児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年05月

今日5月22日は、新田義貞が鎌倉幕府の執権北条高時を討ち、1333年に、鎌倉幕府が滅亡した日です。

鎌倉時代も後期になると、執権の北条氏の政治のやり方に、不満を持つ武士が多くなりました。そんな実情を知った 後醍醐天皇 は、武士に奪われた政権を自分たちのものにしようと、1331年に「元弘の乱」といわれる倒幕の兵をあげましたが、幕府方の勢いがまさり、天皇は、隠岐島にながされてしまいました。

しかし、1333年の5月になると、幕府側の御家人である上野国の 新田義貞 や下野国の 足利高氏(尊氏)らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集めはじめました。

この動きを知った後醍醐天皇は隠岐島を脱出して、ふたたび倒幕の兵を挙げました。京都では、足利高氏の兵が六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を滅ぼしました。

当時の鎌倉幕府の執権は、北条氏9代目の高時でした。北条氏は、有力な身内を全国にばらまいて治めていたため、関東の守りが手薄になっていたところに、新田義貞の軍が挙兵しました。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やし、数万人の規模にふくれあがったといわれています。

新田軍は、三方から鎌倉を攻撃しましたが、天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く苦戦。義貞は一計を案じ、幕府軍の裏をかいて稲村が崎から鎌倉へ突入、東勝寺で、北条高時ら北条氏一族283人を自害させ、鎌倉幕府が滅亡しました。

鎌倉幕府滅亡後は、1333年6月に、後醍醐天皇が「建武の新政」を開始しましたが、武士層を中心に不満がまきあがり、1336年に協力者だった 足利尊氏 の離反により、政権は崩壊しました。


「5月22日にあった主なできごと」

1775年 蒸気機関の特許…イギリスのエンジニアである ワット は、凝縮機、調速機、変速機の発明など蒸気機関の改良をおこなって、この日特許を取得しました。ワットの蒸気機関は、鉱山や工場で広く用いられ、産業革命の原動力となりました。

今日5月21日は、甲斐の武田勝頼と、織田信長・徳川家康軍との間で、三河の長篠城をめぐる戦いが、1575年にあった日です。

この戦いの2年ほど前、武田家の家臣だった奥平家は、武田信玄 の死後まもなく、徳川方へ寝返りました。徳川家康 は武田家から手に入れたばかりの長篠城を奥平貞昌に配したため、1575年4月、武田勝頼は1万5000人の大軍を率いて長篠城を包囲しました。そして、5月8日にこの城を攻め立てました。貞昌は500人というわずかな兵で持ちこたえていましたが、兵糧蔵を落とされてしまい、数日以内に援軍が来なければ落城という状況に追いつめられていました。

その間に、鳥居強右衛門(とりい すねえもん)という家臣は、密かに城を脱出して、家康のところにかけつけて窮状を訴えました。あらかじめ家康は、織田信長 に援軍を要請していたため、信長はすでに3万の軍勢を率いて岐阜を出発し、岡崎城に到着していました。

長篠城にとってかえした鳥居でしたが、あいにく武田軍に捕らえられてしまいました。武田方は、「援軍は来ない」と大声で伝えれば助命してやると提案、これに鳥居は承諾しました。ところが鳥居は直前になって約束を破り「援軍は数日以内に来る」とどなったために、たちまち殺されてしまったというエピソードが伝えられています。

この「長篠の戦い」で武田軍は、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。連合軍は、3000丁という数の鉄砲、さらに鉄砲隊を3つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法で、最強と呼ばれた武田の騎馬隊を破ったという、有名な通説があります。その規模や戦法はともかく、当時最大規模の鉄砲隊の投入、また騎馬隊を防ぐための馬防柵が効果を発揮したのは、まちがいなさそうです。この戦いによって長年の悩みであった武田家を抑えることに成功し、織田家は急速に勢力を拡大していきました。

いっぽう、武田家は、勝頼の下で再編成を強いられましたが、これに失敗。さらに上杉家や北条家との外交にも失敗して、1582年に滅亡してしまいました。( 2009年3月11日ブログ 「武田勝頼の自刃」参照)


「5月21日にあった主なできごと」

1927年 大西洋無着陸横断飛行…アメリカの飛行家リンドバーグは、前日ニューヨークを飛び立ち、この日の夜パリに到着しました。所要時間33時間30分、世界初の大西洋無着陸単独飛行でした。リンドバーグは、1931年には北太平洋を横断して日本にも到達し、大歓迎を受けました。

1928年 野口英世死去…世界的な細菌学者として活躍した野口英世は、アフリカで黄熱病の研究中に発病して、この日死去しました。( 2008年5月21日ブログ 参照)

今日5月20日は、スペインのイザベラ女王の援助を得て、最初にアメリカ海域へ到達したイタリア出身の探検家・航海者のコロンブスが、1506年に亡くなった日です。

コロンブスは、1446年にイタリアのジェノバに生まれたといわれていますが、1451年説などもあって、はっきりわかっていません。

父親は、毛織物業者だったため、コロンブスは家業を手伝いながら船乗りになり、イギリスや北海、アイルランド方面までも航海したようです。やがてポルトガルのリスボンで耳にした地球球体説に影響され、これまでの航海経験から、西へ西へ進み続ければアジアへと到達できるという考えに達しました。

肉食が中心のヨーロッパの人たちにとって、インド産のコショウは、料理や食卓になくてはならないものになっていました。中国の絹やセイロンの真珠など、東洋の品物はヨーロッパの人たちにとってあこがれの宝の山でもありました。さらに、マルコポーロの「東方見聞録」には、ジパング(日本)は、金の国と記されています。そのため、東洋への一航海で、巨万の富がえられると思ったにちがいありません。

1484年、ポルトガル国王に航海のための援助を求めましたが断られてしまいました。その頃ポルトガルはアフリカの喜望峰に達していて、わざわざ新しい航路を開拓しなくてもインドに着くと考えたからでした。そこで、コロンブスは、ラ・ラビタ修道院長の紹介で、1486年にイザベラ1世に援助を願い出ましたが、当時のスペインではイスラム勢力が占拠するグラナダを攻めるために準備を整えていて、良い返事が得られませんでした。

しかし1492年1月、スペインはグラナダを攻め落としレコンキスタを完遂したため、財政上の余裕ができたのとポルトガルに対する対抗心もあって、イザベラは正式にコロンブスの計画に援助の手をさしのべました。こうして、サンタ・マリア号など3せきの船と120人の船乗りたちは、1492年8月、大西洋をインドを目ざしてパロス港を出航したのです。

そして、10月11日に水夫が陸地を発見。コロンブスはその島に上陸して、サン・サルバドル島と名づけました。その後、いくつかの小さな島を見つけた後、現在のキューバ島を発見しましたが、期待した東洋の宝の山はみつかりませんでした。

その後も、コロンブスは、1493年、1498年、1502年と4度にわたり出航しましたが、スペイン王室はコロンブスに対してあまりやさしくなく、新大陸が東洋だと思いこんだまま、1506年、失意のうちに亡くなりました。

しかし、コロンブスの新大陸発見がきっかけとなって、中南米の国々のうち、ブラジルがポルトガル領になった以外は、ほとんどすべてスペイン領となったほか、大航海時代の幕が開いたのです。

なお、コロンブスの詳しい生涯は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック・せかい伝記図書館・4巻 「コロンブス」 をご覧ください


「5月20日にあった主なできごと」

1498年 バスコ・ダ・ガマ新航路発見…ポルトガル国王にインド航路を開拓するよう求められていた バスコ・ダ・ガマ は、アフリカ南端の喜望峰を経て、この日インドのカリカットに到達しました。リスボンを出発からおよそ10か月でした。この航路発見により、ヨーロッパとアジアは船で行き来できるようになり、ポルトガルはアジアへ植民地を広げていきました。

今日5月19日は、江戸時代初期の剣豪で、書画でも優れた作品を残した宮本武蔵が、1645年に亡くなった日です。

宮本武蔵は、江戸時代初めのころの剣豪です。生まれは美作国(岡山県)とも、播磨国(兵庫県)ともいわれています。父、新免無二斎は、田舎で道場を開く武芸者でした。

のちに郷里宮本村の名をとって宮本と名のるようになった武蔵は、幼いときから父に剣を習い、早くも12歳のときには新当流の有馬喜兵衛と試合をして打ち負かすほどの腕になりました。やがて武者修行をめざしたのか、あてもなく村をでました。

1600年、美濃国(岐阜県)で関ヶ原の戦いが起こりました。西軍の兵のなかに、足軽すがたの武蔵がいました。てがらをたてて、武士として出世することを夢見たのです。でも、石田三成 の西軍は、徳川家康 の東軍に負けてしまいました。

武士になりそこなった武蔵は、京都へ行きました。都で、剣の道で名をあげようと考えたのかもしれません。20歳でした。

京都へ入ったその年のうちに、武蔵の名は、大花火を打ちあげたように、都じゅうに広まりました。京都一の道場をかまえていた吉岡家に試合を申しこみ、その一族を、次つぎに打ちたおしてしまったからです。

そのごの武蔵は諸国をめぐり、槍術の宝蔵院、棒術の夢想権之助、くさり鎌使いの宍戸典膳などの達人と立ちあって、ことごとく勝ち、1612年には、九州の舟島(巌流島)で佐々木小次郎を、舟のかいで作った木刀で一刀のもとに打ちすえました。巌流島の戦いに勝ったときは28歳でしたが、武蔵は、このころまでに、およそ60回も他流試合をおこない、しかも、たったの一度も敗れたことがなかったということです。

武蔵は、剣法にすぐれていました。しかし、どんな試合にも勝つことができたのは「わたしが強かったのではなく、ほかの武芸者が兵法を知らなかったからだ」といっています。武蔵には、わざと約束の時間におくれて、相手を怒らせて勝った試合が、なん度もありました。これも、兵法のひとつだったのです。

30歳をすぎた武蔵は、他流試合をやめて、武士として仕官することを考え、江戸幕府にも、尾張藩(愛知県)や黒田藩(福岡県)にもはたらきかけました。でも、召しかかえられるときの禄高などで話がまとまらず、けっきょくは肥後藩(熊本県)にまねかれたのち、熊本城内で亡くなりました。62歳でした。

武蔵は、剣法だけではなく、絵、彫刻、書などにもすぐれていました。また肥後藩で書き残した『五輪書』は、説かれている兵法のするどさにあわせて、その文章のたくみさがたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「宮本武蔵」をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお宮本武蔵は、吉川英治 により 1936年から3年以上にわたって新聞連載され、佐々木小次郎との巌流島の決闘までを描いた長編小説として一躍有名になりました。従来の講談の主人公的な存在に、求道者としての解釈を加えたことが成功したとの評価が高く、以後、これを原作、または参考にした映画やテレビドラマが、数多く制作され続けています。


「5月19日にあった主なできごと」

1560年  桶狭間の戦… 織田信長 は、尾張の国桶狭間 (おけはざま・現在の豊明市) で、わずか2千人ほどの兵力で4万5千の軍を率いる今川義元軍を打ち破って、いちやく戦国大名の中でも一目をおかれる存在になった日です。 ( 2008年5月19日ブログ 参照)

今日5月18日は、明治維新で江戸城無血開城後、旧幕府軍をひきいて箱館(函館)の五稜郭を拠点に、蝦夷(えぞ)共和国を樹立した榎本武揚(えのもと たけあき)らが、1869年のこの日に降伏、戊辰(ぼしん)戦争が終結した日です。

戊辰戦争とは、1868年から1869年にかけて、明治新政府と、旧徳川幕府勢力との間におきた内戦で、明治元年の干支(えと)が戊辰だったことからこう呼ばれています。

王政復古で成立した明治新政府は、1868年4月に江戸城無血開城。新政府が決定した徳川家への処分は、駿河、遠江70万石への減封というものでした。これでは約8万人の旧幕臣を養うことはとても困難と考えた徳川家の海軍副総裁・榎本武揚は、蝦夷地(北海道)に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと考えました。

そして、旧幕府艦隊8艦を率いて脱出、途中暴風により流された咸臨丸は新政府軍に発見され捕えられましたが、7艦は逃走し、箱館の五稜郭にたてこもって、蝦夷共和国を樹立しました。土方歳三(ひじかた さいぞう)ら新選組や奥羽越列藩同盟軍 [陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)・越後国(越州)の諸藩による同盟] 、桑名藩主松平定敬(さだあき)らも加わり、選挙の実施によって、榎本は共和国の総裁となりました。

当時、新政府・旧幕どちらにも加担せず中立の姿勢を貫いていたアメリカは、やがて新政府支持を表明、幕府がアメリカから買いつけたものの所有が明確でなかった最新鋭の装甲軍艦を新政府に譲って、「甲鉄」と命名されました。

これに憂慮した榎本は、同艦を奇襲して奪取の作戦を実行に移します。至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し、自国の旗に切り替えて奪おうというものでしたが、これに失敗。これにより、最大最強を誇った徳川海軍の劣勢は決定的となって制海権を失ってしまいました。戦費の枯渇、自軍兵士の逃亡などもあり、1869年のこの日、榎本は五稜郭を明け渡し、降伏したのでした。

こうして旧江戸幕府勢力を一掃した明治新政府は、名実ともに誕生し、薩長、薩長協力藩(土佐藩、肥前藩など)出身者が明治政府の中心となって、日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいったのです。

なお榎本は、1872年の特赦で出獄、その能力を買われて新政府に登用され、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任しました。


「5月18日にあった主なできごと」

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家である ダンテ が誕生した日といわれています。代表作は彼岸の国の旅を描いた壮大な長編叙事詩『神曲』、および9歳の時にであった初恋の美少女ベアトリーチェをモデルにした詩文集『新生』。イタリア文学最大の詩人、ルネサンスの先駆者とされています。

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