児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年03月

今日3月9日は、人類として初めて宇宙飛行をなしとげたソ連の宇宙飛行士ガガーリンが、1934年に生まれた日です。

ユーリー・ガガーリンは、ソ連西部のスモレンスク州で生まれました。父も母も、コルホーズとよばれる集団農場ではたらいていました。

ガガーリンが5歳のとき第2次世界大戦が始まり、スモレンスクにもドイツ軍が攻めてきました。そして村は敵に占領され、家族は穴ぐらで生活しなければなりませんでした。

1945年に戦争は終わり、中学校で2年学んだガガーリンは、家が貧しかったので上級学校へ行くのをあきらめ、工場ではたらきながら学ぶ職業学校へ入りました。

「もっと勉強したい。できれば、大学をでて技師になりたい」

やがて、夜間中学から、さらに技術専門学校へと進みました。ところが、専門学校のときに町の航空クラブへ入って大空へ舞いあがっているうちに、すっかり飛行機にとりつかれてしまいました。そして、21歳のときには航空士官学校に合格して、パイロットへの道をあゆみ始めたのです。

2年間の士官学校を終え、すぐれた戦闘機乗りになったガガーリン少尉は、北極に近い基地の任務につきました。しかし3年ののちには、ひそかにあこがれていた宇宙飛行士の候補にえらばれ、26歳のたん生日をむかえると、ひみつの場所で、きびしいくんれんを受けるようになりました。

1961年4月12日、宇宙服を身につけたガガーリンは、ついに宇宙船ボストーク1号に乗りこみました。

「心臓、かわりなし、準備完了」「よし、発射」

モスクワの時間で午前9時7分、ボストーク1号は、ごうごうと音をたてて発射台をはなれました。そして、わずか70秒をすぎたと思うと無重力の大気圏外へとびだし、1時間48分で地球をひとまわりして、ボルガ川のほとりのコルホーズにもどってきました。

「地球は青かった。さまざまな色の絵の具をならべたように美しかった」

いのちがけで、すばらしい宇宙へのとびらをあけたガガーリンは、たちまち、世界の英雄になりました。国からは、27歳の若さで少佐の位があたえられました。しかし、それからわずか7年ののち、この新しい時代の英雄は、訓練中のジェット機がつい落して、悲しい最期をとげてしまいました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)18巻「毛沢東・ディズニー・ケネディ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ガガーリン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「3月9日にあった主なできごと」

1933年 ニューディール…1932年に行なわれたアメリカ大統領選挙に勝利した民主党フランクリン・ルーズベルト大統領は、世界恐慌対策として、この日より100日間に、銀行および破産直前の会社や個人の救済、TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業、大規模雇用などの全国民的な経済活動「ニューディール政策」を、はなばなしくスタートさせました。

「読み聞かせ」のすすめ 21

ある書店でのことです。子どもの本の棚の前に、ひと組の母子がいました。子どもは3、4歳の女の子、母親は30歳くらいです。その母子を観察していると、おもしろいことがわかってきました。

子どもが、棚の前に平積みしてある絵本をひとつ一つ見ていきます。ある本は表紙を見ただけで手を離し、ある本はページをめくってじっと見ていきます。母親は子どもの後ろに立って、その子が本を少し乱暴に置いたときだけ「あら、きちんと置きましょ」という時以外、「早くしなさい」「それより、こっちの方が」などと余計な口をはさみません。およそ、15分、思わず、その母親に声をかけてみると、こんなことを語ってくれました。

「平均すると、ひと月に4、5回子どもを書店に連れてきます。その日は子どもが主役で、他の買物はしません。本は子どもに選ばせます。子どもはまだ字が読めないから、本の内容がわかるはずはありませんが、絵を見ながら物語の中身を想像するのでしょう。どんなに長くても、20分くらいで結論をだします。こうして買いたい本が決まれば、子どもにお金を渡し、自分で支払いをさせます。こうして、その本どんなお話かなぁ、などと語りあいながら家へもどり、すぐ読み聞かせに入ります。すると、その本のことで頭がいっぱいになっている子どもは、息を殺すように聞いてくれます」

とても印象的な話がうかがえました。こういうやりかたも、時には実践したいものです。

今日3月5日は、ソ連の独裁者、共産党指導者、首相、大元帥として活躍したスターリンが、1953年に亡くなった日です。

ヨシフ・ビサリオノビッチ・スターリンは、1879年に、黒海に近い小さな町で生まれました。父は、靴職人でしたが、家はいつも貧しく、母も、よその家のよごれものを洗う洗濯女として、はたらいていました。

11歳のときに父を亡くし、やがてスターリンは、信心ぶかい母にすすめられて、神学校へ進みました。しかし、おおくの本を読むうちに革命運動にくわわるようになり、神学校は卒業まぎわに追いだされてしまいました。ソ連を、まだロシアとよんでいたこのころは、国は皇帝や貴族に支配され、社会革命など、とてもゆるされない時代だったのです。

「労働者の自由を守る、社会主義国家を建設しなければだめだ」

警察の目をかくれて、社会主義者への道をつき進みはじめたスターリンは、何度捕えられても、牢獄をぬけだして、活動をつづけました。

1917年、歴史に残るロシア革命がおこって皇帝がたおされ、マルクス主義者レーニンによって、新しい社会主義政権がうちたてられました。そして5年後には、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が生まれました。世界で初めての、社会主義国家です。

スターリンは、レーニンにみとめられて、共和国連邦をささえるソビエト連邦共産党の書記長に任命され、国の政治に大きな力をもつようになりました。

1924年、レーニンが死にました。スターリンは、政府内の反対者をことごとくおさえて、レーニンのあとをつぎました。いよいよ、スターリン時代の幕開けです。

「われわれは、先進諸国に、50年も100年もたちおくれている。このおくれを、10年で、とりもどさなければならない」

スターリンは、近代国家の建設をめざして立ちあがりました。そして、5年計画で工業の大発展をなしとげ、さらに、農業の機械化も実現しました。1936年には新憲法をつくり、労働者と農民を中心にした社会主義国家のきそをかためました。

そのごのスターリンは、第2次世界大戦を、ロシア民族の栄光を守るための「大祖国戦争」と名づけて戦いぬき、戦勝後は外交にも大きな功績をのこして、1953年に74歳の生涯を閉じました。亡きがらに光っていたのは、大元帥の肩章でした。

スターリンは死後、フルシチョフのスターリン批判など、スターリンによる独裁時代の政治姿勢は、たくさんの共産主義者から非難されることになりました。しかし、ソ連建設の偉大さは、いまもかわりなくたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)16巻「アムンゼン・チャーチル・シュバイツァー」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「スターリン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「3月5日にあった主なできごと」

1929年 山本宣治の暗殺…山本宣治は大正・昭和初期の政治家で、山宣(やません)の愛称で親しまれていました。1928年に第1回普通選挙が行われた際、宣治は共産党系の労働農民党から立候補して当選しました。ところが、田中義一内閣は、全国千数百人もの労働農民党員を捕らえ、党の解散を命じたばかりでなく、共産主義者は死刑・無期刑にするという治安維持法の改正をくわだてました。宣治は敢然と反対を叫びましたが、この日改正案が衆議院を通過しました。そしてこの夜、宣治の宿泊先に右翼を名乗る男が押しかけ、宣治の胸を刺したのです。

今日3月3日は、女の子のすこやかな成長を祈る年中行事ひなまつりの日です。また、3月3日は、33と、3が重なることからミミの語呂合わせと、3が耳の形に似ていることから、1956年に日本耳鼻学界は「耳の日」に制定しました。

アメリカでは、電話の発明者であるベルが誕生した日を記念して「電話記念日」とし、ベル が隣の部屋にいる助手のワトソンに伝えた「Mr. Watson, come here, I want you.」(ワトソン君、用があるから来てくれないか)というフレーズを、記念の言葉としています。

ひな祭りの今日は、ひな人形を飾り、旧暦ではその頃に桃がかわいい花を咲かせるために、「桃の節句」ともいわれます。その起源は、むかし中国で重三(3が並ぶ)の節句と呼ばれていたものが、平安時代に日本に伝わってきたものです。貴族のあいだだけで行なわれていましたが、江戸時代になって一般の家庭にも広がるようになったようです。

なお、1887年のこの日は、三重苦の ヘレン・ケラー が、彼女に奇跡を起こした家庭教師サリバン先生の指導を受け始めた日です。二人を結びつけたのが、この日に生まれた電話の発明者グラハム・ベルだったことも、何か深い因縁を感じてしまいます。


「3月3日にあった主なできごと」

1854年 日米和親条約…アメリカの ペリー 提督が、前年6月につづき7隻の軍艦を率いて再び日本へやってきました。横浜で井伊大老らと談判をつづけていましたが、この日「日米和親条約」(神奈川条約)に調印しました。これにより、下田と函館の2港へ入ることを認めました。

1860年 桜田門外の変…大雪が降るこの日の朝9時ごろ、江戸城外桜田門近くで、江戸城に向かう大老 井伊直弼 と約60人の行列に、一発の銃声が響きました。これを合図に水戸浪士ら18名が行列に切り込み、かごの中の井伊の首をはねました。浪士たちは井伊大老による安政の大獄で、水戸藩主をはじめ多数の処罰を恨んだ行動でした。

今日3月2日は、生物の起源を科学的に説き明かしたソ連(現ロシア) の生化学者オパーリンが、1894年に生まれた日です。

地球上の生物は、初めは、どのようにして生まれたのだろうか……。「きっと、神さまがつくったのだ」 「いいえ、自然に生まれたのだ」 「そうではない、宇宙の、ほかの天体からとんできたのだ」。むかしから、地球上の人びとは、このように考えつづけてきました。

アレクサンドル・オパーリンは、この生物の起こりを、世界で初めて科学的に説き明かした、ソ連の生化学者です。

1894年に商人の子として生まれたオパーリンは、モスクワ大学で植物生化学を学びました。それは、植物をこまかく分析して「生物の生命とは、いったい何か」を、つきとめる学問です。卒業ごも研究室で研究をつづけ、35歳で、母校の教授になりました。また、6年ごには、バッハ生化学研究所にむかえられ、生命の神秘に、ますます深くいどみました。

1936年、研究の成果をまとめて「生命の起源」を発表しました。オパーリンが、およそ10年の研究でつきとめたのは、つぎのようなことでした。

「温度が高かった地球の表面が冷えはじめたころ、空気中に炭化水素が発生した。地球で初めての有機化合物である。やがて、この有機化合物は、雨にまじって海中へ入り、コアセルベートという、生命をもった小さな液のかたまりになった。そして、コアセルベートは、ほかの物質と作用しあって単細胞の生物へと生まれかわっていった。これが、生命の起こりである。生物は、自然に生まれたものでも、神がつくったものでもない。地球の誕生とともに、生命をもつ有機物質から、ひとつの順序をへて生まれたのだ」

オパーリンは、まず、炭化水素や有機物質の性質について研究をつづけ、その成果を、数10億年まえの地球の始まりとむすびつけて、生物の起こりを考えたのです。この「生命の起源」は、生物の自然発生説などをしりぞけて、これまでの生命についての考えをすっかり改め、世界の生化学者たちの研究に大きな光をあたえました。

しかし、オパーリンの研究の成果が、すべて正しいとされたのではありません。地球が生まれるときのことなどに、まだまだ、なぞが少なくないからです。

オパーリンは、生物の細胞の中でつくられる酵素の研究にも、大きな功績を残しました。また、科学者として、世界の平和運動にも力をつくしました。生命の起源と発達の研究は、このオパーリンの考えをもとにして、いまも、つづけられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)17巻「アインシュタイン・ヘレンケラー・チャップリン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「オパーリン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「3月2日にあった主なできごと」

1943年 野球用語の日本語化…太平洋戦争の激化に伴って「英語」は敵性語であるとされ、この日陸軍情報部は、日本野球連盟に対し、野球用語を日本語化するよう通達を出しました。ちなみに、ストライクは「よし」+本数(1本・2本)。三振は「よし3本、それまで!」、アウトは「よし、退(ひ)け!」、フォアボールは「一塁へ」などとなりました。

1958年 南極大陸横断に成功…イギリスのフックス隊が、ウェデル海から南極大陸に上陸し、南極点を通ってロス海に到達するまで3360kmの行程を、99日間の苦しい旅の末に、この日横断に成功しました。

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