児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年06月

今日6月30日は、20世紀最大の物理学者といわれるアインシュタインが、1905年に相対性理論に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌に発表したことを記念した「アインシュタインの日」です。

1905年当時、アインシュタインはスイス連邦特許局の無名の技師でした。役人のかたわら研究をつづけてきたアインシュタインは、特殊相対性理論、光量子の理論、ブラウン運動の理論などを発表して、またたくまに、世界の注目をあびるようになりました。大学を卒業してからわずか5年目、まだ26歳のときのことです。

『それまで、地球、宇宙の科学は、ガリレオが発見した物体の運動の法則や、ニュートンが発見した万有引力の法則などをもとにして考えられてきました。しかし、アインシュタインは、理論物理学の世界に、それらの法則だけでは、どうしてもとらえることのできない問題のあることをつきとめ、それを相対性理論などを中心にして、明らかにしてみせました。

(宇宙を飛んでいるロケットは、スピードがませばますほど、地球から見ると機体の長さがちぢんで見える。そして、スピードが光の速さに近くなると、ついには、そのすがたは消えてなくなってしまう。また、ロケットのスピードがますにつれて、時間は、だんだんおそくなり、超高速度で宇宙を旅行する人は、年をゆっくりとることになる。

物質については、これまで、その質量とエネルギーはべつのものと考えられてきたが、そうではない。2つは同じものであり、ほんの少しの物質でも、それを完全になくしてしまおうとすると、ぼう大なエネルギーがでてくる)

アインシュタインが、相対性理論をもとに発表したことのいくつかは、このようなことです。たいへんむずかしく、物理学者でも理解しにくいといわれています。しかし、アインシュタインがとなえたことは、未来の理論物理学の研究に、はかりしれない大きな光をあてました』

以上、『』 内の記述は、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開中の「せかい伝記図書館」第17巻「アインシュタイン」から抜粋したものです。アインシュタインの生涯に関心のある方は、ぜひアクセスしてみてください。


「6月30日にあった主なできごと」

1898年 日本初の政党内閣…それまでの内閣は、長州藩や薩摩藩などの藩閥が政権を担当していましたが、自由党と進歩党がひとつになった憲政党が、大隈重信 を首相に、板垣退助 を内務大臣に内閣が組織されたため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)といわれました。しかし憲政党に分裂騒ぎがおき、組閣後4か月余りで総辞職を余儀なくされました。

今日6月29日は、明治時代の洋楽揺籃(ようらん)期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した滝廉太郎(たき れんたろう)が、1903年に亡くなった日です。

「あっ、オルガンがある!」

だれもいない音楽室をのぞいた廉太郎は、思わずさけびました。明治時代の中ごろでは、オルガンはめずらしい楽器だったからです。

廉太郎は、すいつけられるように音楽室へ入って、そっと、オルガンに手をのばしました。するとそのとき、先生が現われました。廉太郎は、いそいで手をひっこめました。きっと、しかられると思ったからです。ところが、先生は、自分で曲をひいてみせると、廉太郎に「さあ、やってみろ」と、いってくれました。先生のやさしいことばに、廉太郎は、オルガンにとびつきました。そして、5、6回くり返すうちには、さっきの先生の曲を、じょうずに、ひけるようになってしまいました。

おどろいたのは先生です。やがて、先生の教えをうけた廉太郎は、学校の式では先生のかわりに『ほたるの光』などを、ひくようになりました。

これは、役人の子として1879年に、東京で生まれた滝廉太郎が10歳のころ、父の転勤にともなって大分県へひっこし、竹田高等小学校へ編入学したときの話です。家に、バイオリンやアコーデオンがあり、自分でもハーモニカや尺八が吹けた廉太郎は、幼いころから、音楽にしたしんで育ちました。

15歳の年、廉太郎は、わが子を音楽の道へ進ませることには反対だった父を説きふせて、東京の、高等師範付属音楽学校へ入学しました。むずかしい試験を突破した合格者のなかで、いちばん年下でした。しかも、このとき入学した30数人のうち4年ごにいっしょに卒業できたのは、わずか7人でしたから、廉太郎の才能がどんなにすぐれていたかがわかります。

廉太郎は、卒業ご、さらに音楽学校の研究科へ進み、自分は作曲を学びながら、学生たちにピアノを教え始めました。文部省が募集した中学唱歌に、廉太郎が応募した『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の3曲全部が入選したのも、このころです。

「日本の曲と、日本の詩が美しくとけあった歌を……」

廉太郎は、そのころ外国の曲に日本の詩をつけた歌が流行し始めていたなかで、西洋音楽のすぐれたところはとり入れながら、日本人の心に訴えかける日本の歌を求めたのです。

ところが、22歳でドイツへ留学した廉太郎は、その異国の地で結核にたおれ、つぎの年に帰国すると、あっけなく、短い生涯を終えてしまいました。歌曲、ピアノ曲のほか『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡も残して、人びとに惜しまれながら……。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「滝廉太郎」をもとにつづりました。

なお、音楽配信「ユーチューブ」では、『荒城の月』『花』など、たくさんの滝廉太郎作品を視聴することができます。


「6月29日にあった主なできごと」

1932年 特高の設置…特別高等警察(特高)は、日本の主要府県警の中に設置された政治警察で、この日に設置されました。警察国家の中枢として、共産主義者はもとより、自由主義者や宗教人らにも弾圧の手をのばし、国民の目や耳や口を封じ、たくさんの人々を自殺においこみ、虐殺させた思想弾圧機構ともいえるものでした。

今日6月26日は、ドイツ民話にある「ハーメルンの笛吹き男」が1284年、130人の子どもたちを連れたまま失踪した日です。

ハーメルンは、北ドイツのヴェーゼル川に面した、ドイツ・メルヘン街道沿いにある都市です。「ハーメルンの笛吹き男」の話は、グリム兄弟 らによって記録された民話ですが、ハーメルン市の公式記録文書にも記載されている実際に起こった失踪事件です。

この話にはいくつかの異なったバージョンがありますが、およそこんなストーリーです。

この年、ハーメルンの町にはネズミが大量発生していました。何百匹、何千匹と、町のいたるところを占領し、住人はネズミの被害に悩まされていました、そして、その数は日に日にふえていきます。ネコやイヌをけしかけても、逆にネコやイヌがネズミに襲われて逃げ出す始末。市長や議員たちは、1千ギルダーという懸賞金まで出してネズミ退治にやっきになりますが、どんな挑戦者も成功しません。

市長たちがあきらめかけたとき、長いぼろのガウンをまとった見知らぬ男が現れ、ネズミ退治をするというので、市長は退治ができたら賞金を出すと約束しました。

『さっそく、男は笛を軽く唇に当てました、するとかん高い調べが町じゅうにひびき渡りました。その調べが風に乗ってさらに遠くの方へ流れるにつれ、何かが起こりはじめました。まず、軍隊が行動を起しているかのような、ガヤガヤ、ゴーゴーという音が聞こえてきました。つぎは騒ぎまわる音やざわめく音が聞こえ、さらにキュウキュウ、チュウチュウという音が聞こえ、ネズミたちが家からどんどん出てきます。窓から、ドアから、屋根裏部屋や地下室から、あらゆる隅やかくれ穴から……。

あらゆる種類のネズミがいました。大きなネズミに小さなネズミ、黒いネズミに灰色のネズミ。抜け目のないすばしっこいのもいましたし、のろまでネズミらしくないのもいました。お父さんネズミ、お母さんネズミ、姉妹ネズミ、兄弟ネズミ、みんなどんどん出てきました。すぐに笛ふきはネズミに囲まれてしまいました。あたりは暗くなりかかりましたが、笛ふきは通りをどんどん進んでいきました。ネズミたちは、笛吹きの後をぞろぞろぞろぞろ追いかけます。

笛吹きは落ち着いた足どりで町からねずみたちを連れ出し、広いヴェーゼル川までやってきました。まだ笛を吹きながら。男はボートに乗りこみ、深みへとボートを動かしました。いつまでも続くドブンドブンという音とともに、ネズミたちは暗い川にとびこみました。こうしてネズミたちは溺れ死にました、最後の1匹までも……』(「レディバード100点セット」笛吹き男より)

こうしてハーメルンの町はネズミの被害から救われました。ところが、男が町へ戻ってくると、金をやるのが惜しくなった市長たちは、礼をいうどころか、手のひらを返したような態度で「そんな約束をしたおぼえはない。薄汚い乞食め、とっとと町から出て行け」というのです。激怒した男は町から出て行きました。

それからしばらくたった6月26日、あの笛吹き男が、再びハーメルンに現われました。やがて男は路上で笛を吹き鳴らしはじめました。すると、あの時のネズミと同じように、たくさんの子どもたちが男のもとへ走りよってきました。そうして集まった合計130人の子どもたちはみんな、笛の音に合わせて踊りながら、楽しげに男のあとをついて通りを抜け、町を出ていき、山の洞窟の中に誘われるように入っていきました。それ以来、笛吹き男も洞窟に入った子どもたちも、二度ともどってくることはありませんでした……。

なお、「ハーメルンの笛吹き男」の詳しい内容は、「いずみ書房のホームページで公開中の「レディバード100点セット」第43巻「笛吹き男」の参考訳をご覧ください。


「6月26日にあった主なできごと」

1945年 国際連合憲章の調印…4月25日からドイツまたは日本に宣戦している連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開き、この日国際連合憲章が採択されました。国際連合の発足は、同年10月24日で、最初の加盟国は51か国。主な活動目的は国際平和の維持、経済や社会などに関する国際協力の実現です。日本が国際連合に加盟したのは1956年12月、80番目の加盟国でした。現在の加盟国は192か国。

今日6月25日は、『春の海』など、琴を主楽器とする日本特有の楽曲(箏曲<そうきょく>)の作曲者、演奏家として世界に名を知られた宮城道雄が、1956年愛知県の刈谷駅近くで急行列車から誤って転落して亡くなった日です。

宮城道雄の作曲した『春の海』をきくと、おだやかな春の日ざしをあびた静かな海の風景が、眼の前にうかんでくるようです。琴と尺八という日本の伝統的な楽器をつかいながら、この曲はこれまでの邦楽(日本の音楽)とはまるでちがった新しい曲になっています。

1894年4月、神戸市三宮に生まれた道雄は、小さいときから悪かった眼が、8歳のころにはまったく見えなくなってしまいました。父は、盲目でも生きていくことができるようにと、道雄を中島検校という琴の先生に弟子いりさせました。中島検校の教え方はきびしいものでした。「千べんびき」といって、冬の寒い日でもまどをあけはなしたまま、同じ曲を1週間つづけてひくのです。寒さで指がかじかみ、血のふきでることもありました。しかし、琴をひく手を少しでもやすめれば、先生からひどくしかられます。道雄は歯をくいしばって練習にはげみました。

11歳のとき、朝鮮(今の韓国)で行商をしていた父がけがをして入院したため、お金を送ってこなくなりました。祖母と暮らしていた道雄は、先生のかわりにほかの弟子たちに琴を教えてやっと生活を立てていきました。13歳の時には、父のいる朝鮮の仁川にわたりましたが、ここでも道雄は琴と尺八を教えて、一家をやしなわなければなりませんでした。

こうした生活のなかでも、音楽に打ちこんだ道雄は作曲をはじめ、15歳のとき、『水の変態』を作りました。これは、雲、雨、雪とさまざまにすがたを変えてゆく水のふしぎを曲にしたもので、今も名曲として親しまれています。また、西洋音楽のレコードをたくさんきいて「邦楽にも西洋音楽のよさをとり入れて、新しい音楽を作りだそう」と考えました。

1917年、道雄は東京に出ました。そして『落葉の踊』『秋の調』『さくら変奏曲』などを作曲するとともに、新しい型の琴を作って、邦楽に新しい生命をふきこみました。

1933年、フランスの女性バイオリニスト、ルネ・シュメーが日本にきました。シュメーは『春の海』がとても気に入って、尺八の部分をバイオリンで演奏するように編曲して、道雄の琴と合奏しました。演奏会は大成功でした。シュメーは、外国でもこの曲を演奏し、レコードにもなりました。そして『春の海』とともに宮城道雄の名は世界に知られることになりました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「宮城道雄」をもとにつづりました。

なお、宮城道雄は随筆家としての評価も高く、オンライン図書館「青空文庫」 では16編を公開しています。また、音楽配信で著名な 「ユーチューブ」 では、『春の海』などたくさんの作品を視聴することができます。


「6月25日にあった主なできごと」

1950年 朝鮮戦争の勃発…第2次世界大戦での日本の敗戦によって、植民地から解放された朝鮮でしたが、自ら独立を勝ち取ることができず、38度線を境に、アメリカの支援する韓国と、ソ連・中国の支援する北朝鮮に分かれました。この日、北朝鮮が38度線を突破して韓国に侵入、3年余りも続く朝鮮全土を戦場とする「朝鮮戦争」がはじまりました。この戦争で朝鮮半島は荒廃し、両国は3年後に休戦をしましたが、平和条約を結ばないまま、現在に至っています。

今日6月24日は、豊臣秀吉 の家臣として仕え、秀吉没後は 徳川家康 の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって熊本藩主となった加藤清正(かとう きよまさ)が、1562年に誕生、1611年に亡くなった日です。

加藤清正は、尾張国(愛知県)中村に生まれ、幼名を夜叉丸といいました。父を早く失い、幼いうちに母の縁をたよって近江国(滋賀県)長浜に移り、そのころ長浜城の城主となっていた羽柴(豊臣)秀吉に仕えました。元服ご、虎之助清正と名のります。

清正は、19歳のころから出陣して、次つぎに手がらをたてました。とくに、清正の名をとどろかせたのは、秀吉が柴田勝家と天下を争った賤ケ岳の戦いです。やりを手にした勇ましい戦いぶりで、秀吉の家来の7本やりのひとりに数えられるようになり、3000石を与えられました。そして、秀吉が天下統一への道を進めば進むほど、清正も出世をとげ、1588年には、肥後国(熊本県)の半分を支配する19万5000石の大名になりました。このとき、まだ26歳の若さでした。
 
1592年、1万の兵をひきいて海を越え、朝鮮へ攻めこみました。明(中国)を討つために、まず朝鮮を征服しようとする秀吉の命に従ったのです。城を落とし、国王を追い、王子を捕えて北へ北へ進む清正の戦いぶりは、のちに虎退治をしたという話までつくられるほど、勇ましいものでした。
 
ところが、明軍が朝鮮に味方をするようになると、戦いは苦しくなり、いっしょに出陣していた小西行長や日本にいた 石田三成 らの考えで、朝鮮との講和がすすめられました。でも清正は戦いつづけることをとなえ、そのため行長、三成と少しずつ対立するようになっていきました。

講和は成功せず、日本へひきあげていた清正は、1597年にふたたび海を越え、勇敢に戦いました。

文禄・慶長の役とよばれる、この朝鮮での戦いは、1598年の秀吉の死で中止されましたが、対立した行長や三成とのみぞは、ますます深まるばかりでした。

秀吉が死んだあとの権力争いから、1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、九州にいた清正は、行長の城を攻めました。徳川家康がわについたのです。そして、その手がらで52万石の大名となり、天下に誇る熊本城をきずきました。しかし、このとき家康に味方をしても、豊臣家の恩は、生涯、忘れませんでした。そのごも、秀吉が残した秀頼を守りつづけています。

49歳で世を去った清正は、けっして、ただ強いだけの武将ではありませんでした。城をきずく技術にすぐれ、また、土木工事に力を入れて田を広げ、領民たちのことを深く考えた政治を進めました。いまも、「清正公(せいしょこ)さん」とよばれて、熊本の人びとに愛されつづけています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)24巻「武田信玄・織田信長・豊臣秀吉」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「加藤清正」をもとにつづりました。


「6月24日にあった主なできごと」

672年 壬申の乱の始まり…大化の改新以来、新しい政治をおこなってきた天智天皇が671年に亡くなり、その子の大友皇子が弘文天皇となりました。吉野(奈良県)で出家し、隠遁していた天智天皇の弟・大海人(おおあまの)皇子は、この日吉野を出て、地方豪族を味方につけて反旗をひるがえし、朝廷軍に勝利、弘文天皇を自害させて、天武天皇 となりました。この古代最大の内乱は「壬申(じんしん)の乱」と呼ばれています。

↑このページのトップヘ