児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年05月

今日5月15日は、「オズの魔法使い」をはじめとする「オズ」シリーズの作者として有名なアメリカの児童文学作家バウムが、1856年に生まれた日です。

ファンタジックな60編以上の童話、児童文学作品を残したライマン・フランク・バウムは、アメリカのニューヨーク州の小さな村に、9人兄弟の7番目として生まれました。

父が油田で財を築いた人だったため、バウムは裕福な環境で育ちましたが、12歳で士官学校に入れられてしまいました。病弱だったために、両親は彼を鍛え上げようと意図したようです。しかし、バウムは、2年間の不本意な生活の後、退学してしまいました。

バウムは、小学生の頃から創作や雑誌づくりに興味があり、17歳で「切手収集家」という雑誌を創刊、20歳のころには養鶏の専門誌を出版したほどでした。次にバウムが傾倒したのは、演劇でした。興行的な失敗によって幾度となく破産寸前に陥りましたが、24歳のとき、父は彼のためにリッチバーグに劇場を建ててくれ、バウムは脚本家の地位につきました。そして、2年後に結婚しましたが、劇場の火事にあい、建物のみならず脚本の多くも焼失してしまいました。しかたなく、バウムは妻と「バウム市場」という店を開きましたがうまくゆかず、店は結果的に破産。バウムは地元の新聞記者となりました。ところが、この新聞社もまもなく倒産、バウムは妻と4人の息子と共にシカゴに移り、新聞記者の仕事を見つけましたが、セールスマンとしても働かなくてはならなりませんでした。

1897年、バウムは「マザー・グース物語」という、マザー・グースの韻文を、散文の小説にした短編集を刊行しました。そこそこの成功を修め、セールスマンをやめることが可能になりました。それから2年後、1899年に発表したナンセンス詩集「ファーザー・グース」は、その年の児童書のベストセラーとなりました。そして1900年、バウムは代表作「オズの魔法使い」を刊行しました。

この作品は、[アメリカ・カンザス州に暮らす少女ドロシーは、竜巻に家ごと吹き飛ばされて、飼い犬のトートーといっしょに、不思議な「オズの国」へつきます。途中で脳の無いカカシ・心の無いブリキの木こり・臆病なライオンと出会い、それぞれの願いを叶えてもらうため「エメラルドの都」にいるという大魔法使いの「オズ」に会いに行く…] という、いかにもアメリカ的なファンタジーで、作品は、批評家からも絶賛を浴び、商業的にも大成功を修めました。

2年間にもわたり、児童書のベストセラーの地位に君臨し続けたばかりか、オズシリーズは、「オズの虹の国」「オズのオズマ姫」 「オズと不思議な地下の国」「オズへつづく道」 「オズのエメラルドの都」など、続編を13作も書くことになりました。シリーズのいくつかは、ミュージカルや演劇となって、今でもアメリカの子どもたちばかりでなく、世界の子どもたちを魅了しています。

なお、いずみ書房のオンラインブック「レディバードブックス100点セット」では、「オズの魔法使い」 を収録していますので、ぜひ目を通してみてください。


「5月15日にあった主なできごと」

1932年 5・15事件…海軍の若い将校や右翼の若者たちが、政党や財閥をたおし、軍を中心にした国家権力の強い国をうちたてることをくわだて、首相官邸や警視庁などを襲撃、犬養毅 首相を射殺する事件が起こりました。この惨劇により、14年間続いた政党内閣は断絶し、わが国はファッシズムへの道を歩むことになります。

1972年 沖縄本土復帰…第2次世界大戦後アメリカに占領されていた沖縄が、26年ぶりに返還され、沖縄県として日本に復帰しました。

今日5月14日は、明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた最大の指導者大久保利通(おおくぼ としみち)が、1878年に暗殺された日です。

1830年、利通は薩摩藩(鹿児島県)の下級武士の家に生まれ、西郷隆盛 とは同じ町内にすむ幼なじみでした。少年時代から利通は、冷静にものごとを判断する性格で、武芸よりも文才にぬきんでたものがありました。しかし、20歳のころ、父が藩の世つぎをめぐる争いにまきこまれて島流しにあい、利通は一家の中心になって家計のきりもりをしなければなりませんでした。利通のねばり強さは、この時代にきたえられたといわれています。

幕末のころの薩摩藩は、藩主島津忠義の父久光が実権をにぎっていました。利通は、この久光に近づいて重く用いられるようになり、しだいに藩政に参加できるようになりました。利通の考えは、はじめのうちは朝廷と幕府が力をあわせて政治をおこなう公武合体論というものでしたが、しだいに幕府を倒して、天皇を中心にした新しい政府を作るという意見に変わりました。

やがて、西郷とともに薩摩の指導者となった利通は、討幕の方針をとるように藩の意見を変えさせ、1866年には 坂本龍馬 のあっせんにより、長州藩と手をにぎりました。さらに翌年には、討幕派の岩倉具視とひそかに通じて、王政復古の計画を綿密にたてるなど、激動する幕末の政局に終始指導的な役割をはたしていきました。

幕府がたおれて明治政府ができると、利通は西郷、木戸孝允 らと協議しながら、藩の領地や人民を天皇に返させる「版籍奉還」、藩そのものをなくして府県制度にする「廃藩置県」、士農工商の身分制度をやめるなど、数かずの政策を実行しました。

利通は1871年、岩倉、木戸、伊藤博文 らと欧米視察の旅に出ました。この旅行で、諸外国の進歩した政治や経済のしくみをみた利通は、まず国内を整備して日本の力をたくわえることが大切であることを痛感しました。そのため、「征韓論」をとなえて朝鮮に軍隊をおくろうと主張する西郷らと対立しました。西郷は征韓論にやぶれて政府を去り、利通は政府の独裁的指導者になっていきました。

産業の近代化をはかる「殖産興業」と「富国強兵」を旗じるしに、利通は信念をもって、近代国家への足がためを進めました。しかし、利通の専制的なやり方に不満を持つ者もおおく、1878年のこの日、不平士族に暗殺されてしまったのです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)31巻「福沢諭吉・坂本龍馬・板垣退助」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「大久保利通」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「5月14日にあった主なできごと」

1221年 承久(じょうきゅう)の乱…後鳥羽上皇はこの日、京都近隣の武士1万7千人を集め、鎌倉幕府執権の北条義時追討の命令を出しました。幕府軍は19万の軍勢でこれをむかえ討ち、敗って、上皇を隠岐島へ流しました。鎌倉幕府成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、この乱以降は幕府が優勢となり、皇位継承にまで影響力を持つようになりました。

1796年 ジェンナーの種痘…イギリスの外科医ジェンナーは、牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとしました。そのため、5月14日は「種痘記念日」に制定されています。( 2008年5月14日ブログ 参照)

1839年 蛮社の獄…この日、江戸幕府目付の鳥居耀蔵は、田原藩士 渡辺崋山高野長英 らを逮捕しました。蛮社とは、洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会(しょうしかい)を「野蛮な結社」と国学者たちがさげすんだことによります。崋山や長英らは、浦賀沖へ来航したアメリカ船モリソン号に砲撃を加えたことを非難。これへの反感からの逮捕でした。

1948年 イスラエル建国…イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという、ヨーロッパを中心におこった「シオニズム運動」の結果、紀元前のイスラエル王国にちなんだユダヤ人の国家イスラエルを、この日に建国しました。これに怒ったレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5か国は戦争を宣言、9か月にわたるパレチスナ戦争(第1次)がはじまりました。この戦争で、パレスチナを追われた100万人ものアラブ人は難民となり、いまだに「アラブ─イスラエル」対立の構図はなくなりません。

今日5月13日は、ノルウェーの科学者でありながら北極探検で多くの業績を残し、政治家として国際連盟の結成にも力をつくしたナンセンが、1930年に亡くなった日です。

1893年6月、ノルウェーのクリスチアニア(いまのオスロ)港から、フラム号という1せきの船が、北極へ出発しました。乗りこんでいるのは、31歳のナンセンと12名の探検隊です。

おわんを細長くしたような、きみょうな形のフラム号は、流氷にぶつかってもこわれないように造られています。シベリアの沖から北極を通ってグリーンランドへ流れる海流に乗り、流氷といっしょに北極へ向かい始めました。

ところが、おそろしいほど厚い流氷にかこまれてしまった船は、1年たっても、ほんのわずかしか進みませんでした。

「このままだと、北極へたどり着くのはむりかもしれない」

ナンセンはフラム号に別れをつげ、隊員のヨハンセンとふたりだけで、からだのしんまで凍りつくような寒さと闘いながら、氷原を犬ぞりで走りました。しかし、20日もすると、人間も犬も、すっかりつかれはててしまいました。

ナンセンは、北緯86度14分の地点に国旗を立てて、ひき返すことにしました。白クマにおそわれたり、食べ物がなくなったり、おおくの苦しみをのりこえてノルウェーにもどったのは、クリスチニアの港を出てから3年2か月ののちでした。

この探検で、北極点への夢は果たせませんでしたが、北極奥地の未知のすがたを、初めて世界に知らせました。

1861年、ノルウェーに生まれたフリチョフ・ナンセンは、少年時代から、スキーで野や山をすべり歩くのがすきでした。

大学では動物学を学び、卒業ごは、北極海へアザラシの調査に行きました。そして、しだいに雪と氷の世界に心をひかれるようになり、26歳のときに成功した世界最大の島グリーンランドの横断につづいて、フラム号で北極にいどんだのです。

フラム号をおりてからは、国際海洋研究所の所長をつとめ、北の海の調査や研究に、大きな業績を残しました。

40歳をすぎてからは、人類全体の幸福を願う人道主義にもえて、政治の世界でも活やくするようになりました。1914年に始まった第1次世界大戦では、戦争のひさんさを知りました。

戦争が終わると国際連盟の結成に力をつくし、その夢を1920年に果たしてからは、シベリアに送られている数10万人の捕りょと、ききんで苦しんでいるロシアの難民の救済に、全力をそそぎました。人類愛に根ざしたはたらきがたたえられ、1922年にノーベル平和賞がおくられたとき、ナンセンは61歳でした。

フラム号のフラムは、前進という意味です。ナンセンは、その船の名のとおり、勇気と愛で前進をつづけた人でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ナンセン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「5月13日にあった主なできごと」

1401年 日明貿易…室町幕府の第3代将軍 足利義満 は、民(中国)に使節を派遣し、民との貿易要請をしました。民は、遣唐使以来長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、民の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易(かんごうぼうえき)」とも呼ばれています。

今日5月12日は、、江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者として有名な青木昆陽(あおき こんよう)が、1698年に誕生した日です。

1698年、江戸(東京)日本橋の魚問屋に生まれた昆陽は、若いころから学問がすきで、京都にのぼって儒学者伊藤東涯に学びました。東涯の学問は、古義学という学風で、実さいに役に立つ学問、実学を重んじていました。昆陽がのちに甘藷(かんしょ)の普及に努力したのも、東涯の研究のしかたを身につけていたからでしょう。

江戸に帰った昆陽は、小さな塾を開くかたわら、両親のめんどうをみていました。やがて父が死に、3年ごに母が死ぬと6年ものあいだ喪に服していました。そんな孝行心が学問とともに世に知られ、町奉行 大岡忠相 に認められるようになりました。

そのころの日本は、4、5年ごとに米のとれない年がくり返され、おおくの人が飢えに苦しんでいました。とくに1732年からよく年にかけて全国的な不作にみまわれました。各地で一揆がおき、飢え死にする人もかなりの数にのぼりました。

「そうだ、甘藷がいい。甘藷のおかげで薩摩(鹿児島)ではひとりも飢えた人はなかった。甘藷は荒れ地でもたくさんできる」

昆陽は、サツマイモについて、さらにくわしく調べました。そして、サツマイモの効用、作りかた、食べかたなどを記した『甘藷之記』を書いて、大岡忠相にさしだしました。忠相はすぐにそれを将軍 徳川吉宗 に報告しました。吉宗は感心して、さっそく昆陽に試作するように命じました。

小石川の薬園などでおこなわれた試作は成功し、その年の秋には、まるまると肥えたサツマイモがたくさんとれました。

「うーむ、これは味もよい。ぜひ国じゅうに広めてくれ」

吉宗の命をうけて昆陽は、実地の研究をもとにしたサツマイモのやさしい作りかたの本と種イモを、いたるところにくばって栽培をすすめました。昆陽が「甘藷先生」といわれるようになったのは、このためです。サツマイモが全国に普及すると、昆陽はその功績により、幕府の書物方となり、のちに書物奉行にまでなりました。一町人の子が、幕府の奉行にまでなったのですから、当時としては、たいへんな出世でした。

将軍吉宗は、さらに昆陽にオランダ語を学ぶことを命じました。昆陽は江戸にきたオランダ人から、いろいろなことを学び『和蘭文訳』などを書いて、蘭学がさかえるもとをひらきました。これらの本は、のちにオランダ医学書をほん訳した 杉田玄白 や前野良沢らの基礎となっています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)28巻「塙保己一・良寛・葛飾北斎」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「青木昆陽」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「5月12日にあった主なできごと」

1820年 ナイチンゲール誕生…「クリミヤの天使」「愛の天使」と讃えられ、近代看護学の普及に尽力した ナイチンゲール が誕生した日です。この日は、国際的にも「ナイチンゲール・デー」 と制定され、1991年から日本でも「看護の日」 とされています。( 2008年5月12日のブログ 参照)

1939年 ノモンハン事件…日本軍が実質的に支配する満州国とモンゴルの国境線にあるノモンハン付近では、両国の主張する国境線の違いから、ときおり小規模な紛争をくりかえしてきました。しかし、この日の紛争は大規模なもので、日本とモンゴル、モンゴルと軍事同盟をむすんでいるソ連軍がからんで長期戦となりました。戦闘は9月まで続き、日本軍は優秀な機械化部隊によるソ連軍の援軍に苦戦し、戦没者数を1万8000人ともいわれる敗北をきっしました。ソ連側も2万人を越える死傷者があったようで、同年9月15日に休戦協定がむすばれました。

おもしろ科学質問箱 17

海岸の浅瀬で潮干狩りを楽しんでいるうち、あっというまに潮が満ちてきて、びっくりした体験をした人は多いことでしょう。

潮の満ち干は、おもに月の引力によっておこります。地球の表面が月に近いところでは、月の引力が海水を引きつけ、その反対側には遠心力が働くために、やはり海水が盛り上がります。これが満ち潮です。

その中間では、両側に海水が引き寄せられるために、水の量がへるため水面が下がります。これが引き潮です。

月は、地球を毎日ひとまわりするために、満ち潮と引き潮は1日に2度おこるわけです。でも、地球には海もあれば陸地もあり、その陸地も複雑な海岸線や島など凸凹のあるところが多く、潮の満ち干は場所によってずいぶん違いがあります。九州の有明海では、満ち潮と引き潮の差が5mもあるのに対して、日本海では10~20cmです。カナダ東海岸にあるファンディ湾では、干満の差は15m以上もあり、世界一だそうです。

地球は、月の引力だけでなく、太陽の引力でも引っぱられます。ただし、太陽は月よりずっと遠くにあるため、地球への影響力は、月の45%程度です。太陽・地球・月とまっすぐに並んだとき(満月)や、太陽・月・地球と並んだとき(新月)が、一番干満の差が大きく、これを大潮といいます。その中間、月・地球・太陽が直角に並んだ(上弦の月・下弦の月)ときは、月の引力と太陽の引力が打ち消しあうため干満の差が少なく、これを小潮(こしお)といいます。

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