児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年05月

今日5月8日は、大坂(大阪)夏の陣で、1615年のこの日に大阪城が落城し、豊臣氏が滅亡した日です。

大坂(大阪)城は、安土桃山時代に権勢を誇った 豊臣秀吉 が、海陸交通のかなめでもある石山本願寺跡地の台地に、1583年に築城を開始しました。毎昼夜3万人以上を働かせ、3年がかりでこしらえた壮大なもので、秀吉が死去するまでに石垣を高く巧妙に積み重ねた本丸、二の丸、三の丸、総構えを建設。二重の堀と運河によってこれを囲むなど、防衛設備もしっかり施されました。天守は、外観5層で、外壁などに金箔をふんだんに用いた、まさに豪華絢爛な城だったようです。大坂城の普請中に秀吉を訪問して、城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双と称えたといわれています。

1603年に徳川幕府が成立した後も、秀吉と側室の茶々(淀君)の子である後継者の豊臣秀頼は大坂城に留まり、摂津・河内・和泉を支配していました。1614年の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められましたが、当時の徳川軍の大砲では、びくともしない堅牢さです。そのため、徳川家康 はいったん講和して、三の丸・二の丸の破却を取り決め、大坂城は内堀と本丸のみを残すだけにしてしまいました。

そのため秀頼は、外堀を埋める約束はしていないと堀の再建を試みましたが、家康はこれを講和条件破棄とみなし、冬の陣から4か月後のこの日、再び総攻撃を加えた(大坂夏の陣)のです。豊臣側は、真田幸村や後藤又兵衛ら強い武将を指揮官に戦いましたが、内部に裏切りもあって城に火をつけられ、さすがの大坂城も落城、秀頼と母淀君は自害して、ついに豊臣氏は滅亡してしまいました。


「5月8日にあった主なできごと」

1859年 デュナン誕生…負傷兵を敵味方を問わずに助ける「国際赤十字」のしくみをこしらえたスイスの社会事業家アンリ・デュナンが、この日に誕生。この誕生日を記念して、5月8日は、「世界赤十字デー」として、1948年から国際的な記念日となっています。( 2008年5月8日 のブログ参照)

今日5月7日は、35年かけて完成させた「古事記伝」など数多くの古代日本を探る研究書を著した、江戸時代中期の国学者・本居宣長(もとおり のりなが)が、1730年に生まれた日です。

江戸時代に大切にされた学問は、古代中国の孔子を始祖とする思考・信仰の体系ともいうべき儒教(儒学)の流れをくむ、朱子学が中心でした。儒教は、仁(人を思いやる)、義(恩に報いる)、礼(人の上下関係で守るべきこと)、智(学問に励む)、信(親睦を深める)という5つの徳性を重視しており、とくに朱子学では、なにごとも「天の道」をかかげ、身分の上下も、下の者が上の者に従うのも「天の道」といって士農工商の身分制度を正当化したり、「忠孝」をとなえて人々を統制するといったように、幕府や武士に都合のよいものでした。

江戸時代も中期になると、江戸幕府のしくみがゆらぎだし、金をにぎった商人から借金をしないと、大名や武士はやっていけないような状態で、百姓は「天の道」にそむいて、あちこちで一揆をおこすしまつでした。幕府のすすめる朱子学に疑問を持つ人たちもあらわれはじめ、中国やインドなどの学問や宗教が入ってこなかったころの、本来の日本の考え方を研究する必要があると、古い日本の書物を研究する人たちがあらわれました。その学問が「国学」です。

本居宣長もその一人で、京都で医学を学んだ後、生家のある伊勢(三重県)の松坂にもどり、『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励みました。27歳の時、『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵(かもの まぶち) の書に出あって国学の研究に入ることになりました。1763年5月、宣長は、松阪を来訪した真淵にあい、かねてから志していた古事記の注釈について指導を願いでて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意したのです。そして、35年の歳月を費やして『古事記』注釈の集大成『古事記伝』44巻を完成させ、契沖、荷田春満(かだの あずままろ)、賀茂真淵とともに [江戸国学の4大家] の一人といわれるようになりました。

宣長は『古事記伝』以外にも、『源氏物語』を注解した『源氏物語玉の小櫛』や随筆集『玉勝間』などがあり、日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱したことも有名です。

宣長の残した、古代日本を探る研究と、古代日本人の心を讃える考え方は、およそ500人もの弟子たちによって受けつがれ、やがて国学の道は、天皇を尊び、江戸幕府を倒そうとする尊皇討幕の精神を、武士たちにうえつけていくきっかけとなりました。そして、宣長に共鳴した平田篤胤らによって、天皇を中心とした考えが強くとなえられるようになり、それは、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。こうして宣長の思想が、明治維新をへて、明治という新しい時代を生むことにつながっていったのです。

なお、本居宣長の詳しい生涯は、いずみ書房「せかい伝記図書館」 (オンラインブック「本居宣長」) をご覧ください。


「5月7日にあった主なできごと」

1824年 第九の初演… ベートーベン の交響曲第九番(合唱付)が、この日オーストリアのウィーンで初めて演奏されました。約80人のオーケストラと100人の合唱によるもので、すでに耳がきこえなくなっていた54歳のベートーベン自身も指揮台にたって、各楽章のテンポを指示しました。熱狂した観客はアンコールをくりかえし、3度目のアンコールを警官に止められたという逸話が残っています。この曲は日本でも「第九」として親しまれ、第4楽章は「歓喜(よろこび)の歌」という名で知られています。

今日5月1日は、世界各地の労働者が、国際的に統一して権利要求と国際連帯の活動を行なう「労働者のお祭り」の日、メーデーです。

メーデーは、1886年5月1日にアメリカの労働者たちが、シカゴを中心に労働時間を8時間にするように、ストライキを行ったことがきっかけとなりました。当時は、1日12時間から14時間労働が当たり前だったため、「8時間は仕事のために、8時間は休息のために、そして8時間は、自由な時間に」を目標に行なわれたといわれています。

そして3年後、パリで開かれた労働者の国際大会で、5月1日を労働者の国際的連帯の日とすることを決議、1890年のこの日、ヨーロッパ各国やアメリカなどで第1回国際メーデーが実施されました。それ以後も、労働者の権利を主張する運動をはぐくみ、それぞれの国の労働者がその時々の要求を掲げ、団結と連帯の力を示す日として継続・発展させてきました。

日本でのメーデーは、1920年5月2日の日曜日に東京・上野公園で、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えたのがはじまりで、翌年からは5月1日となりました。

しかし、1936年におきた二・二六事件によって戒厳令がしかれた後、メーデー開催も禁止され、やがて戦争が激化するにともなって開かれることはなく、1946年「働けるだけ食わせろ」をスローガンに掲げたメーデーが、11年ぶりに盛大に開かれました。

1951年のメーデーは、サンフランシスコ講和条約締結を間近にひかえ、反対運動の盛り上がりを恐れた政府とGHQは、広場の使用を禁止したため、総評は中央メーデーを中止。一方で統一メーデー促進会は「全面講和をかちとれ」「再軍備に反対せよ」のスローガンを掲げて、芝公園で実質的な中央メーデーを開催しました。

日本の主権回復後に行われた1952年のメーデーは、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約(安保)への抗議も主張に含まれました。その際、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と激しく衝突し、死者2名、重軽傷者740名以上を出す大惨事となりました(血のメーデー事件)。

その後、労働組合の組織対立の激化や、この日前後のゴールデンウィークで長期休暇を取る人たちが増え、労働組合活動が低調になって、参加者数が減少しています。

しかし、現在でも、全国各地でデモ行進や集会が行なわれ、家族連れで参加する人たちも多く見うけられます。

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