児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年12月

今日12月26日は、『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』『真珠夫人』などを著した小説家、劇作家、ジャーナリスト、文藝春秋社を創設した実業家でもある菊池寛(きくち かん)が、1888年に生まれた日です。

小説や戯曲を書くだけではなく、出版社をおこし、文学賞をつくり、おおくの文学者たちを育てて文壇の大御所とよばれるようになった菊池寛は、四国の高松で生まれました。菊池家は祖父の代までは高松藩につかえた学者の家がらでしたが、寛の父は、小学校の事務員をしていました。

寛が小学生のころは家が貧しく、ときには、教科書も買ってもらえないほどでした。でも寛は、貧しさには負けず「おれは名のある人になるのだ」と、心に決めていました。とくに、おどろくほど読書がすきで、本がなければ、家のふすまに張った古新聞の小説までも読みました。やがて中学校へ進んだときに、高松の町に初めて図書館ができると、だれよりも早く閲覧券を手に入れて、毎日のように通いつづけました。

中学校を卒業すると東京高等師範学校へ進学しました。教師を養成する師範学校は、学費がいらなかったからです。ところが、学校の授業よりも図書館通いや芝居見物に夢中になりすぎて、2年生で退学させられてしまいました。

「おれは、教師にはむかない。よし、やはり文学の道がいい」

寛は、22歳で第一高等学校へ進みました。しかし、卒業まであと3か月というときに、こんどは自分から退学してしまいました。親分のような気性をもっていた寛は、友人のぬすみの罪を、その友人を助けるために自分がかぶったのです。そのごの寛は、京都へ行き、28歳で京都帝国大学を卒業して、新聞記者をふりだしに文学者への道を歩み始めました。

学生時代から小説を書きつづけてきた寛は、『父帰る』『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』などの作品を、次つぎに発表しました。そして、男の利己主義に対する女の復しゅうをえがいた『真珠夫人』が新聞に連載されると、小説家菊池寛の名は、野を焼く火のような勢いで国じゅうに広まりました。31歳のときには『父帰る』が東京の新富座で上演され、劇作家としてもみとめられました。

小説を書きながらでも、生活をしていくための現実主義を捨てなかった寛は、34歳のときに雑誌『文芸春秋』を創刊して、出版事業にもふみだしました。また、1935年には、芥川賞と直木賞をもうけて、作家をこころざす人びとへ希望の光をおくりました。このふたつの賞が、そののち新しい作家を生みだすために、どれほど大きな力になったか、はかりしれません。

寛は、54歳のときから映画会社の社長もつとめ、第2次世界大戦が終わった3年後の1948年に亡くなりました。59歳でした。

以上は、いずみ書房 「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

なお、インターネット図書館「青空文庫」 では、菊池寛の代表作品『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』『真珠夫人』を含む56編の著作を公開しています。

「12月26日にあった主なできごと」

939年 藤原純友の乱…瀬戸内海の日振島をねじろにする海賊藤原純友が、この日朝廷に対し反乱をおこしました。翌年、朝廷から追捕使が送られましたが容易に鎮圧できず、1年半後にようやく討ちとりました。関東の平将門の乱とともに、同時期に東西でおこった2つの反乱は、武士のぼっ興のさきがけとなりました。

1887年 保安条例…伊藤博文内閣は、自由民権派による政府の外交政策や地租改正などに反対する運動を阻止するために、秘密結社や集会の禁止、内乱や治安を乱すおそれのある者を皇居から3里(約12km)外へ追放などを盛りこんだ「保安条例」を公布、即日施行しました。これにより、年末までに尾崎行雄、星亨、中江兆民ら570名を追放する大弾圧を断行しました。

1898年 ラジウム発見…キュリー夫妻がラジウムの発見を公表。ラジウムによる作用が医学や工業に役立ち、第1次世界大戦中には、キュリー夫人みずからラジウム療法による救援活動を組織し、負傷者の治療に当りました。

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本年もご愛読をありがとうございました。
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新年は5日からスタートする予定です。
皆さま、良いお年を !  

今日12月25日は、明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫(おさない かおる)が、1928年に亡くなった日です。

1923年の関東大震災で、東京は焼け野原になりましたが、次の年、その東京の築地に、わが国で初めての、新劇専門の築地小劇場が誕生しました。小山内薫は、この劇場を演出家の土方与志(ひじかた よし)と力をあわせて建て、日本の新劇運動の発展に力をつくした劇作家です。

1881年、広島で軍医の家に生まれ、東京帝国大学へ進んだ薫は、学生時代から小説、戯曲、劇の評論などを書き、早くから、たくさんの演劇人とまじわりを深めていきました。そして、大学を終えると、まもなく歌舞伎役者の2世市川左団次と手をむすんで劇団「自由劇場」をつくり、新しい演劇運動にのりだしました。

明治時代の終わりのころの演劇には、歌舞伎と新派劇のふたつがありました。新派劇は、歌舞伎にくらべると新しいものでしたが、それでも役者には歌舞伎役者を使うなど、歌舞伎の影響の強いものでした。

自由劇場の第1回の公演で、ノルウェーの劇作家イプセンの劇を上演した薫は、歌舞伎でも新派劇でもない、もっと人間のありのままの心を表現する自由な演劇を生みだすことを、夢にえがいたのです。「自由劇場」は、その後、ゴーリキーやチェーホフなどロシアの作家が書いたものや、日本の新しい劇の上演を続け、いっぽう薫は、ロシア、ドイツ、イギリスなどをたずねて外国の新しい演劇を学びました。しかし、劇場は、新劇の役者が育たなかったことや、上演の資金にゆきづまったことなどから、およそ10年で幕をおろさねばなりませんでした。

「新劇のための演劇学校がほしい」このように考えていた薫は、築地小劇場をつくると、ふたたび立ちあがりました。

築地小劇場は、500人ほどの人しか入れない、文字どおりの小さな劇場でしたが、薫は、これを「演劇の実験室」と呼び、東洋の演劇と西洋の演劇をとけあわせて日本の新しい劇を育てていくことに、いどみました。

ところが、初めの数年間は、外国のほん訳ばかりを上演したため、日本の劇作家や小説家たちから「日本の劇をばかにしている」と、ののしられました。やがては日本の劇も上演するようになりましたが、日本の新劇が芽をだし始めたばかりの時代では、ほん訳劇が中心になるのはしかたのないことでした。

薫は、西洋の劇をみごとに演出してみせることによっても、日本の演劇界に大きな影響をあたえ、また、おおくの名俳優も育てて、47歳で亡くなりました。薫は、いまも、日本の新劇の父とたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝(シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇崩御…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇の崩御により、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

今日12月24日は、ポルトガルの航海者で、アフリカ大陸南端まわりのインド航路を発見し、ポルトガル海上帝国の基礎を築いたバスコ・ダ・ガマが、1524年に亡くなった日です。

バスコ・ダ・ガマが、ポルトガルの国王マヌエル1世の命令をうけ、インドにむけて船出したのは、1497年7月のことです。

それまでにもポルトガルは、アフリカをまわって東洋にでる航路を発見しようと、何十年もまえから探検船をくりだしていました。アフリカ大陸の西岸ぞいを南へすすみ、南端の喜望峰まではたしかめていましたが、それから先は、まだまったく知られていませんでした。

危険をおかしてまでインドへいく目的は、香辛料を手に入れることです。コショウやチョウジなどの香辛料は、肉食を好むヨーロッパ人に、欠かせないもので、アラビアの商人からたいへん高いねだんで買っていました。そこでポルトガルは、香辛料をインドから直接に安く持ってこようと考えたのです。

ガマを隊長とする163人の探検隊は、4せきの船にわかれて乗り、リスボン港を出帆して、大西洋のまっただなかを南へ進みました。喜望峰をまわったのは、11月のなかごろです。はげしいあらしや寒さにおそわれました。先のわからない航海ですから、船員たちの不安や不平がつのってきます。ついに暴動がおこりかけました。ガマ隊長は、暴動をくわだてた者をむちうちの刑にして、みんなに、どうしてもインドへいくことを強くいいわたしました。

年があけて、1498年になりました。アフリカの東海岸を北にむかって、航海はつづきます。何度も上陸しては休み、飲料水をくんで、また船を走らせます。4月のなかごろ、メリンダという港にはいったとき、そこで、すぐれた水先案内人をのせることができました。心強い仲間を得て、一気にインド洋を東へむかいました。

5月20日、ついにガマはインド西岸のカリカットにつき、インド発見の石柱をうちたてました。10か月以上にわたる苦しい船旅でした。しかし、このインド航路を開いたことにより、ポルトガルはインドと直接、香辛料などを取引きすることができるようになりました。そして、ヨーロッパきっての海洋王国として、さかえるきっかけをつかんだのです。

1499年9月、使命をはたしたガマ隊長の船が、リスボンに帰ってきました。船員の半数以上が死んでしまい、帰国したのはわずか55人です。おおくの犠牲をはらった航海でした。

ガマは、そのご数回インドへわたり、ポルトガルのインド征服のために力をそそぎました。功績をたたえられてインド副王を任じられたガマは、インドにでむいた1524年、病死しました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)4巻「シャンヌダルク・コロンブス・マゼラン」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「12月24日にあった主なできごと」

1814年 ガン条約…ナポレオンの大陸封鎖に対抗し、イギリスはアメリカの海上を封鎖。フランスとアメリカの交易を妨害したことにより1812年、英米戦争が勃発しました。この日ベルギーのガンで、両国は講和条約に調印(ガン条約)、アメリカとカナダとの国境が確定しました。

1897年 日本初の無線通信…東京月島から金杉沖にある人口島に電波を送ることに成功、この技術は後にラジオ放送などに応用されました。

1953年 奄美群島返還協定…1972年の沖縄返還協定に19年先立ち、奄美群島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島)をアメリカから日本に返還する調印が、この日行なわれました。

「読み聞かせ」のすすめ 16

知人から、おもしろい「読み聞かせ」の話を聞きました。

砂場・スベリ台・木馬などがある団地内の遊び場は、午後3時ごろになると、幼児と母親でいっぱいになります。子どもたちを見守りながら、母親たちは井戸端会議ならぬ「砂場端会議」です。

「あんなふうにして過ごしてしまうのは、もったいない」と感じたのでしょう。ひとりのお母さんが、砂場へ絵本を2冊持って行き、子どもをしばらく砂場で遊ばせた後で「ねぇ、みんな、おもしろい絵本を読んであげようか」と、子どもたちに声をかけました。すると、5、6人の幼児たちが「わぁ、読んで、読んで」と集まってきました。「本なんか見向きもしない」と思っていたのに、うれしい誤算だったようです。

こうして、1回15分ずつくらいの「砂場読み聞かせ」が始まりました。喜んだのは子どもたちだけではありません。「うちの子が絵本をあんなに喜ぶとは思わなかった」と、大いに喜んだのは、むしろ若いお母さんたちでした。

やがて、この読み聞かせは、外の強い日差しなどをさけるために、アパートの上がり口の石段に場所を移しました。階段に、ひな壇みたいに子どもを腰かけさせ、お母さんは一番下から読み聞かせるのです。週に平均2回ずつ始めて、もう半年。今では7人のお母さんの楽しみにもなっています──と。

読み聞かせは、本と時間があれば、どこでもできるのです。要は、親の心構えです。

今日12月19日は、江戸時代中期に活躍し、「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相(おおおか ただすけ)が、1751年に亡くなった日です。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談などで広く知られるようになりました。

大岡越前守という奉行が、胸のすくような裁判をして、弱い者をたすける「大岡裁き」の話は、いまでもテレビドラマをはじめ講談、落語、演劇などでしたしまれています。

その大岡越前守は、名を忠相といい、1677年、徳川の旗本の家に生まれましたが、10歳のころ、親類の大岡忠真の養子となりました。25歳で養父のあとをつぎ、幕府の役人になった忠相は、まじめなうえに有能でしたから、とんとん拍子に昇進していきました。

35歳のとき忠相は、伊勢神宮の事務や、伊勢(三重県)山田でおこった事件の裁判をおこなう山田奉行を命じられました。当時山田では、長い間となりの松坂と境界のことでもめていました。これを正当に裁判すれば、とうぜん山田側の勝ちになるものを、松坂が徳川御三家のひとつである紀州藩の領地であることから、これまでの山田奉行はこの争いをうやむやにしていたのです。そのため、奉行のかわり目ごとに必ず訴訟がおこっていました。それに対し忠相は、当然のことを当然におこなうという勇気をもって処理しました。忠相の公正な判決は評判になり、それが紀州藩主徳川吉宗の耳にも入りました。

やがて、吉宗が8代将軍にむかえられると、かねてから忠相の人物に感心していた吉宗は、忠相を江戸町奉行につけました。

忠相は、この江戸町奉行を20年近くつとめました。このときの有名な「大岡裁き」の話は、ほとんどが作り話です。しかし、忠相が名裁判官だったことは事実で、人情をよく理解し才知にとんだ公正な裁判をおこなったと思われます。また、司法改革にも力を入れ、連座制といって重い罪をおかした者の親子、兄弟、親るいまで罰せられた制度をゆるめたり、証拠のある重罪のばあいのほかは、拷問を禁じるなどの改革に重要な役割を演じました。

忠相は、裁判ばかりでなく、「享保の改革」を行なった将軍吉宗の片腕となって数かずのりっぱな仕事を残しています。

青木昆陽のサツマイモ栽培のきっかけは、忠相がつくったもので、飢饉のとき、たいへん役に立ちました。また、江戸の消防のしくみをつくったのも忠相です。「いろは47組」とよばれ、各地域に専門の消防組をおいたり、飛火を防ぐためにあき地をもうけたり、江戸名物の火事にそなえました。

59歳になった忠相は、寺社奉行になり、やがて三河(愛知県)に1万石の領地をあたえられ、大名に列せられました。

吉宗の死から半年後、74歳の忠相もしずかに世を去りました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)27巻「本居宣長・杉田玄白・伊能忠敬」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「12月19日にあった主なできごと」

1596年 26聖人処刑…豊臣秀吉は、京都や大坂(大阪)で布教していたフランシスコ会のスペイン人宣教師7名と、日本人信者ら計26名を捕え、この日長崎で処刑しました。スペイン船の乗組員が「宣教師の布教は、領土拡大のため」といったという話を聞いた秀吉が、腹を立てたことが原因。

1961年 ゴアの解放…1510年からポルトガル領だったインド西海岸の都市ゴアを、インド政府はポルトガル政府に何度も無血解放を求めていましたが解決に至らず、この日武力解放にふみきり接収しました。

1984年 香港返還の合意…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、イギリスと中国はこの日、香港返還合意文書に調印。1997年7月1日、香港はイギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。

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