児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年04月

今日4月30日は、1950年に「図書館法」ができたことがきっかけとなって、1971年からこの日を「図書館記念日」としました。さらに、明日からはじまる5月を「図書館振興の月」として、全国各地の公共図書館では、さまざまな催しが開かれるようです。

だれでも利用できる図書館が、はじめて日本にできたのは、1872年のことでした。現在、日本の公立図書館は3000以上もありますが、図書館の数は、他の先進諸国に比べるとまだ低いようで、G7諸国(イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、日本) のうち人口10万人に対する図書館の数は、ドイツが14.8館で最も多く、日本は2.2館と最少です。

ほとんど地方公共団体が設置したものですが、市役所などと異って、土曜日、日曜日でも開館しているところが多いのが特長です。伝統的に、書籍や雑誌、新聞などを収集・所蔵して提供していますが、近年では、CD、DVDなどの音響商品を提供したり、インターネット端末を自由に利用させてくれる公共図書館もでてきています。

最近の図書館のほとんどは、自分の手で資料を選べる開架式になっています。さらに、館内での閲覧にとどまらず、館外貸出 (1回に5~10点・貸出期間2週間前後)まで行っているところが多く、便利な反面、利用したい資料をすぐに見ることができないという不便を感じることがたまにあります。

開館している時間が短く(午後5時閉館が多数)閉館日が多いという利用者の不満に対し、民間企業やNPOが運営やコンサルトを行って、開館日を増やしたり、開館時間を延長したり、閉館後にさまざまな講座を行っている図書館も出てきています。

絵本や児童図書の充実している図書館も多く、定期的に読み聞かせ会をやったり、ちょっとした遊びのスペースがこしらえてあって、紙芝居を楽しむ親子の姿を見かけると、なぜかほほえましい気分になります。

上手に利用すると、思わぬ発見がありますので、ぜひ近くの図書館をのぞいてみることをおすすめします。


「4月30日にあった主なできごと」

1189年 義経 衣川で自害…一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いに勝利して、平氏を滅ぼした 源義経 は、兄 源頼朝 と対立、この日奥州藤原氏当主の藤原泰衡(やすひら)の率いる500騎の兵に、衣川の館を襲われました。泰衡の父秀衡(ひでひら)は、義経をかくまうよう遺言を残していましたが、頼朝からのおどしに泰衡が屈したためで、義経はいっさい戦わず、妻子を殺害して自害しました。

1945年 ヒトラーの自決…ドイツの独裁者 ヒトラー は、1933年から12年間ドイツを支配、1939年にポーランドに侵入し、ソ連に戦争をしかけたことで、第2次世界大戦を引き起こしました。当初は、連戦連勝の勢いでしたが、やがてソ連はもりかえし、1945年4月に入る、ドイツの首都ベルリンを陥落させるところまで追いつめ、この日、前日結婚したばかりの妻エバァとともに自殺しました。1週間後の5月7日、ドイツは降伏し、ヨーロッパに平和がもどりました。

今日4月28日は、太平洋戦争敗戦後アメリカを中心とする連合国に占領された日本が、平和条約を結び、1952年のこの日に主権が回復した日です。

1945年8月15日、第2次世界大戦で連合国軍に敗れた日本は、同年9月から連合国軍に占領されていました。そして、1951年9月、この大戦の終結と国交回復のために、アメリカのサンフランシスコで、対日講和会議が開かれ、日本は連合国48か国と講和条約「サンフランシスコ講和条約」に調印しました。そして、この日に条約が効力を発生し、いちおう独立国として再出発することになりました。

しかしこの会議に、日本がもっとも長く戦ってきた中国は呼ばれませんでした。インドとビルマは、中国を呼ばないことへの疑問から出席を拒否しました。ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは参加をしたものの、この条約がアメリカが中心になって決めたたもので、明確さに欠けるとして反対しました。

たしかに、この講和が中途半端なものだったために、日本はほんとうの意味で独立国にはなれませんでした。日本の全権として参加した主席 吉田茂 首相らが、この講和条約に基づいて「日米安全保障条約」(安保)を結んだことにもありました。安保には、アメリカが引き続き日本に軍隊をおくことが記されていました。日本国憲法には、軍隊を持たず、平和国家を表明しているのに、日本に軍事基地があれば、日本も戦争に巻きこまれる可能性があるからです。その後、日本に700か所に軍事基地がおかれ、沖縄や小笠原諸島などは、事実上アメリカに占領されました(返還されたのは1970年代)。

なお、日本はこの条約を締結しなかった国々とは、1972年に中国と国交回復するなど、個別に平和条約を締結していますが、ソビエト連邦(現・ロシア)や、北朝鮮とはいまだに平和条約を締結していません。


「4月28日にあった主なできごと」

1253年 法華宗の誕生…鎌倉時代の僧 日蓮 は、房総半島にある清澄寺で、昇ってくる太陽をはじめ宇宙法界に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱えはじめ、法華宗を開いたと宣言しました。32歳の時でした。

1945年 ムッソリーニ処刑…「ファッシスト党」を率いて独裁政治を行ない、ドイツの ヒトラー と組んで第2次世界大戦に参戦したイタリアのムッソリーニは、イタリア解放義勇軍パルチザンに捕らえられ、この日愛人とともに銃殺されました。

今日4月27日は、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが、紀元前399年に毒を飲んで亡くなった日です。古代ギリシアに大きく花開いた文化は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらの大哲学者を輩出させたことが、まず第1に特記されます。

ソクラテスは、彫刻家と助産婦の子として、紀元前470年ころギリシアのアテネに生まれました。父は彫刻家、母は助産婦でした。

当時のギリシアは、ポリスという小さな都市国家の寄り集まりでした。地中海沿岸に植民地をつくりながら発展させ、後のヨーロッパ文明の基礎ともいうべきすばらしい文化を打ち立てたのです。その中心がアテネでした。おおらかで明快な美しさをもつ建築や彫刻群、さらに文学、天文学、航海術、スポーツなど、あらゆる人類の文化が、古代ギリシアの花園にいっせいに咲き誇ったのです。

ソクラテスは、その自由な空気をすいながら、はじめは、父の仕事をついで彫刻家になることを考えました。そのうち、詩人か音楽家になることを夢にいだいたり、アテネに集まる外国の学者から地球や宇宙の話を聞いて、科学に夢中になったこともありました。

ところが、ある学者は地球は丸いといい、ある学者は平らだというのを聞いているうちに、真実がひとつなら、多くの学者はうそを信じていると考えるようになり、科学を学ぶ心をすて、哲学を学ぶようなりました。

人間の心の世界のことを考える学問を追究するうち、当時ソフィストと名のる学者たちが、苦しみや悩みもつ人たちに、お金をもらって、さまざまなことを教えて生活をたてることに疑問を感じるようになりました。ソクラテスは、人間の正しい生きかたを、どこまでも追究していくことこそ、真理だと考えたのです。

そして、アテネの街角に立ち、若者にさまざまな質問を投げかけ、若者の信じる考えを正しいものと仮定しながらさらに質問を続け、自分の説の間違いを若者自身に気づかせる教育法をあみだしました。これは「産婆術」ともいわれ、まさに「引き出す」という教育の原点になっています。

ソクラテス自身は、著作を行わなかったため、その思想は弟子のプラトンや歴史家のクセノポン、プラトンの弟子のアリストテレスらの著作を通じて紹介されています。

ある時ソクラテスは、ソフィストの考えを向上させるたいと対話を行なったところ、ソフィストたちがあまりに「常識」に執着していたため、「知っているといいながら、実は知らない」ということを暴くことになりました。

恥をかかされたソフィストは「ソクラテスは国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」という理由で、ソクラテスは公開裁判にかけられてしまいました。ソクラテスは弁明を行い、自説を曲げたり自身の行動を反省したりすることをいっさいしなかったため、結果的に死刑をいい渡されてしまったのです。

プラトン(クリトン)らによって逃亡・亡命も勧められました。またソクラテスに同情する牢番も、ソクラテスがいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていましたが、これも拒否しました。当時は死刑を命じられても、牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったのです。しかし、自身の知への愛(フィロソフィア)を貫いて、死を恐れずに毒を飲む道を選んだのです。

このてんまつは、プラトンの著作「ソクラテスの弁明」や「クリトン」などに詳しく書かれています。オンライン図書館「青空文庫」には 「クリトン」 の全文が紹介されています。説得力のあるその考え方と迫力は、2千数百年たった今も、まったく失われていません。

なお、ソクラテスの詳しい生涯は、いずみ書房「せかい伝記図書館」 (オンラインブック「ソクラテス」) をご覧ください。

今日4月24日は、江戸時代・元禄期の大商人で、紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)が、1718年に亡くなったといわれている日です。

17世紀から18世紀にかけて、産業がさかんになるにつれて、商業が大きく発展し、大商人といわれる人たちが各地に現われました。紀伊国屋文左衛門も、そのころに活躍した豪商のひとりです。

文左衛門がいつどこで生まれ、どのように育ち、いつ江戸に出てきたのかほとんどわかっていません。しかし、文左衛門の隆盛のきっかけとなったといわれるミカン船の話は有名です。

ある年の暮れ、海の荒れる日がつづいて、紀州から江戸へわたる船がでませんでした。そのため、紀州のミカンは値が下がり、反対に江戸ではどんどん値上がりしてゆきました。

この機会をのがさず、すぐ行動したのが文左衛門です。紀州のミカンをできるだけ安く買い集めると、船いっぱいにつみこみました。そして、大金を出して船のりをやとい、荒れくるう海にのりだしました。命がけで江戸へ着くと、待ちかまえていた商人たちによってミカンの値はつりあげられ、たちまちのうちに売りつくされました。文左衛門は、もうけたお金でこんどは、塩ザケを買いこみました。そして関西に運んで大きな利益をあげたのです。

この話は、事実かどうかわかりませんが、大金を手にした文左衛門は、1687年江戸の八丁堀で材木問屋をはじめました。そのころの江戸は「火事とけんかは江戸の花」といわれたほど火事がおおく、しばしば大火にみまわれました。火事のあとは、焼けた家を建てなおす材木が必要です。ここに目をつけた文左衛門は、大火があると、まだ火が消えないうちに江戸を立って木曾にむかいました。そして、大量の材木を買いしめると、焼け野原となった江戸へ材木の山を送りこんだのです。もちろん材木は、とぶように売れました。

そのご文左衛門は、将軍 徳川綱吉 のお気に入りの老中柳沢吉保にとりいり、材木御用達となって、幕府の建築用材を一手にひきうける身分になりました。1698年には、上野寛永寺の根本中堂の造営をうけおい、50万両をもうけるなど、巨富をつかんでいったのです。しかし、そのうち文左衛門の浪費がはげしくなり、豆まきの豆のかわりに小粒金をまいたり、遊里吉原や芝居などにお金を湯水のように使うようになりました。

やがて、政治に 新井白石 が現われ、役人と商人の不正取りひきをきびしく取りしまるようになりました。文左衛門はみるみる落ちぶれ、家屋敷も売りはらい、みじめなくらしに追いやられたようですが、その生き方に、剛気な人の姿を見ることができます。


「4月24日にあった主なできごと」

1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。

1955年 アジア・アフリカ会議…インド ネルー 首相、インドネシア スカルノ 大統領、中国周恩来首相、エジプト ナセル 大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。

今日4月23日は、2002年のこの日から「子ども読書の日」と定められ、全国にある公共図書館では、この日前後に子どもを対象とした読書に関するイベントが数多く開催されます。

スペイン東北部のカタルーニャ地方(州都バルセロナ)の本屋は、守護聖人サン・ジョルディの祭りのこの日が、小説『ドン・キホーテ』の作者 セルバンテス の命日(1616年)であり、シェイクスピア の命日(1616年)でもあるという文学に非常に縁の深い日でもあることと結びつけて、1923年に、プレゼント用に本を買うと赤いバラを添えて、本を贈るという風習を広めました。

日本でも、このスペインの風習を定着させようと、日本カタルーニャ友好親善協会や日本の書店関係者が中心になって、1986年からこの日を「サン・ジョルディの日」と定めました。また1995年には、ユネスコでも、サン・ジョルディのこの日を「世界本の日」としています。

そして、2001年12月に施行された「子どもの読書活動の推進に関する法律」により、2002年から「子ども読書の日」と定めました。その基本理念として、「子どもの読書活動は、子どもが言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものであることにかんがみ、すべての子どもがあらゆる機会とあらゆる場所において自主的に読書活動を行うことができるよう、積極的にそのための環境の整備が推進されなければならない」と記されています。

こういう運動は、活字離れが叫ばれている今日、ますます広まってほしいものです。


「4月23日にあった主なできごと」

1863年 寺田屋騒動…薩摩藩主の父で事実上の指導者島津久光の公武合体論に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七ら6名は伏見の船宿寺田屋に集まり、九条関白、京都所司代らの襲撃を謀議中、久光の命を受けた藩士らに殺されました。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策を実現させるために江戸へ向かいました。

1949年  1ドル360円…GHQはこの日、日本円とアメリカドルの交換レートを1ドル360円と定めました。このレートは1971年まで22年間にわたって維持されました。ちなみに、明治初期の1ドルは1円と定められていたようです。

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