児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年02月

今日2月27日は、消化腺と条件反射の研究でノーベル賞を受賞したロシアの科学者パブロフが、1936年に亡くなった日です。

「犬は、えさを見ると、よだれをだす。ところが、えさをあたえるたびにベルを鳴らすのをくり返すと、やがて犬は、ベルの音を聞いただけで、よだれを流すようになる」

これは条件反射という、動物の脳のはたらきを示す実験です。

1849年、ロシアのリャザンという古い町で生まれたイワン・パブロフは、この条件反射を発見した、ソ連の生理学者です。

神父を父にもったパブロフは、父のあとをつぐために、少年時代は神学校で学びました。しかし、しだいに生理学がすきになり、20歳のときにはペテルブルク大学へ進んで、消化器や神経の研究にとりくむようになりました。

「食べものと胃と神経の関係はどうなっているのだろうか」

大学を卒業して医学博士の学位をとったパブロフは、犬を使って実験を始めました。それまでは、動物実験というと、かいぼうや大がかりな手術がつきものでした。でもパブロフは、犬を苦しませないで実験する方法をくふうしました。正しい観察をするためには、犬を、できるだけ自然のすがたのままにして調べることがたいせつだ、と信じていたからです。

まず、腹部の小さなあなから胃液が流れでるようにした実験で、食べものを消化する胃液のでかたは、あたえられた食べものによってちがうことや、脳や神経のはたらきと結びついていることを、明らかにしました。また、口の中のだ液が、ほおから外に流れでるようにした実験では、だ液も脳のはたらきとつながりがあることを、つきとめました。

こうして、およそ30年もの長い年月と、気の遠くなるような数かずの実験から、条件反射は発見されたのです。

「いったい、条件反射はどうしておこるのだろうか」

さらに実験をつづけたパブロフは、ついに条件反射が大脳のはたらきでおこることを発見して、それまでわからなかった大脳のしくみも、はっきりつきとめました。

犬の実験で発見された条件反射が、そのまま人間にもあてはめることができました。パブロフが生涯をかけて、人間のからだと心の関係をみきわめようとした努力が、大きくみのったのです。

1904年、パブロフはロシアの科学者としては初めて、ノーベル医学賞を受賞しました。「わたしが発見したのは、ひとかたまりの土くれです」と語っていたということです。年をとってからも「観察、そして観察」という大すきな言葉を実行して、86歳で亡くなるまで、研究をおこたりませんでした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)13巻「ノーベル・マークトウェーン・コッホ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「パブロフ」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、先週より、300余名の「小伝」を公開しています。


「2月27日にあった主なできごと」

1876年 江華条約の締結…鎖国をつづける朝鮮に国交を求めていた明治政府は、前年に日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で砲撃を受けたのに対し、猛反撃を加えました(江華島事件)。この日更なる圧力をかけて江華条約を締結させ、念願の朝鮮開国を実現させました。この条約は釜山・江華港を貿易港として開港、朝鮮海航行の自由、江華島事件の謝罪など、日本優位の不平等条約で、日本の朝鮮侵略の第1歩となりました。

1933年 ドイツ国会議事堂炎上…この日の夜突然、首都ベルリンの国会議事堂が燃え上がり、ヒトラー はこれを共産党員のしわざだとして、共産党員をすべて逮捕し、間近にせまった選挙に出られなくさせました。このため、ナチス党は選挙を有利に進め、独裁のあしがかりとしました。

今日2月26日は、フランス文学史上屈指の名作といわれる『レ・ミゼラブル』を著わした作家のユゴーが、1802年に生まれた日です。

たったひときれのパンをぬすんだために、19年も牢獄に閉じこめられたジャン・バルジャンは、社会へのはげしいにくしみをいだいて、牢をでてきます。ところが、慈悲ぶかい神父にさとされて心を入れかえ、社会の不幸な人びとへの愛に自分をささげて、清らかに死んでいきます。これは、フランスの小説家ビクトル・ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』の物語です。

ユゴーは、東フランスのブザンソンに生まれ、10歳をすぎるとパリで教育を受けました。ナポレオン軍の将軍だった父は、ユゴーを軍人にすることを願っていました。しかし、ユゴーは何よりも文学を愛する少年でした。とくに、早くから詩にしたしみ、いくつかの詩のコンクールで賞を受けると、20歳のときには詩集を出版して名を高めました。

ユゴーが、自分の作品をとおして最も強く社会へうったえようとしたのは、人間の自由でした。そのため、詩集につづいて発表した戯曲には、考え方の古い役人から上演禁止を命じられたものもありました。しかし、ユゴーは屈しませんでした。

戯曲『エルニナ』では、人間が自分の理想に向かって生きることのすばらしさをたたえました。小説『死刑囚最後の日』では、人間の命の尊さを語り、死刑反対をとなえました。また、歴史小説『ノートル・ダム・ド・パリ』では、むすばれない恋をえがきながら、欲望にとらわれた人間の罪をいましめました。

ユゴーは、30歳のころからおよそ10年のあいだ、人間への愛にもえた詩、戯曲、小説を書きつづけました。ところが、40歳をすぎてからの10年は、娘に死なれた悲しさと、上院議員にえらばれて政治にかかわるようになった忙しさから、ほとんど筆をとりませんでした。

1851年には、イギリス海峡の小さな島へ渡りました。民衆を愛するあまりに革命運動をおこそうとして、独裁政治をめざすナポレオン3世に追われ亡命したのです。

「ナポレオン3世には、かならず天罰がくだる」

ユゴーは、1869年までの18年ものあいだ孤島に身をおき、ナポレオンをのろいながら、詩と小説に怒りをぶつけました。人間のゆがめられた運命へのいきどおりをこめた『レ・ミゼラブル』が生まれたのは、このときです。

ナポレオン3世がたおれ、1870年にパリへもどったユゴーは、人間の自由を叫びつづけた英雄として、人びとから尊敬されました。そして、さらにおおくの小説や詩を残して1885年、83歳の生涯を終えると、国葬によって、その偉業がたたえられました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)9巻「スチーブンソン・シューベルト・アンデルセン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ユゴー」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、先週より、300余名の「小伝」を公開しています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、ユゴーの代表作 『レ・ミゼラブル』全文(豊島与志雄訳) を読むことができます。


「2月26日にあった主なできごと」

1609年 琉球征伐…薩摩藩の藩主島津家久は、この日大軍を率いて琉球王国に攻め入り、4月までに征伐しました。当時琉球王国は、中国や東南アジアと日本を結ぶ中継貿易で栄えていましたが、これを薩摩藩が独占することになりました。

1815年 ナポレオンがエルバ島脱出…ヨーロッパ同盟軍に破れ、エルバ島に流されていた ナポレオン は、この日の夜7隻の船に大砲を積みこんで島を脱出、皇帝に返り咲きました。しかし「100日天下」に終わり、セントヘレナ島に幽閉され、その地で亡くなりました。

1936年 2・26事件勃発。詳細は、2008年2月26日ブログ を参照ください。

今日2月25日は、写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった斎藤茂吉が、1953年に亡くなった日です。

斎藤茂吉のはじめての歌集『赤光』が一躍有名になったのは、「母の死」 をせつせつと歌った一連の作品が、人びとの心に深い感動を与えたからです。「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる」「死に近き母に添寝のしんしんと遠田の蛙天に聞ゆる」「我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ」。

山形県の蔵王山のふもとに、農民の子として1882年に生まれ育った茂吉は、子どものころには「絵かきか坊さんになりたい。それがだめなら農民になる」と口ぐせのように言っていました。少年のその夢がまったく違った方向に動き出したのは、茂吉が14歳のときでした。東京の開成中学に入学し、斎藤紀一という医者の世話になることになったからです。一高、東京帝国大学(いまの東京大学)へと進んだ茂吉は、斎藤紀一の信頼を受け、斎藤家の養子になりました。養父の病院を継ぐという大きな役めをせおってしまいました。無口で努力家の茂吉は、なかば周囲の人によって決められてしまった自分の進路に反対することもなく、もくもくと勉強に力を注ぎました。そして医師の試験にみごとにパスし、若くして精神科の医者になりました。ドイツ、オーストラリアの留学から帰ってのち、44歳で養父の青山脳病院のあとを継ぎ、62歳までの18年間、院長をつとめました。

医学の勉強のかたわら、茂吉が短歌をつくりはじめたのは一高のころです。正岡子規の『竹の里歌』という歌集にたいへん心動かされ、それから子規のまねをして歌をつくるようになりました。子規のでしの伊藤左千夫の門にはいったころから茂吉の歌は注目されるようになり、「馬酔木」「アララギ」という同人雑誌にさかんに歌を発表しました。『赤光』は、そのころの歌を集めた第1歌集です。そのご『あらたま』『つゆじも』など、一生のあいだに17もの歌集を出しました。そのほか、歌論、評論、随筆、古典研究など多方面にわたって活躍しています。

茂吉は、『短歌写生の説』という本のなかで「生」を写すことが歌だといっています。自然のいとなみ、人間のいとなみ、その生きたすがたを歌ってこそ真の短歌であると説いたのです。一生の大半を東京で過ごしましたが、茂吉のなかには山形農民の土のにおいがあり、それが茂吉の歌にたえず生命を吹き込むもととなっていました。

どくとるマンボウの名で親しまれている作家の北杜夫は、茂吉の次男で、青山脳病院をモデルにして『楡家の人びと』という小説を書いています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「斉藤茂吉」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、先週より、300余名の「小伝」を公開しています。

なお、斉藤茂吉の歌論、評論、随筆などは、オンライン図書館「青空文庫」 で、23編を読むことが出来ます。


「2月25日にあった主なできごと」

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

 いずみ書房は、今年の8月に創業35周年をむかえますが、創業時に発売を開始した「せかい童話図書館」(全40巻)が、このたびパンローリング株式会社から、10巻・20枚(1枚に2話)のCDとなって新発売(全10巻セット・定価29,400円)されました。
 
このCD企画は、1年以上も前にパンローリング社から、30年以上ものあいだロングセラーを続ける絵本シリーズの朗読CD「オーディオブック」を作りたいというお話からスタートしました。当方では、単なるプロの声優の朗読だけでなく、バックグラウンドミュージックにセミクラシックの名曲やわらべ歌などを流しながら、子どもたちが楽しく、気持ちよくお話に集中できる心遣いをしてほしいという要望をいたしました。パンローリング社が当方の要望によく応えてくれた内容になっており、大変満足できるものになりました。
 
収録総時間、14時間11分。本来ならばお父さんやお母さんの肉声で絵本の「読み聞かせ」して欲しいところですが、いつもいつもというのは大変でしょうから、時にはCDに代わりをつとめてもらったり、朗読の参考にしてもらったり、絵本とCDをじょうずにご利用いただくのがよいかと思います。近く、いずみ書房の通販「ちゃおーね」での取り扱いもはじまるようですので、ご期待ください。
 
全巻の内容と収録時間
 
第1巻  DISC1 マッチうりのしょうじょ・ヘンゼルとグレーテル [43分]
     DISC2 みにくいあひるのこ・ぶんぶくちゃがま [42分]
第2巻  DISC1 つるのおんがえし・アラジンとふしぎなランプ [49分]
     DISC2 ゆきおんな・おさけのたき [36分]
第3巻  DISC1 いなばのしろうさぎ・かちかちやま [44分]
     DISC2 ドナウ川のようせい・はだかのおうさま [38分]
第4巻  DISC1 ブレーメンのおんがくたい・ほしのこ [37分]
     DISC2 ももたろう・はなさかじじい [34分]
第5巻  DISC1 にんぎょひめ・あかいくつ [45分]
     DISC2 うらしまたろう・かもとりごんべ [36分]
第6巻  DISC1 エメリアンとたいこ・おやゆびひめ [43分]
     DISC2 みみなしほういち・てんぐのかくれみの [51分]
第7巻  DISC1 シンデレラ・マーリャンとまほうのふで [40分]
     DISC2 たまとり・したきりすずめ [43分]
第8巻  DISC1 ながぐつをはいたねこ・三びきのこぶた [36分]
     DISC2 かぐやひめ・さるとかに [46分]
第9巻  DISC1 アリババとどろぼう・ジャックとまめのき [48分]
     DISC2 しあわせのおうじ・きたかぜとたいよう [50分]
第10巻 DISC1 いっすんぼうし・あかずきん [44分]
      DISC2 しらゆきひめ・こうのとりになったおうさま [46分]
 
なお、お話の一部は、パンローリング社のホームページ で聞くことができますので、ぜひアクセスしてみてください。

今日2月23日は、バッハと並びバロック音楽の完成者といわれ、ドイツに生まれイギリスに帰化した作曲家ヘンデルが、1685年に生まれた日です。

ヘンデルは、ドイツのハレというところで生まれました。ちょうどその1か月ごに、おなじドイツでバッハが誕生しています。二人とも、バロック音楽の完成者として、世界に名をのこしました。バッハが国内で活躍したのに対して、ヘンデルは、イタリアで学んだあとイギリスへ行って、おおくの仕事をしたので、むしろイギリスの作曲家といわれています。

ヘンデルの、音楽家になりたいという幼いときからの願いを、父はなかなか聞きいれてくれませんでした。父はヘンデルを法律家にさせたかったのです。ヘンデルは、父にかくれて夜中にこっそり音楽の練習にとりくみました。

ある日、父がつかえる公爵の宮廷に招かれて、7歳のヘンデルがオルガンをひきました。ヘンデルの名演奏に感心した公爵は、父に、しっかり教育してオルガン奏者にさせるように説きました。それからのヘンデルは、音楽の先生に指導をうけて、演奏と作曲のうでをみがいていきました。

18歳の年に、そのころドイツオペラの中心地だったハンブルクへ行きました。オペラ劇場のバイオリンひきで生計を立てながら、積極的に音楽の勉強をします。しかしある時、オルガン奏者として、名誉ある地位を望み、名の知れた老オルガン奏者の後継者になろうと考え、遠方まで訪ねたことがあります。ところが、思いもかけないことに、自分の娘と結婚しなければ、弟子にもしてやらないという条件を出されました。気に入らない娘なので、あわててハンブルクへ逃げ帰りました。それからのヘンデルは、心を入れかえて作曲にうち込みました。

そのご、イタリアへおもむき、おおらかで親しみやすいおおくの曲を発表して、たちまちヘンデルは、評判になりました。

木の葉が色づく秋、25歳のヘンデルはイギリスに渡りました。以後イタリア・オペラの作曲家、くわえて劇場経営者として、一生イギリスで活動します。なん度も大成功と破産をくり返しながら『水上の音楽』『メサイア』の傑作を生みだしました。

ロンドンで『メサイア』が初演されたとき、国王ジョージ2世は、第2部の最後に歌われる「ハレルヤ・コーラス」のあまりの感動に、思わず立ちあがって聴きました。それ以来、いまでもこの雄大なコーラスが演奏されると、全員起立して聴くという習慣になっています。

ヘンデルの音楽には、イタリア人の解放的な明るさと、ドイツ人のふかい情感と、イギリス人の伝統につちかわれた力強さとがまじりあって、ゆたかな感情のほとばしりが感じられます。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「ヘンデル」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、先週より、300余名の「小伝」を公開しています。


「2月23日にあった主なできごと」

1784年 漢倭奴国王の金印…福岡県の小島・志賀島の農民がこの日、田んぼの用水路で金の塊を発見し、黒田の殿様に差し出しました。後にこれが、福岡付近にあった奴国(なのくに)の王が、57年に、後漢の光武帝から贈られたものとわかり、国宝に指定されています。

1836年 アラモの戦い…アラモの砦に立てこもる182人のアメリカ・フロンティア義勇軍に、3000人ものメキシコ正規軍が攻撃を開始、有名なデイビィ・クロケットらも義勇軍に加わりましたが13日後に全滅。ただし、メキシコ軍にも大打撃を与え、この地にテキサス共和国ができることになりました。そして1845年、テキサスはアメリカ合衆国と合併、テキサス州となりました。

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