児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年01月

今日1月16日は、豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する梅原龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)が、1986年に亡くなった日です。

こまかい部分にこだわらない、太く力強い線、かがやくような、ゆたかな色彩。これが梅原龍三郎のえがく油絵の特色です。

梅原龍三郎は1888年に京都に生まれました。家は大きな染物商でしたので、着物の図案をかいたり染物をする人びとの仕事を見ながら成長しました。そして、自然に絵や色彩にたいする感覚がやしなわれていきました。

画家になろうと決心したのは、15歳のときです。病気で中学を退学したことが、きっかけになりました。両親は反対しましたが、1度思いたつとやりとげずにはいられないのが、龍三郎の性格です。

浅井忠の洋画研究所で油絵を学んだのち、1908年20歳のとき、フランスへ留学しました。パリに着いた翌日、リュクサンブール美術館でルノアールの作品を見たことが、龍三郎のこれから進む道をはっきりさせることになりました。

「この絵こそ私が夢にまで見ていた、自分で描きたい絵だ」

ルノアールはフランスを代表する画家のひとりです。龍三郎は勇気をだして、ルノアールをたずねていきました。何度もたずねていくうちに、ルノアールは龍三郎の絵を見てくれるようになりました。

「君には色彩についての才能がある。デッサンは勉強することによってうまくなれるが、色彩にたいする感覚は生れつきのものだ」

ルノアールのはげましの言葉は、龍三郎を勇気づけました。フランスでの5年間の勉強ののち、龍三郎は日本に帰ってきました。1913年10月、初めての個展を東京で開きましたが、売れたのは1枚きりでした。龍三郎は、日本の油絵がヨーロッパのまねにしかすぎないことに気づかずにはいられませんでした。

「これではいけない。日本独自の油絵を作ろう」

龍三郎は考えました。しかし、それは、かんたんな仕事ではありません。龍三郎は、日本の自然を見つめなおし、日本人でなければかけない油絵を生みだそうと苦心しました。桜島や富士山や浅間山の風景を、また、中国にわたって北京の風景を数おおく描きました。それらの画面は、はなやかな色彩と力強い筆のはこびによって、見る人びとを圧倒します。

梅原龍三郎は、安井曾太郎とともに「国民画家」といわれ、日本を代表する画家とされています。1952年には、その業績をたたえられて文化勲章がおくられました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真(がんじん)は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡海失敗で失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官も買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表。こうして国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

今日1月15日は、スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したナセルが、1918年に生まれた日です。

エジプトの政治家ガマール・アブドゥル・ナセルは、古代エジプト文明を生んだナイル川のほとりで生まれました。父は郵便局員でした。

エジプトは、ナセルが生まれて4年のちの1922年にイギリスの支配からのがれ、王国として独立を宣言していました。しかし、じっさいの政治の権力はイギリスににぎられたままでした。

「イギリスの支配がつづくかぎり、ほんとうの独立国ではない」

愛国心にもえていたナセルは、少年時代からこのように考え、早くも中学生のときにイギリスの権力に対する反対運動をおこなって、退学させられそうになったことがありました。

20歳で士官学校を卒業すると、4年後には教官に任命されましたが、やがて、エジプト民族のことを考えるなかまと自由将校団をつくり、ひそかに革命計画を進めました。そして、1952年、ついに目的を達成しました。革命委員会と名をかえた自由将校団が立ちあがって国王を追放し、共和国宣言に成功したのです。ナセルは、1956年に共和国憲法が定められると、初代の大統領になりました。まだ36歳の若い大統領でした。

ところが、ナセルの前には、ただちに大きな問題が立ちふさがりました。エジプトは、ナイル川に当時世界最大のアスワン・ハイ・ダムの建設計画を進めていましたが、資金の援助を約束していたアメリカとイギリスが、イギリスの支配からのがれたナセル政権に対抗して、その約束をやぶってきたのです。

ナセルは,ダム建設資金を生みだすために、イギリスが支配していたスエズ運河の国有化を宣言しました。そして、それはスエズ動乱へと発展しました。でも、ナセルは勇気をもって動乱をきりぬけ、ナイル川のダムもソ連の援助を受けて、約10年でみごとに完成させました。

アラブ諸国がひとつになることを夢に見ていたナセルは、1958年には、シリアとむすんでアラブ連合共和国を建設しました。しかし1961年には分裂し、さらに1967年には、六日戦争とよばれるイスラエルとの戦いに敗れ、その3年のちに心臓の病気で急死してしまいました。

ナセルは、民族的な戦いだけではなく、国内の政治にも力をつくし、教育の充実、医療制度の改善、貧しい農民を救うための土地改革などに大きな業績を残しました。また、アフリカの民族解放運動などにも兵を送り、力の弱い国ぐに発展のために手をさしのべました。ナセルが死んだとき人びとは「ナセルは死んだけれど、その名は永遠に残る」とたたえたということです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)18巻「毛沢東・ディズニー・ケネディ」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「1月15日にあった主なできごと」

1862年 坂下門外の変…1860年3月に井伊直弼が桜田門外で殺害されたあとをうけた老中安藤信正は、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の夫人に迎える計画を立て、1861年に実現させました。これに憤慨した水戸浪士たちはこの日、安藤の暗殺を試みましたが、傷を負わせただけにとどまりました。

1939年 70連勝成らず…大相撲春場所4日目、69連勝中の横綱双葉山はこの日、関脇安芸の海に敗れ、70連勝をのがしました。当時の大相撲は、1月と5月の1年2場所・10日制で、現在の1年6場所・15日制と、条件の違いはありますが、69連勝という記録は、いまだに破られていません。 

今日1月14日は、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師シュバイツァーが、1875年に生まれた日です。

シュバイツァーは牧師の子どもとして生まれました。幼い頃から音楽の天分をあらわし、8歳で教会のオルガンを、大人よりも上手に弾くようになりました。学校の成績は、音楽をのぞいてよくありませんでしたが、努力して大学へ入り、神学と哲学を勉強し、27歳には大学の講師として神学や哲学を教えるまでになりました。また、バッハの優れたオルガン奏者として、世界的にその名をとどろかせるほどでした。しかし、シュバイツァーの心には、何か物足りないものがありました。

30歳の誕生日を数か月後にひかえたある日、教会の机の上に1枚の緑色のパンフレットが置いてありました。それには、悪い病気にかかってつぎつぎと死んでいく、アフリカの黒人たちのみじめな生活について書かれていました。

「同じ人間に生まれながら、なぜこの人たちは苦しまなくてはならないのだろう。よし、私は大学の先生も、音楽家になることもやめて、この人たちのために働こう」

こう決心したシュバイツァーは、医者になるための勉強をはじめ、38歳の時に医学博士となり、結婚したばかりの妻を連れて、当時医療施設に困っていたガボンのランバレネへ旅立つのでした。

その後の献身的な働きや詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「シュバイツァー」 を、ご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

「1月14日にあった主なできごと」

1950年 ベトナム民主共和国再独立宣言…1945年9月、ホーチミンを大統領とするベトナム民主共和国は独立を宣言し、東南アジア最初の共産主義国家として独立しました。しかし、翌年支配国だったフランスが待ったをかけ、8年にもわたる第1次インドシナ戦争に突入、1949年6月には、ベトナム国をサイゴンに成立させました。この日ホーチミンは、前年に独立した中華人民共和国の援助を受けて、改めて独立を宣言しました。

1953年 チトー大統領…独立まもないユーゴスラビアは、この日ユーゴ解放の国民的英雄チトーを大統領に選びました。チトーの指導のもとに、非同盟中立という、社会主義国ばかりでなく資本主義国とも手をつなぐという独自の方針を貫き、6つの共和国をまとめあげました。しかし、1980年チトーの死とともに、共和国間の紛争があちこちでおこり、1991年クロアチア、マケドニア、スロベニア、1992年ボスニア・ヘルツェゴビナが独立、2003年ユーゴスラビアの国名は消滅し、セルビア・モンテネグロとなって独立(2006年セルビア、モンテネグロに分離)しました。

今日1月13日は、「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家フォスターが、1864年に亡くなった日です。

150年の歳月を越えて世界の人びとに口ずさまれている『おおスザンナ』『草競馬』『なつかしきケンタッキーホーム』。このほか、およそ180の名曲を作ったステファン・コリンズ・フォスターは、1826年、アメリカ東部のペンシルベニア州ピッツバーグ市で生まれました。才能のある実業家を父にもち、10人兄弟の9番目でした。

12人の家族は、みんな音楽がすきでした。なかでもフォスターは、おさないころからいろいろな楽器にしたしみ、子どもの楽隊では、いつも、とくいになって指揮をとっていました。また、9歳のときには、近所の子どもを集めて劇団をつくり、自分は主役をしたり、フルートをふいたりして、出演料をかせいだこともありました。そして、14歳で中学校を卒業するときには、卒業式のために『ティオガ円舞曲』を作曲して、先生たちをおどろかせました。

15歳でジェファソン大学に入学しました。しかし、わずか1週間でやめてしまいました。音楽の道を、どこまでも進みたかったからです。

「よし、だれもがうたってくれる歌をつくろう」

フォスターは、理解のある父母や、やさしい兄たちに助けられながら、ピアノ演奏や作曲や外国語を学びました。そして、18歳で歌曲『窓をあけたまえ』を発表してからは、つぎつぎに詩を書き曲を作るようになりました。そして『おおスザンナ』が人びとのあいだでうたわれるようになると、フォスターの名まえは、またたくまにアメリカじゅうに知れわたっていきました。

心のやさしいフォスターは、アフリカからつれてこられた黒人奴れいたちのためにも、たくさんの歌を作りました。『オールド・ブラック・ジョー』は、さみしく死んでいった召使いのジョーにささげたものです。

また、愛する妻のためにも『金髪のジェニー』『小さいジェニー・ドウ』などの美しい歌を作り、しあわせな家庭をきずいていきました。

ところが、リンカーンが大統領になった1860年にニューヨークへでてからは、しだいに生活が苦しくなり、南北戦争がはじまって4年めの1864年に、思いがけないけがで、あっけなくこの世を去ってしまいました。まだ、38歳という若さでした。

フォスターは、ベートーベンやモーツァルトのような大音楽家ではありません。しかし、素朴な歌のかずかずは、国境を越えて、人びとの心にやさしい灯をともしつづけています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「1月13日にあった主なできごと」

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1860年 咸臨丸出港…江戸幕府のオランダから購入した洋式軍艦咸臨丸は、この日品川沖からアメリカに向けて出港しました。勝海舟を艦長に、福沢諭吉、中浜万次郎らをのせて、初の太平洋横断に成功しました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

今日1月9日は、倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した明治天皇が、1867年に即位した日です。

明治天皇は、1852年に京都で生まれました。父は、孝明天皇、母は、朝廷につかえていた公卿の中山忠能の娘です。

幼年時代の天皇は、からだが弱く、泣き虫でした。でも、5歳をすぎたころから身体をきたえ、1867年12月、孝明天皇の急死により16歳で天皇の位についたころには、相撲なら、宮中のおとながだれひとりかなわないほどになっていました。

王政復古によって江戸幕府がたおれ、国の政治を徳川氏の手から朝廷にとりもどした天皇は、まず、国民の考えを尊重することなどをちかった『五箇条の御誓文』を発表して、新しい政治の大方針をうちだしました。そして、1868年に江戸を東京と改めると、つぎの年には都を京都から東京へ移して、近代国家への政治にとりくみ始めました。

1871年には、大名たちが支配している藩を廃止して、かわりに府県をおき(廃藩置県)、武士中心の社会のしくみを、完全にとりこわしました。しかし、古いしくみをなくしても、朝廷につかえる政治家たちのあいだでは、むかしの藩ごとに対立がつづき、これをひとつにまとめていかなければならない天皇の苦労は、いつまでも絶えませんでした。1877年に起こった西南戦争で西郷隆盛が死んだとき、25歳の天皇は、たとえ賊軍でも西郷の死を、たいへん悲しんだということです。

新しい国を建設していくためには教育が大切だと考えた天皇は、1872年に、小学校を国民の義務教育とすることを決め、1890年には教育の基本をしめした教育勅語をだし、小・中・大学校をととのえていきました。

また、新しい政治を進めていくために、1889年に大日本帝国憲法を発表して、つぎの年には第1回の衆議院総選挙をおこない、日本で初めての帝国議会を開き、近代国家らしい立憲政治の幕を開けました。

いっぽう、日本のすべての軍隊をひきいるようになった天皇は、国の守りにも力を入れ、1894年に起こった日清戦争にも、1904年に起こった日露戦争にも大勝して、アジアの小さな島国日本の名を、世界にとどろかせました。

明治天皇は、こうして、わずか数十年で新しい日本の基礎をきずきあげました。しかし、その功績は天皇だけのものではなく、天皇のもとに、近代国家の建設と戦ったおおくの政治家たちがいたことを見落としてはなりません。また、明治天皇によって絶大になった天皇の権力を軍隊が利用して、その後の日本が軍国主義へみちびかれていったことも、忘れてはなりません。

明治天皇は、1912年(明治45年)7月、持病の糖尿病が悪化、尿毒症を併発して59歳で崩御しました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「1月9日にあった主なできごと」

802年 胆沢城…794年に史上初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、現在の盛岡市近辺に胆沢(いざわ)城を築城。およそ150年にもわたって本州東方以北の蝦夷地政府ともいうべき[鎮守府]として機能しました。

1891年 不敬事件…3年間のアメリカ留学でキリスト教徒となった内村鑑三は、前年から第一高等中学校の講師として、この日講堂で挙行された教育勅語奉読式において、天皇親筆の署名に最敬礼をおこないませんでした。それが同僚・生徒などによって非難され、社会問題化しました。

1905年 血の日曜日…ロシア帝国の首都サンクトペテルブルグの冬宮前広場で行われた労働者によるデモに対し、政府の兵士が発砲、2000人もの死傷者を出しました。この日曜日におきた事件は、ロシア第1次革命の発端となりました。

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