児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年04月

今日4月15日は、ルネッサンス期に絵画・建築・彫刻そして自然科学にも通じていた万能の天才と讃えられるレオナルド・ダビンチが、1452年に生まれた日です。

この絵は、後にキリストの弟子となるヨハネが、キリストに洗礼をほどこしているところです。洗礼というのは、一切のけがれを洗い清めることです。ヨハネはヨルダン川で、罪を悔い改めた人々に洗礼をほどこしていましたが、後に、キリスト教の聖なる儀式のひとつになりました。

ヨハネが多くの人に洗礼をほどこしていたとき、キリストがガリラヤから洗礼を受けに来ました。ヨハネは、「わたしこそあなたから洗礼を受けなくてはならない者です」といって辞退しましたが、キリストは説得してヨハネからこのような洗礼をうけました。(新約聖書より)

davinchi.bmp

レオナルドが、父に連れられて故郷のビンチ村から、フィレンツェに出てきて、ベロッキオ工房に入門したのは、1466年頃のことでした。ベロッキオ30歳、レオナルドは14歳でした。レオナルドは、1472年20歳の時、修業の徒弟時代を終えて、フィレンツェの画家組合に入り、親方として一本立ちできる腕前になりました。

でもレオナルドは、ベロッキオ工房が気に入ったのでしょう。しばらくベロッキオのもとに住んでいて、「キリストの洗礼」は、1476年24歳の頃に描かれたようです。ルネサンス時代の美術家で、当時の有名な美術家たちの伝記を書いたバサーリの「レオナルド伝」にこの絵のことが書いてあり、ベロッキオは、ベロムプローザ僧団から聖サルビ僧院の祭壇画をたのまれ、この絵を描きました。その時弟子であるレオナルドを助手に使いました。

この絵には、キリストとヨハネのほかに左端に二人の天使がひざまずいています。自分の描いた左から二人目の天使より、レオナルドが描いたいちばん左側のキリストの聖衣を捧げもつ天使のほうがずっと上手だったので、ベロッキオはそれ以来2度と絵筆をとらず、彫刻に専念したということです。この話は事実かどうかわかりませんが、この左側の天使は当時のフィレンツェ美術界に目を見張らせた画期的な創作であったことは間違いありません。

レオナルドの詳しい生涯につきましては、いずみ書房「せかい伝記図書館」 (オンラインブック「レオナルド・ダ・ビンチ」) をご覧ください。なお、2007年9月14日のブログ では、ダビンチの代表作「モナリザ」について綴っています。あわせて参考にしていただければ幸いです。


「4月15日にあった主なできごと」

905年 古今和歌集完成…古今和歌集(古今集)は、日本で最初の勅撰(天皇の命令で和歌などを編集)和歌集で、醍醐天皇の命によって 紀貫之 ら4名によって編まれ、この日、約1100首、20巻が醍醐天皇に奏上されました。「枕草子」を著した 清少納言 は、古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたと記しています。紀貫之の作品は、オンライン和歌集「千人万首」で読むことができます。

今日4月14日は、1912年、豪華客船タイタニック号が、処女航海の途上、カナダ・ニューファンドランド沖で氷山に衝突した日です。

1912年4月14日の夜、イギリスの豪華客船タイタニック号は、北大西洋のニューファンドランド沖にさしかかっていました。タイタニック号は、イギリスで造られた全長260メートル、46000トンの巨船で、当時世界一といわれていました。2200人以上もの乗客をのせ、イギリスのサウサンプトン港からニューヨークにむけた初めての航海に出て、4日目のことでした。

タイタニック号の甲板で見張りをしていた船員は、前方の闇のなかに、はば450m、高さ20mほどの氷山がただよっているのを肉眼で発見し、はっとしました。氷山というのは、海の上に頭を出している部分は、全体の1割もなく、大部分が海の中に隠れています。「大変だ、氷山だ!」と、大声で叫びました。

船員たちは、急いで進路を変えようとしましたが、遅すぎました。氷山は客船の横腹をかすめると、ぶきみな音をたてて停船しました。船員たちはあわてふためいている乗客たちに、落ち着くようによびかけるいっぽう、船長は遭難信号を打ちださせ、救助をもとめました。

すぐに船内に用意されていた16隻の救命ボートがおろされましたが、短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分しか用意されていませんでした。そのため、まず子どもと女性が先にのせられました。

たくさんの乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の夜中の2時20分、轟音と共にタイタニック号の船体は2つに大きく割れて、ついに海底に沈没したのです。

SOSの信号を受け、翌朝1艘の汽船が救助にむかい、海の上をさまよい続けた人たちのうち675人をなんとか助けだしましたが、残りの1500人余りは、ついに海のもくずとなってしまったのです。

1997年、この海の惨事を背景にした劇映画「タイタニック」が制作・公開されたので、ご覧になられた方もたくさんおられることでしょう。「タイタニック」は大ヒットし、全世界興行収入が18億3500万ドルと、映画史上最高の興行収入を記録し、いまだにこの記録は破られていないそうです。

貧しい青年ジャック(レオナルド・ディカプリオ)は、出港直前にポーカーに勝って、船のチケットを手に入れ乗りこみます。故郷であるアメリカに帰れることになった画家志望のジャックは、政略結婚のためにアメリカに向かうイギリスの上流階級の娘ローズ(ケイト・ウィンスレット)と運命的な出会いを果たし、2人は互いにひかれ合います。しかし、航海半ばの深夜、タイタニック号は氷山と接触。船はゆっくり、確実に沈みはじめました……こうした緊迫感にみちあふれた、良質の恋愛映画に仕立て上げられたことが成功の要因といわれています。

なお、「タイタニック」という名は、ギリシャ神話に登場する巨大で剛健無双な神「ティーターン(タイタン)」に由来します。


「4月14日にあった主なできごと」

1865年 リンカーン撃たれる…「奴隷解放の父」といわれるアメリカ合衆国16代大統領の リンカーン は、南北戦争の終わった5日後のこの日、ワシントンの劇場で南部出身の俳優にピストルで撃たれ、翌朝56歳の生涯を閉じました。

今日4月13日は、第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いたジェファソンが、1743年に誕生した日です。

「人間には生まれたときから、自由と平等を求める権利が与えられ、国は、それを守る権利が与えられ、国は、それぞれを守る義務がある」

この歴史に残るアメリカ独立宣言を書いたトマス・ジェファソンは、1743年、イギリスの植民地だったバージニアで生まれました。父は、農場をいとなむかたわら、バージニア議員もつとめた、教養の高い人でした。

ジェファソンは、開拓者たちの自由な心を受けついで育ち、早くからギリシア語やラテン語を学んで、16歳で大学へ進み政治、法律、哲学、自然科学などを幅広く学びました。

大学を終えると弁護士の仕事を始めました。しかし、年がたつにつれて、すべての人が幸福になるための政治について考えるようになり、26歳で、植民地議会の議員になりました。

このころ、北アメリカ大陸のイギリス植民地では、高い税金や商品をおしつけようとするイギリス本国への不満がつのり、植民地の独立を叫ぶ声が強まっていました。

1775年、ついに植民地の人びとは立ちあがり、イギリス本国との間でアメリカ独立戦争を始めました。そして、つぎの年は13植民地の代表が集まって会議を開き、アメリカの独立を宣言しました。ジェファソンは、このときバージニアの代表として会議に加わり、政治に対する考えの深さがみこまれて、人間の自由と平等をたたえる独立宣言文を書いたのです。

アメリカの独立は、1783年に達成しました。ジェファソンは、初代大統領ワシントンのもとで国務長官を、第2代大統領ジョン・アダムスのもとでは副大統領をつとめたのち、1800年に、アメリカ合衆国第3代大統領になりました。

「人間の自由と平等のために戦った独立戦争の精神を、いつまでも忘れてはならない」

大統領ジェファソンは、国の政治はおおくの人たちの考えで決めるという、共和制をたいせつにしながら、民主主義の基礎を固める政治を進めました。また、1803年には、フランスのナポレオン1世から、北アメリカ中央部の広大なルイジアナ全土を買い求め、合衆国の国の広さを、それまでの2倍にしたばかりか、西部への発展のきっかけをつくりました。

「国の政治を同じ人間が長く受けもってはいけない」というワシントンの考えに習って、大統領は2期で、自分からしりぞきました。そして66歳で故郷へ帰ったジェファソンは、バージニア大学を建てて教育に力をつくしたのち、1826年に83歳で亡くなりました。アメリカ民主主義の父として、いまもたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)7巻「ワシントン・ペスタロッチ・ジェンナー」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ジェファソン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「4月13日にあった主なできごと」

1592年 文禄の役…1590年に全国統一をはたした 豊臣秀吉 は、中国の「民」を支配下におこうと、この日第1次出兵として加藤清正や小西行長らの率いる兵16万人を釜山に上陸させました。これは「文禄の役」といわれ、その後ソウルを陥落させましたが、ともに攻めあぐね、よく年休戦をしました。

1612年 巌流島の決闘… 宮本武蔵 と佐々木小次郎が、山口県の巌流島で、この日決闘を行ないました。武蔵は、約束の時間に遅れて小次郎をいらだたせ、「小次郎敗れたり」と叫んで相手の動揺を誘い、舟の櫓で一撃のもとに小次郎をたたきのめしたといわれています。この有名なシーンは、小説、映画、テレビドラマなどでおなじみです。

1912年 石川啄木死去…「はたられど はたらけど なおわがくらし 楽にならざり じっと手をみる」などたくさんの短歌や詩、評論を残し、民衆歌人、天才詩人といわれた 石川啄木 が、この日わずか26歳でなくなりました。啄木の主要な作品は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。

今日4月10日は、アメリカ海軍の軍人で、1853年に軍艦をひきいて浦賀沖に来航、江戸幕府に開国をせまったペリーが、1794年に誕生した日です。

1853年7月、江戸(東京)に近い浦賀沖を走る4せきの船を見て、人びとはびっくりしました。まっ黒なけむりをはき、大きな水車のような輪をぐるぐるまわしながら、波しぶきをあげて走ってきたからです。「黒船きたる!」。とどろく砲声に、江戸の町は大さわぎになりました。

アメリカからこの艦隊をひきいてきた、総司令官がペリーでした。ペリーは、15歳のときから海軍生活をおくり、アメリカ海軍に蒸気船をいち早くとり入れた軍人です。そのため「蒸気海軍の父」とよばれたほど、時代の流れを鋭くみぬく眼をそなえていました。色黒で二重あごの大男でした。からだが大きかっただけでなく、人をおさえつけるいげんがあったので、部下はひそかに巨人(タイタン)とあだ名していました。

当時のアメリカは、清国(中国)と通商条約をむすんで、貿易をはじめていました。アメリカから清国へ行くには、大西洋からインド洋をまわるより、太平洋を横断するほうがずっと便利です。それには、食料や燃料を日本の港で補給しなければなりません。

ペリーは、日本の国情をしらべ、アメリカ政府に意見書を出しました。その意見書に動かされた議会は、鎖国をしていた日本に開国をうながそうと決議し、ペリーを派遣しました。

「私は、アメリカ大統領の親書を持ってきた。どうしても受けとらないならば、将軍に直接談判する」

ペリ-の要求を受けた江戸幕府は、うろたえながらも相談した結果、親書を受けとることになりました。ただし、返事はあとにのばし、ひとまず帰国してもらうことが条件でした。

「こんどこそ幕府の承諾をとってやる。もし拒否したなら力ずくでもこちらの要求を通してみせるぞ」

よく年2月、7せきの大艦隊をひきつれたペリーが、ふたたび日本にやってきました。大艦隊は、会見予定地にあてられている久里浜港で待機していましたが、幕府の返事がおくれていることに腹をたてて、さっさと品川沖までのりこみ、いまにも上陸しそうな気配です。

これに対抗する力のない幕府は、1854年3月、ペリーの要求にくっして、下田港と箱館(函館)港を開港することを約束した日米和親条約を結びました。こうして、200年以上もつづいた鎖国は幕をとじ、日本は開国の第一歩をふみ出しました。ペリーは、そのご、日本に関するおおくの書物を残して、1858年3月に亡くなりました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ペリー」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「4月10日にあった主なできごと」

593年 聖徳太子が摂政… 聖徳太子 はこの日、推古天皇を即位させ、自ら天皇に代わって政治をおこなう「摂政」に就任しました。

1946年 初の女性議員…この日、日本ではじめて女性が参加した衆議院議員選挙が行なわれました。この選挙の女性投票率は67パーセントをこえ、女性立候補者82名のうち39名が当選をはたしました。

1952年 「君の名は」放送開始…NHKは、連続ラジオ放送劇「君の名は」(菊田一夫作)を、この日からスタートさせました。放送開始から爆発的な人気を呼び、銭湯の女湯がガラ空きになるほどの社会現象をひきおこしました。

1959年 皇太子結婚…皇太子明仁親王(現在の天皇)がこの日結婚。皇太子妃となる正田美智子さんが、民間から初の妃ということで慶祝熱が高まり、ご成婚パレードには美智子妃を一目みようと沿道に53万もの人がつめかけるなど、日本じゅうが「ミッチーブーム」にわきたちました。

今日4月9日は、聖武天皇の発案により完成した奈良の大仏の開眼供養会(魂入れの儀式)が、752年に行なわれた日です。1万人の僧がお経読む、盛大な儀式でした。

250px-NaraTodaijiDaibutsu.jpg

奈良時代の中ごろ、造り始めてから、およそ10年の歳月をかけて完成した奈良・東大寺にある大仏は、高さ16メートル、顔の長さ5メートル、耳の長さ2.5メートルもあります。大仏を安置する大仏殿は、左右57メートル、奥行50メートル、高さ47メートルと、木造建築としては世界最大規模といわれます。

当時、天然痘の流行や、律令制の支配がゆきづまって貴族たちの争いなどで世の中は乱れていました。民の苦しみもいっそう深まるばかりでした。仏教を熱く信じていた 聖武天皇 は、仏の力で世の中を安定させようと考えたのでしょう。741年に日本国じゅうに国分寺建立のみことのりを出し、2年後の743年には、国分寺総本山に大仏を造るみことのりを発しました。

これほど巨大な大仏づくりには、多くの材料と労力が必要でした。銅440トン、のべ200万人が10年間働いて749年に完成しました。さらに、大仏殿をこしらえ、この日開眼式をむかえたのです。

なお、現存する大仏は、ほとんど江戸時代に修復されたもので、当初の部分は台座、腹、指の一部など、一部を残しているにすぎませんが、「盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像」(大仏の正式名称)は国宝に指定されています。


「4月9日にあった主なできごと」

1865年 南北戦争終結…アメリカ合衆国の南北戦争は、1861年に北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだ リンカーン が大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、戦争がはじまりました。当初は南部が優勢でした。1861年リンカーンは「どれい解放令」を出すと形勢逆転、1863年7月のゲッティスバークの戦いで決定的な勝利をした北部が主導権をにぎり、この日南部は北部に降伏し、5年にわたる南北戦争が終結しました。

↑このページのトップヘ