児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年03月

今日3月31日は、量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎(ともなが しんいちろう)が、1906年に誕生した日です。

1965年、朝永振一郎博士は、ノーベル物理学賞を受賞しました。これは、量子力学を発展させた功績に対して贈られたもので、湯川秀樹博士についで、日本人としては2人目の物理学賞でした。

朝永振一郎は、1906年(明治39年)哲学者朝永三十郎の長男として、東京に生まれました。父が京都大学の教授に就任したとき、振一郎も京都に移り、ここの小・中学校に通いました。中学5年生のとき「相対性理論」で有名なアインシュタインが来日しました。新聞がアインシュタインの業績についていろいろ書きたてたので、振一郎は興味をもち、物理学の本を読んでみました。そして、物理学のふしぎな世界に眼をみはりました。

「こうした世界のことを研究できたら、すばらしいだろうな」

振一郎は、京都帝国大学理学部物理学科に進み、専攻科目に量子力学を選びました。量子力学とは、かんたんに言えば、原子の構造や行動を解くために作られた力学で、これまでの力学では説明できなかった新しい事実を、合理的に説明することができる理論です。当時、もっとも新しい理論だったので、振一郎はこれと取り組んでみようと思ったのでした。しかし、できたばかりの理論ですから、教科書などありません。基礎の論文を読まなくてはなりませんが、その論文を理解するためには、他のたくさんの論文を読まなくてはならない、というように、振一郎は無限の世界の入り口に立っているような気がしました。

このとき、同じ高校、大学と進んだ同級生に湯川秀樹がいました。このことは、振一郎にとって、大きな力でもあり刺激ともなりました。ふたりはきそって研究にはげみました。

大学卒業後、3年ほどして、振一郎は、東京の理化学研究所にある仁科研究室に入りました。仁科芳雄博士は、海外にあって量子力学の研究をつづけて帰って来た、世界的に名を知られた学者です。仁科研究室は、先輩も後輩もない、自由で活発な空気にあふれていました。誰にも気がねのない討論で研究が進められていきます。振一郎の研究もはかどりました。

振一郎はそのごドイツに留学し、帰国ご東京文理科大学の教授となり「超多時間理論」をまとめました。これを発展させた理論が、ノーベル賞の対象となったのです。

朝永振一郎は、東京教育大学学長、日本学術会議会長もつとめ、52年に文化勲章も受賞しましたが、1979年7月、がんに倒れました。73歳でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)16巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「朝永振一郎」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「3月31日にあった主なできごと」

1889年 エッフェル塔完成…フランス革命100周年を記念したパリ万博のシンボルとして、この日エッフェル塔が完成しました。当時300mという世界一の高さを誇り観光客にはたいへん人気となりましたが、鉄骨むきだしの姿はパリの美しい景観をそこねると賛否両論の声があがりました。

1970年 よど号ハイジャック事件…100余名を乗せた日本航空旅客機「よど号」が、富士山上空を飛行中に、赤軍派学生9名にのっとられました。わが国初のハイジャック事件。犯人たちは北朝鮮へ亡命したいと要求、よど号は福岡と韓国のソウル金浦空港を経由して北朝鮮の美林飛行場に到着しました。乗員と乗客は福岡とソウルで解放されたものの、身がわりとなった山村新治郎運輸政務次官と犯人グループは北朝鮮に向かい、山村氏はその後帰国、犯人グループは亡命をはたしました。

今日3月30日は、ベラスケスと並びスペイン最大の画家のひとりであるゴヤが、1746年に誕生した日です。

画家ゴヤは、だれもが見すごしてしまうような、日常のできごとから、おおくの矛盾や狂気を発見しました。ゴヤのかいた絵は、いつでも社会の動きや、人間の生き方をきびしくとらえています。

フランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエンテスは、1746年スペインのの田舎、フェンデトドス村に生まれました。住む人もあまりいない、貧しい地方でした。幼いゴヤが、そこでどのような生活をしていたのか、くわしくはわかっていません。しかし、ゴヤは、絵の好きな少年でした。本格的に美術の世界へ入ったきっかけは、壁のいたずらがきを通行人に認められたからだと言われています。

10歳ころゴヤは、大都市マドリードへ出て、絵の修行を始めました。まだ自分の知らない知識や技術を、はげしく追い求め、吸収しました。そのご、イタリアにも留学して、絵のコンクールでは、2等賞をとるほどのめざましい活躍ぶりでした。

ゴヤは、才能ある画家として評判になりました。再びマドリードへ戻り、今度は王立つづれ織工場で、壁かざりの絵をかくことになりました。それまでの壁かざりには、たいてい神話や英雄物語の絵がかかれていました。しかしゴヤは、そうした慣例を無視して、力強い線と生き生きした色で、その時代の身近な人たちのすがたを描きました。

ゴヤは出世しました。1779年にはスペイン王に面会できる身分となり、やがてカルロス4世の宮廷画家に任命されました。

しかし、良いことばかりではありませんでした。1792年、ゴヤは旅行中、とつぜん原因不明の病気にかかってしまいました。高い熱が出て、からだが動かなくなり、耳も聞こえなくなってしまいました。やがて、病気はなおりましたが、耳だけは死ぬまで聞こえるようにはなりませんでした。

40代半ばにして、まったく音を失ってしまったゴヤは、そのことによってくじけるどころか、ますます、するどい見かたで画面に立ちむかいました。

そして『カルロス4世の家族』『裸のマハ』などの傑作を生み、人間のおろかさや心理を大たんに描きあげました。

晩年は、ひとり別荘にこもり、内臓をさらけ出したようなすさまじさと、なげきと悲しみにみちた作品ばかりを描きつづけました。

のちの美術界に大きな影響を与えたゴヤの絵は、いまもなおたたえられ、研究されつづけています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)7巻「ワシントン・ペスタロッチ・ジェンナー」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ「ゴヤ」をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお、本ブログ(2008年3月27日号)で、ゴヤの「裸のマハ・着衣のマハ」 について綴っています。参考にしていただければ幸いです。


「3月30日にあった主なできごと」

1212年 「方丈記」完成…鴨長明が随筆「方丈記」を完成させました。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」に始まり、人生や社会のはかなさや移ろいやすさを綴った格調ある文章は高く評価され、清少納言の「枕草子」、兼好法師の「徒然草」とならび日本古典文学の3大随筆に数えられています。

1867年 アメリカがアラスカを購入…デンマーク生まれでロシア帝国の探検家であるベーリングは、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを18世紀半ばに確認して以来、ロシアは毛皮の貿易に力をそそぎ、1821年に領有を宣言していました。その後財政難に陥ったロシアは、この日アメリカに720万ドルで売り渡す条約に調印しました。1959年、アラスカはアメリカ合衆国の49番目の州になっています。

今日3月27日は、ドイツの物理学者で陰極線の研究中、物質を通りぬける放射線エックス線を発見したレントゲンが、1845年に誕生した日です。

エックス線発見による功績で、1901年に第1回ノーベル賞で物理学賞を受賞したウィルヘルム・レントゲンは、ドイツ西部のレンネップという町で生まれました。父は、織物工場をいとなんでいました。

少年時代は、とびぬけた秀才でもなく、平凡な子どもでした。14歳で、となりの国オランダの高等学校へ進みました。ところが、いたずらをして先生を怒らせた友だちの罪をきせられて、卒業まぎわに退学させられてしまいました。

「大学で勉強したかったのに、どうしよう」

高等学校を卒業していないと、ドイツやオランダの大学は受験できません。しかたなくレントゲンは、スイスまで行って、実力があれば入学がゆるされるチューリヒ工科大学へ進みました。そして、卒業ごは、そのまま大学に残って有名な物理学者クント教授の助手になりました。

高等学校を卒業していないのが障害になって、大学教授への道は、なかなか開けませんでした。しかし、物理学に生きることを心に決めたレントゲンは、くじけずに研究にうちこみ、43歳のとき、やっとビュルツブルク大学の教授にむかえられ、5年ごには大学総長にえらばれました。

総長になっても、朝から夜おそくまで研究をつづけました。とくに、目に見えない光線の研究に力を入れました。

50歳になった、ある日のことです。ガラス管の中で真空放電の実験をくり返しているとき、ガラス管と机の上の蛍光板との間に手を入れてみたレントゲンは、あっと声をあげました。蛍光板にうつっているのは、手の骨だけです。

「あたらしい光線の発見だ」

人のからだをとおす、ふしぎな光線です。しかし、光の正体はわかりません。そこでレントゲンは、答えのでていない数を数学でXと表すのを思いだして、エックス線と名づけました。

エックス線の論文を発表すると、レントゲンの名は、またたくまに世界に広まりました。でも、レントゲンは、やがてノーベル賞を受賞してからも「エックス線は人類のものです。わたしは運よく発見しただけです」と言っただけで、すこしも誇らしげな顔をせず、エックス線に関する特許による個人的な利益をも、いっさい得ようとはしませんでした。

「わたしは、頭で考えるよりも、まず研究し、実験した」

これは、レントゲンが、自分の生涯をふり返って語った言葉です。高等学校退学で、長い間、教授になれなかった苦しみが、レントゲンを、ほんとうの物理学者にしたのかもしれません。エックス線は、医学と科学の発展に、大きな灯をともしました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)12巻「ファーブル・トルストイ・ロダン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「レントゲン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「3月27日にあった主なできごと」

1689年 芭蕉「おくの細道」へ出発… 松尾芭蕉 は弟子の河井曽良(そら)を伴ない、この日江戸・深川の庵を出て「おくの細道」の旅に出発しました。東北・北陸をめぐ旅の日数はおよそ150日間、「おくの細道」は、わが国紀行文学の代表的存在です。

1837年 大塩平八郎自害…1か月ほど前に、窮民救済を叫んで反乱(大塩平八郎の乱)をおこして失敗した、大坂(大阪)奉行所の与力(よりき・警察署長のような存在)だった 大塩平八郎 は、この日幕府の追手に潜伏しているところを発見され、自害しました。

1933年 日本「国際連盟」脱退…国際連盟は2月24日の総会で、日本軍による満州建国を否認しました。日本はこの日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立し、戦争への道を歩みはじめるのです。

おもしろ「言葉」のおこり 9

● 打ち合わせ

何かをするとき、前もって相談することをいいます。でも語源は、雅楽からきた言葉のようです。雅楽では、演奏の前に、吹奏楽器と打楽器の息をあわせるために、打ち合わせをします。つまり、音あわせですが、これがいつのまにか、一般の前相談にも使われるようになりました。

● さしがね

背後で人を指図して動かすことを、陰で人をあやつることに用いられます。これは、あやつり人形の、腕や手を動かすために、腕に仕掛けた長い棒を「さしがね」ということから起こったようです。歌舞伎の小道具のひとつに黒塗りの細い竹の先に針金をゆわえ、これに作り物の蝶などをつけて、黒衣(くろぎぬ)の後見が動かすものがあり、やはりこれも「さしがね」ということから起こったという説もあります。

● 皮切り

この言葉の本来の意味は、「最初にすえる灸(きゅう)」のことです。つまり、灸をすえるとき、最初のひとすえは、熱くて痛くて身の皮を切られるようだ──ということから、「皮きり」といわれるようになり、それが物事のしはじめ、手はじめに、使われるようになりました。

今日3月25日は、家族を養うために貧しさと苦闘しながらも「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」などの名作を残し、わずか24歳で亡くなった樋口一葉(ひぐち いちよう)が、1872年に誕生した日です。

樋口一葉は、明治の初めに、東京で生まれました。父は身分の低い役人でした。本名を奈津といった一葉は、幼いときから、ものおぼえのよい、本のすきな少女でした。2歳のころ、兄たちが新聞を読むのをまね、6歳のころには『南総里見八犬伝』という長い歴史物語を読んで、家族をおどろかせたと伝えられています。

小学校での成績は1番でした。しかし「女は、学問よりも、家事や裁縫などを習うほうがよい」という母の考えで、卒業まえにやめさせられてしまいました。このとき一葉は、母をうらんで、死ぬほど悲しんだということです。

14歳のとき、歌人の中島歌子が開いていた萩の舎塾で学ぶことができるようになりました。一葉をかわいそうに思った父が入れてくれたのです。萩の舎にかよってくる人は、身分の高い役人や貴族の家庭の女がおおく、小学校も満足にでていない一葉は、いつも、いやな思いにたえなければなりませんでした。しかし、勝ち気な一葉は人いちばい努力をつづけ、和歌では、塾の歌の会で最高点をとるほどになりました。

ところが、塾で学び始めて3年めに、役人をやめたのち事業に失敗してしまった父が亡くなり、17歳の一葉が、母と妹を背負って、生きていかなければならなくなりました。

「小説家になろう。なんとかして貧乏からもぬけださなくては」

貧しさにおしつぶされそうな一葉が、このように決心したのは、それからまもなくです。萩の舎塾で学んでいた年上の田辺竜子が、はなやかに小説家の道へ入っていったのを見て、一葉の心が大きく動いたのだといわれています。

一葉は、新聞記者の半井桃水をたずねて、まず小説の書きかたから教わり、早くもつぎの年から『闇桜』などの作品を発表していきました。でも、小説だけでは、とても生活できません。

21歳になった一葉は、母と妹をつれて下谷竜泉寺町の長屋へ移り、ささやかな雑貨商をいとなみながら、小説を書き始めました。また、この土地で、たくさんの貧しい人びと、悲しい人びとにふれ、人間のほんとうの心を見る目を育てていきました。

しかし、一葉が、この世に生きたのは、それからわずかに3年でした。下町の子どもたちをあたたかく、美しくえがいた『たけくらべ』のほか、暗い運命にひきずられる女たちの苦しみをつづった『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』などを書き残すと、1896年、24歳の若さで、結核におかされ、永い眠りについてしまったのです。線香花火のような、もの悲しい生涯でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)34巻「夏目漱石・野口英世」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「樋口一葉」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお、『たけくらべ』をはじめ一葉の作品17編 は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。また一葉の肖像は、2004年11月から、新渡戸稲造 に代わり、五千円札に採用されました。


「3月25日にあった主なできごと」

1878年 初の電灯…この日中央電信局が開設され、その祝賀会でわが国初の電灯としてアーク灯が15分ほど灯りました。ただし、一般の人が電灯を見たのは4年半後に銀座通りにアーク灯がついてからでした。一般家庭で電灯がつくようになったのは1887年11月のことです。

1957年 EECの結成…EEC(ヨーロッパ経済共同体)は、この日、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク6か国の代表がローマに集まって、結成するための「ローマ条約」を結びました。1958年1月からEECは正式発足しましたが、その経済面での発展はめざましいもので、ヨーロッパ経済の中心となるばかりでなく、EC(ヨーロッパ共同体)、さらにEU(ヨーロッパ連合)となっていきました。EUの加盟国は、2007年1月にブルガリアとルーマニアが加盟したことにより現在27か国。EUを単一国家とすると、GDPはアメリカ合衆国を上回って世界第1位となっています。

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