児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年04月

今日4月22日は、地球全体の環境を守るため、一人ひとりが行動をおこす日として、1970年からスタートした世界規模の記念日です。

いま地球は、さまざまな開発による自然破壊、工場や車の排気ガス、工場や家庭の排水などが関連しあって、環境汚染や温暖化が年ごとに進んでいます。

とても美しく健康だった「地球という星」が、ここに暮らす人によって傷つけられ、病気になっているような状態をなんとかとりもどそうと、アメリカのゲイロード・ネルソン上院議員は、1970年のこの日、環境問題についての討論集会を開催することを呼びかけました。これに応じた当時スタンフォード大学院生のデニス・ヘイズは、環境維持のためのデモや集会をおこない、成功に導いたといわれます。

その後、4月22日のアースデイ集会という運動は、全世界へ広まっていき、アメリカでは、環境保護庁の設置や各種環境保護法が整備されました。日本でも1990年から、コンサートなどさまざまなイベントが催されています。

「4月22日にあった主なできごと」

1451年 イサベル1世誕生…1474年カスティリャ王国の女王となり、夫がアラゴン国王となったのを機に両国を統合し、スペイン王国を建国、初代女王となりました。1492年にはイスラム国家グラナダ王国を制圧し、約800年にわたったレコンキスタ(国土回復運動)を完成させました。コロンブス を援助して新大陸を発見(1492年)、スペイン海外発展のキッカケとなったことは有名です。

1500年 ブラジル発見…ポルトガル王マヌエル1世の命によりインド遠征隊を率いたカブラルは、この日ブラジルに漂着し、ポルトガルの旗を掲げました。これにより、ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになります。

1927年 支払い延期令…この年の3月倒産や休業したりする銀行が続出、この金融恐慌を鎮めるために、3週間にわたる「支払い延期令」(モラトリアム) をこの日に発令、即日実施しました。日本銀行は、2億円の非常貸し出しに印刷が間に合わず、片面白紙の200円札を発行しました。

今日4月21日は、世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者フレーベルが、1782年に生まれた日です。

チューリンゲン地方の牧師の家に生まれたフリードリヒ・フレーベルは、満1歳にならないうちに母を亡くし、愛にうえた、さびしい少年時代をすごしました。のちに教育家となったフレーベルは「子どもの教育には、母の愛がなによりたいせつである。母と子を切りはなすことはできない」といっています。

フレーベルは、1800年にイエナ大学へはいりましたが、お金がつづかず、とちゅうでやめなければなりませんでした。そのころ、教育の改革をとなえる ペスタロッチ というスイスの教育学者が、かつやくしていました。フレーベルは、ペスタロッチの「子どもに知識をつめこむのではなく、生まれつきもっている芽を、愛の力でのばす」という考えかたに心をうたれ、教育にうちこむ決意をかためました。1805年、フレーベルはフランクフルト・アム・マインにいって、ペスタロッチの弟子グリーナが校長をしている小学校で、教師とはどのような仕事なのか学びました。1816年からは、いよいよ自分の学園をひらき、学んだ教育論を実行にうつしました。

子どもには、いろいろな才能がかくされている、とフレーベルは考えました。教師や親は子どもの才能をのばし、創造の心を正しくみちびかなくてはならない、というのがフレーベルの理論です。この理論と、じっさいに学園でおこなっていることを『人間の教育』という本にまとめました。この本は、のちの学者たちに大へん影響をあたえましたが、そのころの政府や教会の考えかたには合わないものでした。そして、フレーベルは、ひどいこうげきをうけました。

迫害をうけても、フレーベルは、教育にたいする情熱をもやしつづけました。1840年には、チューリンゲンにキンダー・ガルテンを建てました。世界で初めての幼稚園です。フレーベルはドイツじゅうを歩いて、幼稚園をつくる運動に力をそそぎました。幼稚園の先生を養成する講習会をひらき、教育者のための研究所も建てました。みずから、つみ木やまりなどの遊び道具を考えだし、子どもの創造心をひきだす道具にしました。

フレーベルの幼稚園は、1851年に政府から禁止されてしまいます。フレーベルは、そのよく年の1852年に亡くなりました。のちにフレーベルの考えはおおくの教育者たちによってうけつがれ、人びとも子どもの教育のたいせつさをみとめるようになりました。そして、世界じゅうに幼稚園がつくられました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)8巻「モーツァルト・ナポレオン・ベートーベン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「フレーベル」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「4月21日にあった主なできごと」

1583年 賤ヶ岳の戦い… 豊臣(羽柴)秀吉 はこの日、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を倒し、織田信長 後継の最大のライバルを葬って天下統一の道をさらに一歩進めました。信長の妹であるお市の方は、浅井長政と結婚して三人の娘(のちに長女 茶々は秀吉側室=淀殿に、次女 初=京極高次正室、三女 江=徳川秀忠正室)を設けますが、やがて長政が信長に滅ぼされたのち、柴田勝家の妻となっていました。この戦いでお市の方は、娘たち三人を脱出させ、勝家とともに死んでいきます。このあとの三姉妹の行動、特に茶々(淀君)の行動は、母お市の方の無念を晴らすためだったのではないかという説もあるなど、お市と浅井三姉妹の波乱に満ちた生涯は、たくさんのドラマに描かれてきました。

1910年 マークトウェーン没…「トムソーヤの冒険」「ハックルベリーフィンの冒険」「王子とこじき」など、わんぱくな自然児と少年たちの冒険物語を著したアメリカの作家 マークトウェーン が亡くなりました。

1951年 民間放送の日…民間放送16社に予備免許がおりて、これまでNHKだけの放送から、さまざまな局の番組を選べるようになりました。本放送はこの年の秋、ラジオ放送がスタートしました。

今日4月20日は、1871年のこの日、日本でそれまでの飛脚制度に代わって、はじめて郵便制度がしかれたことを記念する日です。

ヨーロッパの新しい郵便制度をとりいれるのに努力したのは、明治政府の役人だった 前島密 でした。なんとかして、これまでの高い飛脚便をあらためたいと考えていました。たまたま 渋沢栄一 という実業家に、フランスの郵便切手を見せてもらいましたが、切手をこしらえても、切手を2度とつかわれないようにするための方法がわかりませんでした。

そこで政府に願い出て、1870年から1年間、アメリカからヨーロッパの国ぐにをまわり、郵便の研究と調査をつづけました。船の中で、船長からスタンプを押すことを聞いて、疑問がとけました。旅行中に、郵便用の汽車や汽船、郵便馬車や郵便局の存在を知ると、すぐに手紙で日本に知らせました。留守をあずかる人たちは、すぐに対応して、政府の手による郵便制度(まず東京ー大阪間)が実施されました。これが1871年のこの日にはじまった、近代郵便制度です。

東京と大阪から、毎日1回飛脚が走り、切手ができ、ポストもあちこちにできました。1872年には、全国に郵便がゆきわたるようになり、1873年には、不便な場所以外は全国一律料金となり、1885年には万国郵便連合に加わって、世界じゅうの国々と通信ができるようになりました。

なお、「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたのも前島で、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれています。


「4月20日にあった主なできごと」

1901年 日本初の女子大学…この日「日本女子大学校」(現在の日本女子大学)がこの日開校しました。創立者は成瀬仁蔵で、古来の良妻賢母主義から、一人の人間としての人格形成を新しい女性像として掲げてスタート。制服のえび茶色のはかまが注目の的でした。

今日4月17日は、応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下をさらに磐石のものとした徳川家康が、1616年に亡くなった日です。家康は、日光東照宮や久能山東照宮などで「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)としてまつられています。

1542年に生まれた徳川家康は、とてもつらく苦しい少年時代をすごしました。父親は、三河の岡崎(愛知県岡崎市)の城主でした。当時の岡崎は、東に今川氏、西に織田氏にはさまれ、今にもどちらかに攻められそうな状態だったため、家康は5歳から8歳までは織田氏の人質に、8歳から18歳までは今川氏の人質として、苦労の多い生活を送らざるをえませんでした。そのため人質にとられたこの時期に、人一倍の忍耐力と、人を見抜く感覚を身につけたに違いありません。

家康に転機がおとずれたのは、18歳のとき、織田信長 が今川義元をやぶった桶狭間の戦いでした。今川氏の味方をして出陣をしていた家康は、すばやく生まれた岡崎城にもどると、まもなく織田信長と同盟を結び、三河や駿河を手に入れ、東海一の大名となりました。さらに信長が本能寺の変で亡くなると、こんどは 豊臣秀吉 に協力しました。秀吉が小田原の北条氏をせめると、これに従って手柄をたて、関東地方に領地を与えられました。当時の関東は水害が多く、あまり魅力のある土地ではありませんでしたが、家康は家臣たちの不満をものともせず、ありがたくもらいうけ、やがて江戸に城をかまえました。

56歳のとき、秀吉は死に、それからわずか2年、1600年の関が原の合戦で豊臣方の 石田三成 らをやぶって天下をとり、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。2年後に長男の秀忠に将軍職を譲りますが、政治の実権はしっかり握って、およそ260年続く江戸幕府の基礎をきずいたのです。

徳川家康の詳しい生涯につきましては、いずみ書房「せかい伝記図書館」 (オンラインブック「徳川家康」) をご覧ください。


「4月17日にあった主なできごと」

723年 三世一身法… 聖武天皇 が即位したこの年、農民の人口が増え、耕地が不足したため、田地を開墾した者には、本人・子ども・孫の代まで、その土地の所有を認める「三世一身法」を、この日公布しました。当時は、土地の所有は認められず、班田収授制によって貸与された土地からの何割かを「租」として納める制度でした。

1895年 下関条約調印…1894年7月に始まった日清戦争は、日本の勝利に終わりましたが、この日山口県下関市で、日清戦争の講和条約のための下関条約が調印されました。朝鮮独立の承認、日本へ台湾および遼東半島の割譲、賠償金3億円(当時の国家予算の3~4倍)の支払いなどを約束した内容でした。しかし、1週間後の23日、ロシア・ドイツ・フランス3国が、遼東半島を還付するよう勧告した「三国干渉」を受け、武力でおとる日本はこれを返還し、4700万円の代償金を受けました。以降、日本はロシアに対し、強い反感を持つようになり、日露戦争の遠因になります。

おもしろ科学質問箱 16

空に輝く星をながめて、どの星が一番明るいだろうかと、見つけようとしたことがだれしもあることでしょう。

最近は、空が明るくなってきているので、都会ではそれほどたくさんの星が見られなくなってきていますが、晴れた日でしたら何百という星があって、とても数えることができそうにないと思ってしまいます。でも、肉眼で見ることのできる星は、およそ6000個。日本からは見ることのできる星は、その3/4の4500個ほどあるそうです。

古代ギリシアの時代から、天文学では星の光の強さ、つまり明るさで等級を分けてきました。1600年前後に望遠鏡が発明されるまでは、星の明るさには6段階あり、1番明るい星を1等星、1番暗い星を6等星としてきました。望遠鏡が発明されてからは、これまでわからなかった星が見つかり、最近の望遠鏡は、21等星まで写真に撮ることができるそうです。そしてその数は、10億個もあります。これらがすべて太陽と同じように、みずから光り輝く星(恒星)なのですから、宇宙の広さはとてもはかりしれません。

ちなみに、1等星は22個、その中でも一番明るい星は、おおいぬ座のシリウスという星で、光度はマイナス1.6等星。等級が1等級変わると、明るさはおよそ2.5倍になるので、シリウスは6等星の1000倍もの明るさがあります。

びっくりするかもしれませんが、これより断然明るい星があります。それは、マイナス26.7等星の太陽です。あまりに明るいために、他の星を見ることができません。朝方や夕方など太陽の光が弱いとき、もちろん夜には、シリウスより明るい星を見ることができます。 それは、マイナス12.6等星(満月の時)の月、マイナス4.7等星の金星、マイナス3等星の火星です。でも、月は地球の周りをまわる衛星、金星や火星は地球と同じように、太陽の周りをまわる惑星で、それぞれ太陽の光を反射しているだけで、自ら光を発していません。

宇宙にある何十億もの恒星には、太陽の周りをまわるいくつもの惑星(水星・金星・地球・火星・木星・土星など)があるように、惑星を従えている星がたくさんあり、地球と同じように、生物のいる惑星も数限りなく存在していることでしょう。現在の天文学では、太陽以外の星の惑星(太陽系外惑星)を310以上も発見しているそうです。

↑このページのトップヘ