「ヴィヨンの妻」などを著した作家太宰治の生誕100周年の記念日です。毎年この日は、「桜桃(おうとう)忌」とよばれ、太宰治をしのぶ人たちが、三鷹市禅林寺にあるお墓の前に集うことで知られています。

昨年は没後60年、そして今年は生誕100年の記念日となりますが、太宰人気はいっこうに衰えることなく、昨年以上の太宰ファンが墓前へ訪れるだろうと、寺は予想しているそうです。若い時代に心に深い傷を負った太宰への共感は、時代を超えたものがあるのでしょう。

当社のある三鷹市では、市内のあちこちに太宰の記念碑や、かつての仕事場があった場所、なじみの店の跡など10か所に案内板を設置したり、「三鷹太宰治マップ」 をこしらえて、散策を楽しめるような工夫をこらす他、三鷹市役所のホームページでは、1939(昭和14)年9月から亡くなる1948(昭和23)年6月まで暮らした 「太宰が生きた町・三鷹」 という充実したページをこしらえています。

太宰治の眠る禅林寺の墓の前には、文豪 「森鴎外」 の墓があります。なぜ、森鴎外の墓の前が太宰治の墓があるのだろうと思っていましたが、このページにある「桜桃忌の歴史」を読んで納得しました。太宰の作品『花吹雪』に次のような記述があり、太宰の死後、美知子夫人が夫の気持ちを酌んでここに葬ったとあります。

「この寺(禅林寺)の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した」

そして、第一回の桜桃忌が禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、1949年(昭和24年)6月19日。6月19日に太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなんでいるのは、よく知られています。

以来、全国から10代、20代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった……と記されています。

なお、2008年6月13日ブログ「三鷹市と太宰治」 を参照いだだければ幸いです。


「6月19日にあった主なできごと」

645年 元号のはじまり…元号とは、明治・大正・昭和・平成のような年代の数え方で、645年のこの日、蘇我氏を倒した 中大兄皇子 (のちの天智天皇)が、わが国初の元号「大化」を定めました。江戸時代以前は、大きなできごとがあるたびに元号が変わっていましたが、明治から、天皇の即位から、亡くなるまでを一つの元号とする「一世一元制」となりました。

今日6月18日は、フランス皇帝ナポレオン1世が、1815年のこの日、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍に「ワーテルローの戦い」に敗れた日です。

1789年におこった市民革命「フランス革命」後のフランスをまとめあげ、皇帝となり、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを席巻したナポレオンは、フランスを代表する英雄として世界的にその名が知られています。ただし、その波乱に富んだ生涯は、必ずしも栄光に満ちたものばかりではありません。「ワーテルローの戦い」 は、ナポレオンが、最後の運命をかけた戦いでした。

ナポレオンは、1804年12月にフランス皇帝に就き、やがて1807年までにその勢力をイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土に拡げ、イタリア・ドイツ・ポーランドは属国に、オーストリア・プロイセンは従属的同盟国としました。しかし、スペインの内紛に介入しすぎたこと、ロシア遠征の失敗など苦戦が続き、1814年4月、イギリスのウェリントン将軍率いる大軍にパリまで攻めこまれて失脚、エルバ島に流されてしまいました。

ところが、ナポレオンが去った後、ルイ18世がフランス国王になったため、地位を失っていた貴族たちがもどってきて、革命でうばわれた土地を回収しはじめました。せっかく土地を手に入れた農民たちは面白くありません。戦争で苦労したことも忘れ、ナポレオンの復帰を願う声が高まりました。

1815年2月、エルバ島を脱出したナポレオンは1000名ほどの兵を連れて、ジュアン湾から上陸、パリへ進軍しました。「私は皇帝だ。わかるか」と呼びかけると、兵士も農民も「皇帝ばんざい」とさけびながら進軍に加わり、パリに近づいたころには2万にもふくれ上がったといわれています。これを知った国王は、あわててパリを逃げ出しました。

いっぽうオーストリアのウィーンでは、1814年9月から、ヨーロッパじゅうの皇帝や国王が集まって「ウィーン会議」を開いていました。フランス革命とナポレオンとの戦争が終結した後のヨーロッパ秩序再建と領土分割を目的とした会議で、1792年以前の状態に戻そうという意見が大勢を占めていました。しかし、各国の利害が衝突して数か月たっても、なかなか進行せず「会議は踊る、されど進まず」と評されていました。そんな時、ナポレオンがエルバ島を脱出し、ふたたび皇帝に返り咲いたとの報が入ると、危機感をいだいた各国に妥協が成立して、フランスに軍隊をさし向けました。

こうして6月18日、ベルギーのワーテルローで、12万4千の兵を率いるナポレオン軍と、イギリスのウェリントンが率いるイギリス・オランダ連合軍の9万5千とがぶつかり合いました。イギリスの歩兵は射撃に優れ、防衛戦にむいていて、フランス軍の砲車による猛攻をうまくかわしました。この日の朝にふった雨も影響して、戦況は一進一退です。そして午後5時頃、援軍を待っていたナポレオンでしたが、現われたのは、ブリュッヒャー率いる12万のプロイセン軍でした。これで勝負は決しました。

ナポレオンのいわゆる「百日天下」は終わり、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、セントヘレナ島に流されたのでした。

ナポレオンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房ホームページに公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第8巻「ナポレオン」をご覧ください。


「6月18日にあった主なできごと」

1940年 レジスタンス… ヒトラー 率いるドイツとの戦いに敗れ、首都パリが陥落すると、フランス軍将軍の ド・ゴール はイギリスへ亡命することを決断。ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と抵抗(レジスタンス)をフランス国民に呼びかけました。

1945年 ひめゆり学徒隊集団自決…太平洋戦争の末期、沖縄では一般市民を巻きこんだ地上戦が行なわれていました。この戦いで、負傷兵の看護を行なってい女子学徒隊は、この日軍に解散命令が出されため、アメリカ軍に包囲された洞窟内で、49名が集団自決しました。さらに沖縄戦終了までに、生徒123人、教師13人が亡くなりました。その霊をなぐさめ、悲劇を二度とくりかえしてはならないという願いをこめた「ひめゆりの塔」が、沖縄県糸満市に建てられています。

明治維新によって260年つづいた徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生しました。そして、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返すという「版籍奉還(はんせきほうかん)」が、1869年6月17日からはじまりました。

明治新政府の急務は、幕藩体制の解体を行い、王政復古の実質的な完成をめざすことでした。そのためには、各藩主が支配する土地と人民を、政府が支配しなくてはなりません。

当時藩に対する新政府の権力はまだ弱く、諸藩への命令も強制力のない太政官通達で行うしかありませんでした。版籍奉還の実施が急務と考えた新政府は、木戸孝允大久保利通 を中心に、薩長土肥の4大藩主を説いて、1869年1月20日、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させる版籍奉還の上表文を、薩長土肥4藩主の連名で提出しました。

これをきっかけに、5月初めまでに全国262藩の版籍奉還が提出され、完全に新政府の思惑は成功しました。こうして同年6月17日から、勅許(天皇による許可)が許されることになり、藩主は藩知事に任命されました。これまでの藩の主人としての立場ではなく藩の役人としての立場にされたわけです。

しかしこれだけでは、封建体制の打破にはいたらないと考えた新政府は、藩をやめて県を置く準備をはじめていました。そして1871年8月、藩を廃止して地方統治を政府の管轄する府と県に一元化した「廃藩置県」を行ないました。(当初は藩をそのまま県に置き換えたため、現在の都道府県よりもずっと細かく3府302県でしたが、1889年になって、北海道を除く3府43県となっています)

版籍奉還は、廃藩置県までの過渡的な措置といえるのかもしれません。


「6月17日にあった主なできごと」

1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。

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