児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年03月

今日3月24日は、「80日間世界一周」「海底2万マイル」「十五少年漂流記」などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家ベルヌが、1905年に亡くなった日です。

ジュール・ベルヌは、フランス西海岸のナントに、5人兄弟の長男として1828年に生まれました。当時ナントは、交易が盛んな港町だったため、少年のころのベルヌは、船乗りたちの話に、冒険心と想像力をかきたてられました。

しかし、父は地元の弁護士だったため、法律の勉強をさせられ、勉強のために出たパリで アレクサンドル・デュマ に出会い、劇作家を志すようになりました。デュマがプロデュースした、ベルヌの処女作「折れた麦わら」は好評で、2週間も上演されました。

その一方でベルヌは、エドガー・アラン・ポーが、小説に科学的事実を取り入れることによって、物語に真実味を持たせるという技法に興味を持つようになっていました。そして、友人が制作した気球に触発され、1863年に書いた冒険小説「気球に乗って五週間」が大評判となり、流行作家となりました。そして、生涯にわたって科学・冒険小説の傑作を次々に生み出していったのです。1905年になくなるまでに書いた小説は、60編あまり。ベルヌの作品は、科学的な進歩を考慮したために、小説の中で発明された化学食糧、潜水艦、電送写真などは、当時の科学者たちを大いに刺激したようです。

なお、代表作「80日間世界一周」の内容は次の通り。(フィリアス・フォッグは、サロンで友人たちと話をしていた時、世界一周はどのくらいの日数でできるかという話になりました。彼は80日あればできるといい、それを証明しようと、召使いのパスパルトゥーを連れて出発します。しかしフォッグが大金を持っていることを怪しんだ刑事フィックスは、フォッグが銀行強盗と誤解し、二人を追いかけて共に旅をします。80日目、フォッグは見事にロンドンに戻ってきますが、フィックスはフォッグを逮捕。留置場に放りこんでしまいました。そして無実が晴れた翌朝、賭けに負けたと思ったフォッグは、地球を東にまわったために1日分得をしたことを知るのです…)

この 「80日間世界一周」 「地底探検」 (古代文書を解読したアクセルは、アイスランドの休火山から地底の国へ行くルートがあることを知り、科学者のおじさん、案内人ハンスとともに、地中深く入っていく冒険小説) の2作品の内容につきましては、いずみ書房ホームページ・オンラインブックで公開している「レディバード100点セット」の参考訳をぜひご覧ください。


「3月24日にあった主なできごと」

1185年 平氏の滅亡…一の谷、屋島の戦いに敗れた平氏は、源義経 の率いる水軍を、壇ノ浦(山口県・下関市)で迎えうちました。この日の正午近くに戦闘が始まり、平氏は西から東へ流れる潮流にのって有利に戦いを進めていました。ところが、3時過ぎになって潮流が逆になると形勢は逆転。敗戦を覚悟した平氏は、次々に海に身を投げていきました。この「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡、以後 源頼朝 の支配が確立しました。

先日80歳を過ぎた人と話をしていましたら、「ずいぶん歳をとったと思ったけど、誕生してからまだ3万日なんだよね」とつぶやいたのを聞いて、「えっ、そんなもんですか」と聞き返してしまいました。

たしかに計算してみると、私も24,000日を少し越えたところ。そう思うとなぜか1日を無為にすごしてはいけないような、新しい発見をしたような気分になるから不思議です。

実年齢×365.25+(誕生日から今日までの日数) という計算をすれば簡単に誕生日からの日数が出ますから、やってみてください。

20歳の成人はおよそ7,300日、54歳で20,000日、100歳まで生きてもわずか36,525日、人生は日にちで数えると意外に短いものです。

ちなみに今日の私は24,286日目の誕生日。何か新鮮な気分と、そろそろ終末か、というはかないものも感じます。そこで今晩もひとり、誕生日の祝杯をあげます。

「読み聞かせ」のすすめ 22

二人の子どもをもつ主婦の話です。

「小学校へあがる前に、少しでも心を豊かに──と考えて、4歳半になる長男への読み聞かせを始めました。でも、どんな本を選んだらよいかわからないので、自転車で10分くらいのところにある市の図書館の分館へ行きました。司書の方の助けを借りながら、館外貸し出しの本を10冊ほど借り出し、それを家へ持ち帰って、1冊ずつ読み聞かせることにしました。

ところが、これを2、3回くりかえしているうちに、思わぬ発見をしました。読み聞かせをしようとした長男より、その下の2歳になったばかりの女の子のほうが絵本に興味を示しだしたのです。長男へ読み聞かせていると、私の膝の上へやってきて、耳を傾け、読み終わると、長男はすぐ他のものへ興味を向けるのに、女の子はもう一度読んで、もう一度……といいます。

こうして半年ほどたった今は、長男よりも2歳の女の子のほうが主役になってしまいました。今になって悔やまれるのは、長男への読み聞かせを、やはり2歳くらいから始めればよかったということです」

この主婦の話はまったくその通りで、絵本の読み聞かせを、2歳以前、1歳や1歳未満から実践して、成功されている方をたくさん知っています。たとえ言葉はわからなくても、絵本の絵を楽しませながら、ゆっくりゆっくりくりかえしていくと、幼児の心が豊かに広がっていくことは間違いありません。

イギリスの名門児童出版社レディバード社で刊行するシリーズ「レディバード図書館」(日本語訳・いずみ書房刊) の別巻1「お母さんとお父さんの育児しつけ教室(2歳まで)」によりますと、絵本に親しませたいのは12か月ころとして、次のような記述がされています。

「本を見せるのは、5、6か月からはじめたいものです。早いと思われるかもしれませんが、けっして早すぎることはありません。ぴったり合った絵本なら、声をあげ、手をたたいて喜びを表現することもあります。普段から絵本に親しませている赤ちゃんですと、12か月の頃になると、手にとってめくろうとすることでしょう。人物、動物、おもちゃなど、はっきりと単純に描いた絵本が理想的です。また、初めて出合う絵本は、大きすぎたり重すぎたりするものは感心しません。赤ちゃんには、赤ちゃんの身体に合ったサイズの洋服をそろえるのと同じように、赤ちゃんの手の大きさ、握力、視野などを考慮して本を選ぶことをおすすめします。赤ちゃんは、お母さんの読んでくれる物語の主役になり、鳥になって大空を舞うこともあれば、いたずらねこに変身することもあります。実際に体験できない未知の世界を、絵本を通して体験するのです・・・・・・」と。

赤ちゃんが、絵本の中にたくさんの友だちを持ち、心がのびのびとふくらんでいく──なんともワクワクする話ではないでしょうか。

なお、「レディバード図書館」の内容につきましては、ブログ を参照ください。 

今日3月18日は、飛鳥時代の歌人で、山部赤人らとともに歌聖と称えられている柿本人麻呂が、724年に亡くなったとされる日(柿本神社記録)です。

柿本人麻呂は『万葉集』最高の歌人です。しかし、額田王と同じように、生まれた年も亡くなった年もわからず、その生涯は『万葉集』の歌からおしはかるよりしかたがありません。

7世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて、天武、持統、文武の3人の天皇につかえた人麻呂は、よろこびの歌、悲しみの歌、なぐさめの歌などをつくって天皇や神にささげる、宮廷歌人のひとりだったのだろうと伝えられています。それも、あまり身分の高くない宮廷歌人だったようです。

人麻呂は、天皇を敬う歌や、天皇中心の国家をたたえる歌をおおく作りましたが、とくにすぐれていたのは、皇族の死を悲しんでつくった挽歌でした。686年から696年までのあいだに、大津皇子、草壁皇子、高市皇子という、天武天皇の3人の皇子の死を次つぎにみてきた人麻呂は、人間のいのちのはかなさを、だれよりも深く感じました。そして、宮廷歌人のしごととしてではなく、死をおそれるすなおなひとりの人間として、悲しみがほとばしる挽歌を作ったのです。

人麻呂はさらに、たとえ死者との別れではなくても、めぐりあった人との別れを心から惜しみ、人を恋いしたう相聞歌も、すぐれたものをたくさん作りました。

小竹(ささ)の葉は み山もさやに乱れども われは妹おもふ 別れ来ぬれば

(山道を歩いて行くと、吹きぬけていく風のなかで、ささの葉が音をたててさわいでいるけれども、わたしは、ただひたすらに、別れてきた妻のことだけを思いつづけている)という、この歌には、旅にでた人麻呂が、家にひとり残してきた妻を思うやさしさにあふれています。

人麻呂は、40歳をすぎたころから役人として山陰や九州へ旅をするようになり、やがて、石見国(島根県)で奈良の都をしのびながら、さみしく世を去ったということです。50歳くらいだったのだろうといわれています。

『万葉集』におさめられている人麻呂の歌は、70首ちかい短歌と18首の長歌ですが、このほかに『人麻呂歌集』の歌として出されているものが数百首あります。とくに長歌に、深い感情のこもった名歌がおおく、また、五七音をくりかえし、さいごを五七七と結び、反歌をそえるという長歌の形は、人麻呂によって完成されました。

人麻呂は、ものを深くみつめて、心の底からわきでた美しいことばで、万葉の世界をきずきあげたのです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)19巻「聖徳太子・中大兄皇子」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「柿本人麻呂」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお、和歌のネット図書館ともいうべき「千人万首」(よよのうたびと・現在923名の作品9000余首を掲載) では、人麻呂の代表作品 が注釈付で紹介されています。


「3月18日にあった主なできごと」

1871年 パリ・コミューン…普仏戦争の敗戦後のこの日、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されました。正式成立は3月29日で、5月28日に政府軍の反撃にあってわずか72日間でつぶれてしまいましたが、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

今日3月17日は、ドイツの技術者で、自動車開発のパイオニアと讃えられるダイムラーが、1836年に生まれた日です。

自動車の研究は、いまからおよそ400年くらいまえから、ヨーロッパで始められました。でも、自動車といっても、初めは帆かけ船のように帆を張って、風の力を利用して走るものです。そのつぎは蒸気や電気の力で走るものでした。ガソリンエンジンの自動車があらわれたのは19世紀末になってからのことで、その発明者が「自動車の父」ゴットリープ・ダイムラーです。

ダイムラーは、1834年に、ドイツ西部で生まれました。

パン焼きの職人だった父は、むすこを、役人にしようと考えていました。ところが、ものを作ることがすきだったダイムラーは、自分からすすんでかじ屋ではたらきながら、苦学をして、30歳ちかくになってから、工芸高等学校を卒業しました。

外国へも行って機械製作の技術者として、うでをみがいたのち、38歳のときに、ドイツの技術者オットーのエンジン工場に、職工長としてむかえられました。しかし、オットーの開発した、大型で回転のおそいエンジンでは役に立たないと考え、やがて、自分で自動車工場をたてました。そして、小型で回転の早いエンジンの研究を始めたのです。

「自動車で、人間を、もっと自由に、どこへでも……」

1883年、1分間に約900回も回転するエンジンを作り、1885年に、これを木製の2輪車に積んで走らせました。世界で初めてのオートバイです。スピードは1時間に12キロメートルでしたが、それでも人びとは、その早さに目を見はりました。そして翌年には、さらに改良したエンジンを、馬が引いていた4輪車にとりつけ、時速18キロメートルで走らせるのに成功しました。ガソリンエンジンで走る自動車の輝かしい誕生です。

1894年にパリで開かれた世界最初の国際自動車レースで、ダイムラーの自動車がみごとに優勝して、世界の人びとは、ガソリンエンジンで走る自動車のすばらしさを知りました。

しかし、ダイムラーはそれから6年ののちの1900年に、世界じゅうが自動車でいっぱいになる日を夢見ながら、66歳の生涯を終えました。

ダイムラーが残した工場は、そのごベンツの工場と合併してダイムラー・ベンツ社となり、いまも、世界でもっとも古い自動車会社を誇っています。(1998年にダイムラー・クライスラー社、2007年にダイムラー社となりました) ダイムラーは、大科学者ではありません。しかし、機械に親しむ心が、大きな発明を生みだしました。日本で初めてガソリンエンジンの自動車が作られたのは、1907年のことでした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ダイムラー」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「3月17日にあった主なできごと」

1220年 サマルカンド征服…この日、モンゴルの征服者 チンギス・ハン は、インドから黒海に至る交通路を占めホラズム・シャー朝の首都(現・ウズベキスタン)として繁栄していたサマルカンドを徹底的に破壊し、数十万という人口の3/4が殺されました。

1945年 硫黄島玉砕…2か月ほど前から小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じていた戦闘は、この日、アメリカ軍は猛爆を加え、日本軍は守備兵力2万余名のほとんどが戦死、アメリカ軍に島を奪取されてしまいました。このため、アメリカ軍は日本本土空襲のの理想的な中間基地を手に入れ、東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施、日本軍は、勝ち目のほとんどない絶望的な本土戦を余儀なくされました。

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