児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年03月

今日3月16日は、オランダの商船リーフデ号に乗ったウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針[みうら あんじん])が、1600年に日本に漂着した日です。

ウィリアム・アダムスは、イギリスの造船のさかんな町に生まれ、造船技術を身につけて、イギリス艦隊の船長として従事したのち、オランダに渡って、1598年、5隻からなる東洋遠征船隊に水先案内としてリーフデ号に乗船しました。ところが、航海はとても厳しいもので、太平洋を横断中に船団はちりぢり離れになり、リーフデ号だけが、この日、大分県臼杵市付近の海岸に漂着しました。

このことは、当時大坂(大阪)にいた徳川家康に知らされ、家康はリーフデ号を大阪に回航させました。アダムスは、船長の代理で大阪城へおもむき、家康と会いました。リーフデ号を海賊船だと思いこんでいた家康は、アダムスが「オランダ本国の命を受けて、平和な貿易をするために来日したのであり、布教が目的ではない」ことを知り、幾度かにわたって引見を繰りかえしたのちに釈放、江戸城に招きました。そして、アダムスが世界情勢の分析から、地理、天文、数学や測量、航海や造船などについての広い知識があることを知った家康は、外交顧問にとりたて、日本橋へ屋敷までも与えたのです。

やがてアダムスは、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請され、1604年に80トンの帆船を建造。できばえに感心した家康は、さらに大型船の建造を指示、1607年には120トンの船舶を完成させました。

この功績をたたえた家康は、帰国を熱望するアダムスを引きとめるため、250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したばかりでなく、三浦半島の浦賀付近に所領を与え、三浦按針と名乗らせました。(三浦半島の「三浦」、水先案内の「按針」からとられました)

しかし、家康の保護のもとに政治や外交に力をそそぎ、何度となく帰国を願い出ましたが、家康はこれを許さず、やがて1916年に家康が死去して2代将軍秀忠になると、鎖国も厳しくなり、1920年に平戸でさびしく56歳の生涯を閉じました。


「3月16日にあった主なできごと」

1934年 国立公園…日本で初の国立公園が指定されました。この日指定されたのは、瀬戸内海、雲仙、霧島の3か所で、その後次々に指定されたり、地域が広がったり、現在は、次の29か所です。阿寒、大雪山、支笏洞爺、知床、利尻礼文サロベツ、釧路湿原、十和田八幡平、磐梯朝日、陸中海岸、日光、富士箱根伊豆、秩父多摩甲斐、南アルプス、小笠原、尾瀬、中部山岳、伊勢志摩、上信越高原、白山、吉野熊野、山陰海岸、大山隠岐、足摺宇和海、雲仙天草、霧島屋久、阿蘇くじゅう、西海、西表石垣、瀬戸内海の各国立公園。なお、2007年8月に日光国立公園から尾瀬地域を分離し、周囲を新たに編入する形で尾瀬国立公園が新設されたのが一番新しいもので、これは1987年の釧路湿原国立公園以来20年ぶりの新設でした。

おもしろ「言葉」のおこり 8

● もしもし

電話で相手に呼びかけるときの「もしもし」。これは、人に呼びかけるとき、訴えかけるときの敬語「申す」がもとになったものです。「申します申します」が、使いやすいように「もしもし」と一般化しました。

● とどのつまり

いろいろやってみて、けっきょく思わしくない結果に終わったときに使う言葉ですが、トドとは魚のボラのことで、幼魚のときはオボコといい、成長するにつれてクチナ、スバシリ、イナ、ボラとなって、最後にトドと呼ばれることから「とどのつまり」という言葉が生まれたといわれます。

● 八百長

前もって勝負を打ち合わせておいて、表面だけは真剣に勝負したように見せかけることですが、もともとは人の名前です。明治時代に八百屋の長兵衛という人がいて、大相撲の年寄・伊勢ノ海と囲碁仲間でした。実際には、長兵衛は伊勢の海よりずっと強いのに、ごきげんをとるために、勝負を互角になるように細工しました。これを見た人が、わざと負けることを「八百長」とよぶようになりました。やはり、「八百長」は、相撲に関連しているようですね。

ある子ども向けの科学絵本を見ていましたら、こんな質問が出ていました。

「犬はみんな足を上げてオシッコをするの?」 次の1~3のうち正しいのはどれでしょう。
1. 足の長い犬だけが、足をあげてオシッコする。
2. 犬はみんな、足を上げてオシッコする。
3. メスの犬は、足を上げてオシッコしない。

答えは、3. メスの犬は、足を上げてオシッコをしない。
なぜなぜ博士の解説: 足を上げてオシッコするのは、オスだけじゃ。メスの犬や赤ちゃんの犬は、しゃがんでオシッコをするのじゃよ。
オスのイヌが足を上げてオシッコをするのは、じぶんの縄張りににおいをつけるためだ。

しかし、この回答は正しくはありません。なぜなら、私と暮らしている相棒のモカは、パピヨンのメス(最近は女の子というみたい)ですが、とても学習能力の高い子で、1歳くらいまでは足をあげずにオシッコをしていましたが、ある日、オスが足を上げてオシッコをするのを見て、(そうだ、足を上げてオシッコをすれば、オシッコが後ろ足につかないな) と思ったのでしょう。それ以来、足をあげてオシッコをするようになりました。そのためモカのオシッコ・スタイルを見た人が、「オスですか」とか「男の子ですか」と聞きますが、「いいえ、メス(女の子)です」と答えると、不思議な顔をされるのはそのためなのでしょう。

なぜなぜ博士様、解説に「メスの犬にも、足をあげてオシッコをする犬もいる」と、つけ加えたらいかがでしょう。

今日3月11日は、400年にもわたり甲斐の国(山梨県)を支配してきた武田氏が、1582年に滅びた日です。

室町幕府の将軍のあとつぎをめぐる争いは、多くの守護大名をまきこみ応仁の乱(1467-77年)となりました。日本の歴史区分では、この応仁の乱から、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放され、室町幕府が事実上消滅するまでの約100年間を、「戦国時代」とよびます。

その戦国時代に、戦国一の戦術家といわれた甲斐の武将・武田信玄は、訓練された武田騎馬隊を誇り、多くの大名たちを恐れさせるほど強力なものでした。武田勝頼は、1573年に亡くなった父信玄から家督を相続し、その遺志をついで京にのぼり、足利将軍をおしたてて、天下に号令をかけようと準備をしました。そして、1575年4月に大軍を率いて三河の長篠城を包囲、織田信長徳川家康軍と相対したのです。

しかし武田軍は、この「長篠の戦い」で、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。連合軍は、鉄砲隊を、火縄銃の弾こめから発車までのタイムロスをなくすために3つのグループに分け、三段撃ち戦法を駆使しました。当時としては最大規模の鉄砲隊と、騎馬隊を防ぐための鉄砲隊前方に3重の馬防柵をめぐらす戦術に敗れてしまったのです。

それ以後、武田の勢力は急速に衰えはじめ、美濃や遠江でおさえたいくつかの城を家康に奪い返されて、勝頼は韮崎城に移りました。1582年になると、まもなく義弟に反旗をひるがえされたのがきっかけとなって、信長・家康軍は大軍をひきいて甲斐征伐を開始、挟みうちされた勝頼は、この日天目山のふもとで自害をしました。こうして、19代つづいた武田氏は滅亡してしまいました。

第2次世界大戦の末期、東京はアメリカ軍により100回以上もの空襲を受けましたが、1945年の今日あった東京への空襲はもっとも大規模なものでした。

大空襲は、1945年3月10日に日付が変わったばかりの深夜に開始されました。B-29爆撃機およそ300機が飛来して、深川地区へ爆弾を投下したのを手はじめに、城東地区、浅草地区、芝地区とつづき、民間の住民を猛火に閉じこめ、逃げまどう人々には超低空から、大量の手榴弾、機銃掃射、そして木造家屋へ焼夷弾を浴びせたのです。爆撃は、2時間40分にもわたり、その夜の東京は、強い北西の季節風が吹いていたため、下町地区は火の海と化したのでした。

人々は火災から逃れるために、隅田川にかかる多くの橋や、燃えないといわれていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいましたが、火災の規模がとてつもない大きなものであったため、火災旋風があちこちに発生して、橋や建物にも流れこみ、焼死する人、窒息死する人、川に逃げこんだものの水温が低いため凍死する人が続出、翌朝の隅田川には凍死や溺死した人たちで川面があふれていたといいます。死亡・行方不明者は10万人以上、焼失家屋18万戸、罹災37万世帯、東京市街地の3分の1以上が焼失しました。

なお、東京大空襲で家族を失った少女を描いた高木敏子のノンフィクション「ガラスのうさぎ」を忘れることはできません。主人公・敏子の父親はガラス工場の経営者。敏子の母と妹を奪った空襲の焼跡に、父が作ってくれたガラス細工のゆがんだウサギが残っていました。その父も疎開途中にアメリカ軍の機銃掃射にあって、敏子の目の前で命を落とします。ひとりぽっちになり、絶望の果てに死を見つめ深夜の海辺をさまよう敏子。でも「私が死んだら、お父さん、お母さん、妹たちのお墓参りは誰がするの。私は生きなければ……」と孤独と悲しみの中で、心を奮い立たせるのでした……。この作品について綴った 2006年4月26日のブログ をぜひご覧ください。

「3月10日にあった主なできごと」

710年 平城京…元明天皇は藤原京から、この日奈良の平城京に都を移しました。「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今さかりなり」と歌われたように、794年桓武天皇が京都の平安京に遷都するまで、たいへん栄えました。

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