児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年04月

今日4月8日は、今から二千数百年も昔、仏教を開いたシャカ(釈迦・しゃか)が誕生した日と伝えられ、灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)などといわれます。また、花の咲きにおう春に行なわれたことから「花まつり」とよばれて、日本各地のお寺では、花で飾った小さなお堂の中に、釈迦の誕生仏を安置して、お参りにきた人は甘茶をそそいでお祈りをする、はなやかな仏教の行事になっています。

シャカは、紀元前556年ころ、ヒマラヤ山脈の南のふもとにあるカピラという都(現在のネパール・ルンビニー)に生まれました。父はシャカ族の王様で、母はマーヤーといいました。マーヤーはお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニーの花園で休んでいたときに、急にお腹が痛くなってシャカを生みました。すると、どこからともなく音楽が流れ、空から花びらが舞い落ち、甘露(あまいみつ)の雨が降ってきました。花まつりに、甘茶をかけるのは、こんないい伝えからきているようです。

またシャカは、うまれた途端、7歩歩いて右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(天の上でも下でも、自分が一番尊い)と話したと伝えられています。もちろん、作り話ですが、お堂に置かれるシャカ像が右手は天に、左手は地を指しているのはそのためです。

シャカは、王子として裕福な生活を送り17歳で結婚、子どもも生まれましたが、あるとき城外に出たところ、病人や貧しい老人、死人を見てからは、この世のくるしみを考えはじめ、どうしたらそれらを救えるか考え悩み、やがて、29歳で出家しました。

シャカがどんなにか苦しい修業を積んで悟りを開き、自らの悟りを人々に説き、80歳で入滅(死去)するまでの詳しい生涯につきましては、いずみ書房「せかい伝記図書館」 (オンラインブック「シャカ」) をご覧ください。


「4月8日にあった主なできごと」

1350年 吉田兼好死去…清少納言の「枕草子」と並び、随筆文学の傑作「徒然草」(つれづれぐさ)を著した 吉田兼好 が、この日亡くなりました。

1820年 ミロのビーナス発見…ギリシアのミロス島で、ひとりの農夫が両腕の欠けた美しい大理石の女神を発見。島の名にちなんで「ミロのビーナス」と命名されました。古代ギリシア時代の一級彫刻作品として、パリのルーブル美術館が所蔵しています。

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1973年 ピカソ死去…スペインが生んだ世界的な画家・版画家・彫刻家・陶芸家 ピカソ が、この日92歳で亡くなりました。

今日4月7日は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で「浄土宗」を開いた法然(ほうねん)が、1133年に誕生した日です。

「いっしょうけんめいに、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも、来世で極楽浄土に生まれかわることができる」

源頼朝が鎌倉に幕府を開く少しまえに、このように説く浄土宗がおこりました。法然は、この浄土宗の開祖です。法然は、1133年に、美作国(岡山県)で生まれました。父は豪族でした。ところが、法然が8歳のときに、同じ土地の領主の一族におそわれて殺されてしまいました。

このとき法然は、母ともはなればなれになったまま、家の先祖の霊をまつる菩提寺に身をかくしました。そして、12歳のときに出家して比叡山へのぼり、最澄が建てた天台宗延暦寺の僧になりました。

父は、死のまぎわに「親の仇を討ってはならぬ。うらみは忘れるのだ」といい残していました。法然は、父のこの遺言を守って、髪をそる決心をしたのです。

法然は、源信が地獄と極楽を教えた『往生要集』を学びながら、ほんとうの仏の道をさぐりました。ところが、比叡山の僧たちは、学問や修行よりも自分たちの利益のための争いに明け暮れ、法然の心をまよわすばかりでした。

「シャカの死ご2000年ほどで仏教がおとろえ社会が乱れると伝えられてきたが、ほんとうに、その時代がやってきたのかもしれない。しかし、このままではいけない」

法然は、17歳で延暦寺をはなれて京都の黒谷に住み、すべての仏教の教えをまとめた『一切経』を何度も読み返して、修行にはげみました。しかし、唐の善導という僧が書いた『観経疏』を読んでさとりを開くまでには、25年もの長い歳月がかかりました。

42歳になった法然は、京都の東山に小さな家を建てて住み、町へでて、浄土宗を説き始めました。

「念仏を唱えさえすればよいのなら、こんなありがたいことはない」「法然の教えは、ほろびそうになっている仏教を、きっと救ってくれるにちがいない」

浄土宗は広まり、法然の名は国じゅうに知られるようになりました。ところが74歳のときに、法然は四国へ流されてしまいました。念仏に反対する僧たちが、浄土宗の念仏の禁止を朝廷に訴えたからです。でも、やがて罪は許され、ふたたび京都へもどってくると、おおくの弟子に囲まれて1212年、79歳の生涯を終えました。弟子の親鸞は、法然の教えをさらに進めて、のちに浄土真宗を開きました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)21巻「平清盛・源頼朝・源義経」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「法然」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「4月7日にあった主なできごと」

1506年 ザビエル誕生…1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたスペインのイエズス会宣教師 ザビエル がフランスとスペインとの国ざかいのナバラ王国(1512年にスペインにほろぼされた)に誕生しました。ザビエルについては、2007年12月13日(キリスト教の伝来) 2007年11月30日(マラッカひとり旅) のブログでもふれています。

1945年 戦艦大和撃沈…大日本帝国海軍が建造した排水量6万8千トンという当時世界最大の戦艦「大和(やまと)」は、この日沖縄にむけて出撃途上、屋久島沖でアメリカ航空機部隊386機の集中攻撃を受けて3000人の将兵とともに、海底深く沈没しました。

今日4月6日は、ルネサンス期を代表する絵画、建築はじめ総合芸術の天才といわれるラファエロが、1483年に誕生した日であり、1520年に亡くなった日でもあります。

ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロといえば、16世紀イタリアのルネサンス時代に、芸術の腕をきそった巨匠たちです。いまにのこる作品から、それぞれの個性のちがいをみることができます。ラファエロの絵には、心やさしい清らかな性格がうかがわれます。ラファエロがルネサンス美術の完成者といわれるのは、すなおな心で、ほかの大家たちの技巧をうけいれ、自分の作品に調和させる努力をしたからです。聖母の画家ともよばれます。『美しい庭の聖母』『小いすの聖母』『シスチナの聖母』などおおくの聖母像をかきのこしました。聖母マリアに感じられるあたたかみ、清らかさは、ラファエロの心そのものであったようです。

ラファエロ・サンチョは、1483年、中部イタリアのウルビノという高原の町に生まれました。詩人であり画家であった父から絵の手ほどきをうけて育ちました。12歳のときからウルビノ派の画家ペルジーノの壁画制作をてつだうまでになりました。芸術の都フィレンツェにでてきたのは、1504年、21歳のときです。ダ・ビンチもミケランジェロも、すでに名声をはくしていました。ラファエロは、この二人のえいきょうを強くうけ、画面構成や明暗法などの技巧をまなびとりました。3角形構図による聖母子像をたくさんかいたのも、フィレンツェへきてまもないころです。

5年ごには、建築家ブラマンテによばれてローマへいきました。そして、法王ユリウス2世のもとで、バチカン宮殿の天井画や壁画をかくことになりました。ラファエロは、『聖体の論議』や『アテネの学堂』などの大画面を、2年がかりで完成させました。いまにのこる代表作です。これによってラファエロの名声はいっきょに高まりました。

ラファエロは、売れっ子のいそがしい身となりました。寺院のかざり絵や、壁画の制作、あるいは、貴族たちにたのまれて肖像画もかくなど、大小いろいろな仕事を手がけました。その時どきに、すぐれた画家の技法をとりいれて、自分の作品にとけこませていきました。そうしたおおらかな性格が、人びとにしたわれ、いつもたくさんの弟子たちがより集まっていました。

ラファエロがかつやくしたのは絵だけではありません。ブラマンテの死後、残されたサンピエトロ寺院の建築をひきついだり、また古代ローマ遺跡の発掘にも業績をあげたりしました。ラファエロは絵の制作中に病気になってしまい、37歳の若さで生涯をとじました。1520年の誕生日でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)5巻「ミケランジェロ・レオナルドダビンチ・ガリレオ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ラファエロ」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお、2007年9月5日のブログで ラファエロ『アテネの学堂』 について綴っています。参考にしていただければ幸いです。


「4月6日にあった主なできごと」

1896年 第1回オリンピック開催…古代ギリシアで4年に1度開催されたスポーツ競技を復活させようと、フランスの クーベルタン による提唱で国際オリンピック委員会(IOC)が1894年につくられ、この日ギリシアのアテネで近代オリンピック第1回大会が開かれました。参加国14か国、競技種目43種目、選手数240人と、小規模なものでした。

1919年 非暴力・非服従運動…インド独立運動の指導者 ガンジー は、支配国イギリスに対する非暴力・非服従運動を開始しました。この日、反英運動への取り締まる法律が施行されたのに、断食をして抗議したのをはじめ、イギリス製品の綿製品をボイコットして、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを自ら糸車をまわして呼びかけるなど、不買運動を行いました。

「読み聞かせ」のすすめ 23

昨年度、小学校1年の担任をされた先生のお話です。

「1年生にあがったばかりの子どもは、はじめの頃は、どの子も教師の話に耳を傾けます。ところが、学校の生活に慣れてくると、少しずつ、教師の話など聞かずに、勝手にふるまう子どもが増えてきます。今回もそうでした。

ところが、そんな中で、一人だけ違う子がいました。授業中はもちろん、授業以外のときでも、私のいうこと話すことに、一生懸命耳を傾けて、その上、何か疑問があれば素直にそれを言い、また発言したいときは、素直に口にするのです。

私は、はじめは感心ばかりしていました。ところがある日、その子に聞いてわけがわかりました。その子は3歳の頃から、もう4年近くも、家でお母さんから本の読み聞かせをしてもらっていたのです。つまり、読み聞かせを通して、まず第1に静かに話を聞くことを身につけ、さらに耳にした話を主体的に考え、心に思ったことがあれば素直に口にする習慣のようなものまで、しっかり身につけたのですね」 と。

本の読み聞かせには、こんな効果もあるのです。来週から新学期がはじまります。「読み聞かせ」 の習慣化を、改めておすすめします。

今日4月2日は、彫刻家、画家、評論家でありながら詩集『智恵子抄』を著した高村光太郎が、1956年に亡くなった日です。

東京の上野公園の入り口に、西郷隆盛の銅像がたっています。犬をつれた西郷さんは、左腰に刀をつけ、大きなおなかをつき出して、かっと両眼を見開いています。あるとき、ひとりの青年がこの銅像を見上げて言いました。

「ふん、なんてぐれつなんだ。魂のぬけがらだ。人形にすぎん」

青年の名は高村光太郎。この銅像を造った彫刻家高村光雲の長男です。3年間の留学生活を終えて日本に帰ってきたばかりでした。ヨーロッパのダイナミックな芸術や文化から受けたショックがあまりにも大きく、日本で目にするものすべてに絶望していました。父の作品にきびしい目を向けたばかりではなく日本の美術について、かたっぱしから批難しました。

「日本の芸術には個性がない、主張がない。こぢんまりとまとまっているばかりで、そこに熱い血が流れていないんだ……」

フランスで光太郎をとらえたのは、美術作品ばかりではありません。ベルレーヌやボードレールの詩に、日本の文学青年はすっかりとりこにされてしまったのです。

帰国すると光太郎はさかんに詩を書き出し、スバルというグループを結成しました。森鴎外、吉井勇、北原白秋などもいっしょで 「常識や古い習慣をうち破り、自分の考えを大切にした芸術を生み出そう!」 と意気ごみました。

新しい考え方は、いつも古いしきたりのなかでは白い目で見られがちです。スバルは、まるで不良グループのように思われました。そうしたきままなやりかたを「デカダン」とよんで、一部の人びとはきらいました。

光太郎は、のちに妻とした智恵子と出会ったころから 「デカダン」 から遠のき、すっかり変わってしまいました。彫刻に専念し詩作にふけり、智恵子を通して、生きる喜びを歌うようになっていったのです。智恵子は画家をめざしていました。同じ方向にむかってたがいに助けあうふたりには、貧しくとも満ちたりた生活がありました。

しかし、結婚して17年め、智恵子は精神病にかかり、7年間病気とたたかいながら、ついにかえらぬ人となってしまいます。智恵子を歌った歌は『智恵子抄』として出版され、おおくの人に感銘を与えました。智恵子の死後、74歳までの孤独な生活の中で、光太郎は彫刻家としての仕事はあまりしていません。

晩年、十和田湖畔の『乙女の像』を造りました。湖畔に立つ女性像は智恵子によく似ていると評判になりました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「高村光太郎」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお、『智恵子抄』をはじめ 高村光太郎の詩や評論など31編 は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「4月2日にあった主なできごと」

1805年 アンデルセンの誕生…「童話の王様」といわれる アンデルセン が、デンマークのオーデンセに生まれました。2008年4月2日のブログ を参照ください。

2008年 石井桃子死去…創作童話「ノンちゃん雲に乗る」や「ピーターラビット」(ビアトリクス・ポター)「クマのプーさん」(ミルン)「うさこちゃん」(ブルーナ)シリーズなどの翻訳で、戦後のわが国児童文学界をリードしてきた作家・編集者の石井桃子が、この日101歳で死去しました。

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