児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年05月

今日5月29日は、明治から昭和にかけて歌人・詩人・作家・思想家として活躍した与謝野晶子(よさの あきこ)が1942年に亡くなった日です。

与謝野晶子は、1878年、大阪府堺市の老舗の菓子問屋に生まれました。10代のはじめのころから店の手伝いをしながら、古典や、歴史書に親しみ、地元の女学校を卒業後、同人誌に詩や短歌を投稿するようになりました。20歳をすぎたころ、与謝野鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を7首送ったところ、次の号に6首も採用されました。晶子はうれしさのあまり、それからたてつづけに『明星』に歌を送りました。それにこたえて、鉄幹からも、はげましの手紙がたびたびくるようになりました。

1900年8月、大阪で講演した寛に会い、大いに創作意欲を刺激されました。そして翌年寛のもとに上京、処女歌集『みだれ髪』を刊行。「やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君」など、恋愛の情熱を大胆に歌い上げた作風は、文壇の注目を浴びました。まもなく晶子は寛と結婚し、『明星』の中心となって、小説、詩、評論、古典研究など多方面に活動するようになりました。

1904年2月に、日露戦争がおこって晶子の弟も出征。晶子は同年9月、『明星』に『君死にたまふことなかれ』を発表しました。旅順口で戦う弟を歎いた詩でした。

あゝおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ 君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり…

この晶子の詩に対して、当時の言論界の大御所だった大町桂月は、雑誌『太陽』に「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為である。乱臣なり、賊子なり」(国のためにみんなが戦争をしているときに、こういう詩を書くとは、国賊だ)と非難しました。これに対して晶子は「当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」と反論。さらに晶子は「女というものはみな戦争がきらいなのです」と、一歩も譲りませんでした。

鉄幹との間に生まれた子は11人もありました。家計はいつも火の車で、晶子は作品の原稿料を前払いしてもらうこともたびたびでした。残した歌は5万首にも及ぶといいます。『源氏物語』の現代語訳、詩作、評論活動ととてもエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても大きな足跡を残しました。

なお、与謝野晶子の詳しい生涯は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック・せかい伝記図書館・35巻「与謝野晶子」 をご覧ください。また、オンライン図書館 「青空文庫」では、与謝野晶子の著作を数多く公開しています。

おもしろ科学質問箱 18

血液が身体を循環するのは、心臓が「ポンプ」の役割をして血液を送りだし、血管がホースの役割をして身体じゅうをまわるからです。その働きは、肺からとった酸素と腸からとった栄養物を、身体のいろいろな組織に運んで、組織から二酸化炭素や老廃物を運びだすためです。

心臓は大きく4つの部屋にわかれていて、左側は、肺から酸素を運んできたきれいな血液を、上の左心房が受け取り、下の左心室に送ります。そして、左心室がポンプになって、身体中に血液を送りだします。右側は、二酸化炭素や老廃物を運んでもどってきた血液を、上の右心房が受け取り、下の右心室から肺に送る働きをします。

血圧というのは、[心臓の左心室がちぢんだり、ゆるんだりして、血液を送り出すときの圧力] のことをいいます。血圧は、左心室がちぢんで血液を押しだしたときの最高血圧(収縮期血圧)と、ゆるんでふくれたときの最低血圧(拡張期血圧)と2種類を調べます。

血圧をはかるには、ふつうは水銀血圧計を使います。血圧が高いと水銀柱は上がり、低いと下がります。若い人の平均的な最高血圧はおよそ110ミリ、最低血圧は85ミリほどで、年をとるとだんだん上がっていく傾向があります。

正常範囲は、最高血圧で130ミリ未満、最低血圧で85ミリ未満とされています。これらの基準は数年ごとに見なおされていますが、より低い数値へと改訂されています。これは、血圧は低ければ低いほど心臓病などのリスクが低いという考え方に基づいているようです。 正常範囲を超えた血圧がつづいた状態は「高血圧症」、正常範囲より低い状態がつづくと「低血圧症」と呼ばれ、専門の医師の診断と注意が必要です。

また、血圧はさまざまな影響を受けて変動します。太った人はやせた人より血圧が高かったり、性別、緊張の有無、運動、姿勢等によっても血圧に影響します。時間帯でも、睡眠中が最低で、午後は午前よりやや高く、夜間は低くなって起床とともに高くなる傾向があるようです。

今日5月27日は、炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが、1910年に亡くなった日です。コッホは、フランスの パスツール と並んで、近代細菌学の開祖と讃えられ、北里柴三郎 を育てたことでも知られています。

ロベルト・コッホは、1843年に、ドイツのハノーバーに近い町クラウシュタールで、銀鉱山の技師の子として生まれました。13人もの兄弟がいたため、暮らしは豊かではありませんでした。学校の勉強にもあまり熱心ではなく、いつも花や虫などをとってきては、顕微鏡でのぞいたり、解剖をしたりするのが好きだったようです。

当時のヨーロッパの医学界では、微生物の研究が盛んで、特にフランスのパスツールの名はドイツにも知られていて、少年コッホも、いつか微生物の研究に生涯をささげたいと考えるようになりました。

やがて、ゲッチンゲン大学を卒業後、ボルシュタインという町の衛生官になりました。その地方は、牧畜の盛んなところでしたが、農民たちを悩ませている家畜病がありました。これがはやると一夜にして牛や羊などが死んでしまうのです。家畜ばかりか、動物と接した農民や、売買をする商人たちにもうつり、運の悪い人は肺炎のような症状で死んでいきました。

コッホは、この伝染病の原因を調べようと細菌の研究をすすめ、5年後に健康な牛や羊の血液中にはない、細長い棒状をしたものを発見しました。この微生物の純粋培養をすすめて「炭疽菌」を発見、「炭疽病の原因」 という論文を著すと、やがてこの優れた研究が認められ、いちやく世界の医学界で注目を浴びることになりました。1880年、コッホはベルリンの国立衛生院正職員に抜てきされ、ベルリン大学で教鞭をとるようになって、細菌の研究に専心できるようになりました。

1882年3月24日、コッホは「結核菌を発見した」と、ベルリンの生理学会で講演しました。コッホが39歳の時です。結核は、当時のヨーロッパで病死する人の7分の1をしめるという、恐れられていた病気でした。(3月24日は「世界結核デー」として、コッホの業績を記念しています) この世界的な大発見は、世界じゅうに知れわたり、コッホを慕う若い研究者たちが、ベルリンの研究室に集まってくるようになりました。

コッホの研究は1日として休まず、翌年インドで発生したコレラがエジプトへ侵入し、南ヨーロッパを襲ったときには、インドへ向かってコレラ菌を発見するなど、その名声はとどまることをしりませんでした。これらの業績に対して、1905年には、ノーベル生理・医学賞が与えられました。

コッホの弟子といわれる人たちも、すばらしい業績をあげています。腸チフス菌を発見したガフキー、ジフテリア菌を発見したレフラー、血清療法のベーリングと化学療法エールリヒはそれぞれノーベル賞を受賞しています。そして破傷風菌の純粋培養、ペスト菌の発見者である北里柴三郎もその一人です。1908年、コッホは来日して2か月余り日本に滞在しました。北里はコッホ滞日中にひそかに毛髪を採取して保存、今も北里研究所に収められているそうです。

なお、コッホの詳しい生涯は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック・せかい伝記図書館・13巻 「コッホ」 をご覧ください。
 

「5月27日にあった主なできごと」

743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。

1904年 日本海海戦…日露戦争中のこの日、東郷平八郎の指揮する日本海軍の連合艦隊と、ロシアの誇るバルチック艦隊が対馬海峡付近で激突。2日間にわたる戦いで、ロシア艦隊は、戦力の大半を失って壊滅。日本側の損失はわずかで、海戦史上まれな一方的勝利となりました。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ「東洋の奇跡」とさえいわれました。優位に立った日本は、8月のポーツマス講和会議への道を開きました。

今日5月26日は、1933年のこの日、国が京都帝国大学の滝川(たきがわ)教授の休職を、一方的に下す思想弾圧事件がおきた日です。滝川事件は京大事件とも呼ばれます。

この事件は、前年に、他の大学で行なわれた京都帝国大学(京大)滝川幸辰法学部教授の講演内容に、無政府主義的な傾向があると、政府に目をつけられたのがきっかけでした。

そして、1933年4月、内務省は教授の著書『刑法講義』『刑法読本』が共産主義的だとして、発売禁止処分を下しました。さらに5月には、斎藤内閣の鳩山一郎文相は、小西京大総長に滝川教授の罷免を要求。これに対して、大学の自治と学問の自由を守ることが重要として、法学部教授会および京大総長は、文相の要求を拒絶しました。ところが、5月26日、文部省は滝川教授の休職処分を決定し、強行したのです。

これにふんがいした京大法学部は教授ら全教官39名が辞表を提出しましたが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持せず、小西総長は辞職に追いこまれました。法学部の学生たちは教授会を支持し、全員が退学届けを提出するなど処分に抗議する運動を起こし、他学部の学生もこれに続きました。

さらに東京帝大など他大学の学生、数多くの文化人、『中央公論』『改造』などの総合雑誌、『大阪朝日』などの新聞も京大を支援し、文部省を批判する論説を多く掲載しました。しかし、政府による弾圧もあって急速に終息。学園には自由のない、形骸化した学問の府となり、一気にファッシズムの嵐に巻きこまれていきました。


「5月26日にあった主なできごと」

1180年 以仁王・源頼政の死…保元の乱、平治の乱を経て 平清盛 が台頭、平氏政権が形成されたことに対し、後白河天皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画。これが露見して追討を受け、宇治平等院の戦いで敗死しました。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が6年間にわたって続き、鎌倉幕府誕生の前哨戦となりました。

1467年 応仁の乱本格化…日本最大の戦乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍 足利義政 に仕える管領の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名の対立。この日、両勢力が本格的な戦闘に入り、戦国時代に突入するきっかけとなりました。

1877年 木戸孝允死去…西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人で、明治新政府でも活躍した木戸孝允(きどたかよし)が亡くなりました。( 2009年5月26日ブログ 参照)

今日5月25日は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将で、後醍醐天皇による「建武の新政」の立役者だった楠木正成(くすのき まさしげ)が、1336年に亡くなった日です。

『太平記』とよばれる軍記物語があります。鎌倉時代の終わりころから南北朝時代までのあらそいをえがいた、歴史読み物です。

この『太平記』によれば、河内国(大阪府)の武将楠木正成が、日本の歴史のなかに登場するのは、幕府をたおそうとした後醍醐天皇に、呼びよせられてからのことです。それより以前の正成については、河内の土豪であったらしいということしか、あまりわかっていません。

正成が呼びよせられたとき、後醍醐天皇 は、幕府をたおす計画が幕府にもれ、身を守るために笠置山(京都府)へのがれていました。しかし、天皇はまもなく幕府軍に捕えられました。

天皇に忠誠をちかった正成は、天皇が捕えられても、河内の赤坂城にたてこもって、幕府の大軍と戦いました。そして、場内に食糧がなくなると城に火を放って落ちのびました。

「天皇が帰ってこられるまで戦いぬくのが、わしのつとめだ」

生きながらえて、最後まで天皇に仕える決心をしたのです。 
 
その後、兵をたてなおした正成は、赤坂城をうばい返し、さらに、赤坂城の奥の山に千早城をきずきました。

1332年、幕府の数万の大軍が、千早城へ攻めてきました。千早城でむかえうったのは1000人たらずの兵です。正成は、城の上から大きい石を落とし、わら人形で敵をおどし、攻めてくる敵に火や油をそそぎかけ、知恵をはたらかせて幕府軍を城の下にくぎづけにしました。このときの正成のめざましい活躍は、幕府軍の弱さをさらけださせ、各地の武士を、討幕にむかわせるきっかけになったと、伝えられています。

1334年、ついに幕府がたおれて天皇による「建武新政」が始まり、倒幕に力をつくした正成は、河内国を支配する国主に任じられました。ところが、足利尊氏 が謀反をおこしました。

正成は、天皇を守って戦い、尊氏の軍を京都から追いだしました。しかし、数か月ご、九州で軍勢をたてなおした尊氏が、ふたたび京都へ軍をすすめてきました。おおくの武士を味方につけた大軍です。正成は、天皇に尊氏と仲直りすることをすすめました。また、戦うなら、尊氏軍を京都におびきよせて討つことを進言しました。しかし、どれも、反対されてしまいました。

1336年5月、正成は、死を覚悟して尊氏軍と湊川(兵庫県)で戦い、はなばなしく討ち死にしました。桜井(大阪府)での、子の正行との涙の別れ(国学者の落合直文作詞による軍歌「湊川・桜井決別」)は、このときの伝説です。

天皇に河内から呼びよせられて、討ち死にまでの5年、正成は、天皇につくすことだけを考えて、生きぬきました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)22巻「親鸞・日蓮・北条時宗」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「楠木正成」をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお、「楠木正成」を有名にしたのは、幕末の尊皇家による祭祀や、最期を遂げた湊川の神社建立、明治になって「大楠公」と呼ばれ、講談などでは天才軍師的イメージを重ねて語られたり、戦前の教科書や唱歌などで英雄的に紹介されるようになってからです。皇国史観の下で、戦死を覚悟で戦場におもむく姿を「忠臣の鑑」として讃えられたことも忘れてはなりません。戦後は、価値観の転換と中世史の研究が進むにつれ、悪党(既存支配体制へ対抗した階層)の頭としての性格が強調されるようになっています。


「5月25日にあった主なできごと」

1910年 大逆事件…信州の社会主義者・宮下太吉ら4名が明治天皇暗殺計画が発覚したとして、この日逮捕されました。この事件を口実に社会主義者、無政府主義者、思想家に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、20数人を逮捕。この政府主導の弾圧は「大逆事件」と呼ばれ、幸徳秋水 ら12名が処刑されました。

↑このページのトップヘ