児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年11月

今日11月28日は、すぐれた物理学者であるばかりでなく、随筆家としても名高い寺田寅彦(てらだ とらひこ)が、1894年に生まれた日です。

寺田寅彦は、西南戦争が起こった次の年1878年に、陸軍につとめる会計官の子として東京で生まれました。でも父が何度も転勤したので、少年時代は、ほとんど、父の郷里の高知で育ちました。
 
小学生のころは、虫とりと、顕微鏡をのぞくことと、読書がすきでした。学校の授業は、からだが弱かったので体育がにがてでした。それに、算数もきらいでした。夏休みに、両親のいいつけで算数を習いに行くことになったときは、べそをかいていたということです。

中学校の入学試験には、いちど失敗してしまいました。そして、無事に入学してからも、勉強にはあまりむちゅうにならず、ますます本を読みふけるかたわら、外国からつたわってきたばかりの野球などを楽しみました。

18歳で高知に別れをつげて熊本第五高等学校へ進み、3年ごには、東京帝国大学へ入学しました。

寅彦が物理学者になる決心をしたのは、高等学校で田丸卓郎教授の教えを受けて、物理学と数学のおもしろさを知ってからのことです。寅彦は先生にめぐまれました。高校時代に夏目漱石に出会ったこともそうです。漱石からは英語をおそわっただけではなく、俳句を習い、文学の話を聞いて人間を深めました。

寅彦は、そのご生涯、漱石を先生とあおぎました。のちに、吉村冬彦、藪柑子などの名で名随筆を書くようになったのは、青春時代に、大文学者漱石にめぐり会えたからです。

大学でも、田中館愛橘、長岡半太郎など、日本の科学をきり開いた物理学者の指導を受けることができた寅彦は、大学院を卒業するとそのまま東京帝国大学へ残って、講師から助教授、教授へと進みました。また、水産講習所で海洋学を教えたほか、航空研究所、理化学研究所、地震研究所などにも研究室をおいて、はばの広い研究活動をつづけました。

寅彦は、大きな発明や発見を追いかける物理学者ではありませんでした。おもに、実験してものをたしかめる実験物理学に力をそそぎ、研究は地味でした。しかし、その独特な研究のしかたで、おおくの学者や研究者を育て、日本の物理学の発展に大きな功績を残しました。

いっぽう『冬彦集』『藪柑子集』『万華鏡』などの随筆集も、数おおく残しました。真実を求める科学者の目で、自然、社会、人間を見つめた随筆は、名作小説もおよばない光を放ち、いまも、寅彦随筆集として広く読みつがれています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。 なお、オンライン図書館「青空文庫」では、寺田寅彦の随筆284編 を読むことができます。

「11月28日にあった主なできごと」

1883年 鹿鳴館時代のはじまり…日本で初めての洋式社交クラブ「鹿鳴館(ろくめいかん)」が、内幸町に開場しました。欧米の列強が不平等条約改正に応じないのは、日本が欧米並みに文明開化していないからという判断から、外務卿井上馨の欧化政策の象徴として建設されたもので、この日は井上の誕生日。翌年には日本初の舞踏会を開くなど、はなやかな欧化主義の「鹿鳴館時代」といわれましたが、井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに外国人判事の任用などを含む条約改正案が世間に知られると大反対が起こって、井上は1887年4月に外務卿の辞任に追いこまれ、鹿鳴館時代は終焉しました。

1947年 パレスティナ分割案国連で可決…第1次世界大戦後、トルコからパレスティナ統治をまかされたイギリスは、この地に国を建設しようとするユダヤ人とアラブ人双方に国家建設を認める約束をしていました。このイギリスの二重外交が、第2次世界大戦後にユダヤ・アラブ間の民族的・宗教的な対立を激化させることとなり、パレスティナ問題は、国連の決定にゆだねられることになりました。そして、この日国連総会は「パレスティナは、アラブ、ユダヤの両国家に分割される」という決定をし、1948年5月にイスラエル共和国が誕生。しかし、アラブ国家はこれを認めず、すぐに第1次中東戦争が勃発しました。

今日11月27日は、パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ松下幸之助が、1894年に生まれた日です。

「ナショナル」のマークで知られた松下電器産業(2008年10月「パナソニック」に社名変更)は、今や世界の大企業のひとつです。この大会社をつくりあげたのが、松下幸之助で、1894年(明治27年)和歌山県に生まれました。

父は事業に失敗し、和歌山市で下駄屋をはじめましたが、うまくいきませんでした。そのため、幸之助は小学校を4年でやめ、大阪の火鉢屋ではたらき、つづいて自転車屋につとめました。自転車がまだ、めずらしい乗物だった時代です。幸之助はそこで5年間はたらきましたが、大阪に市電の走るようになったのをみて「これからは電気の時代だ」と考えました。そこで大阪電燈の配線見習工になり、夜は、学校に通って電気の技術を身につけました。

1917年、電燈会社をやめた幸之助は、4人だけで町工場を作りました。はじめは失敗もありましたが、幸之助の考案した「二燈用差し込みプラグ」(ふたまたにしたソケット)は好評で、よく売れるようになりました。そして、この小さな町工場をさらに発展させたのは、新しい自転車用乾電池ランプの発売です。

それまでの乾電池を使った自転車用のランプは、数時間しかもたないので、ローソク・ランプの方がおおく使われていました。幸之助は、電池ランプを10時間以上ももつものにしようと考えました。わずか3か月の間に100個ちかい試作品を作るほど工夫を重ね、新しい豆球と改良した電池をくみあわせることによって、30時間から50時間ももつものを作り上げました。幸之助はこの成功をよろこび、新しいランプの生産を開始しました。

ところが「電池ランプなんか実用にならないよ」とどこでも信用してくれないのです。幸之助は弱りました。そこでこう言って小売店においてもらうことにしました。

「かならず30時間以上もちますから、見ていてください。そして、これは使えると思ったら、売ってください」

小売店に2、3個のランプをあずけ、そのひとつだけは点燈しておいたのです。やがて「こんなランプははじめてだ。30時間以上もったよ」とぞくぞく注文がくるようになりました。

つづいて幸之助は、アイロン、ラジオ、乾電池などの製造をはじめ、松下電器に発展させていったのです。「ナショナル」(国民の、全国の)という商標も、国民に必要なものを作ろうという幸之助の願いをあらわしています。ほかよりすぐれた、家庭で安心して使えるものをいつもめざしました。

幸之助は、1989年に94歳で亡くなりましたが、高度成長し、世界のトップクラスをほこるようになった日本の代表的経営者のひとりにかぞえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開いたします。

「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約が、この日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

1959年 デモ隊2万人が国会構内に突入…1951年に締結された日米安全保障条約(安保)は1960年に改定がおこなわれることになり、アメリカ軍の日本駐留・配備を続けること、その活動範囲を極東全域に拡大するといった内容でした。この日、改定に反対する学生や市民らが国会周辺に押しよせ、デモ隊2万人余りが国会構内に突入したものです。

今日11月26日は、昔からたくさんの探検家を輩出した国スウェーデンに生まれ、87年の生涯を中央アジアの探検にそそいだヘディンが、1952年に亡くなった日です。

1895年、8頭のラクダに、食べ物、毛布、カメラ、銃、それにいちばんたいせつな水を積んで、5人の男たちが、はてしなく広がる砂漠へ足をふみ入れました。スウェーデンの探検家ヘディンを隊長として、中国の西部にあるタクラマカン砂漠を越えようというのです。見送る人びとが「自殺しに行くようなものだ」とささやきあうほど、危険な旅でした。

人もラクダも焼きこがすような太陽。高さ30メートルもある砂丘。ごうごうと、ほえたてるようにおそってくる砂あらし。どこもかしこも、見わたすかぎり砂ばかりです。20日めには、とうとう1滴の水もなくなってしまいました。

やがて、5頭のラクダがたおれ、4人のなかまも、かわきのために、もう、はうことすらできません。ヘディンだけが、ぼんやりする頭の中で、川にぶつかることを祈りながら歩きつづけました。

からだはひからび、脈拍もとぎれとぎれになり始めたとき、とつぜん、神のささやきのような音が、耳に届きました。

水です。砂漠を横ぎる川です。ヘディンは、ふるえる手で水を飲み、やっと元気をとりもどすと、長ぐつに水をみたして、たおれたなかまのもとへひき返しました。

こうして、アジアの大砂漠の横断が成功しました。世界で初めてのことでした。

1865年、スウェーデンのストックホルムで生まれたスベン・ヘディンは、少年時代から探検家になることを夢見ていました。大学で、中国を探検した教授に地理学を学んでからは、東の国ぐにへの旅に、心をうばわれてしまいました。

「なぞのおおいアジア大陸を、自分の目で確かめてみよう」

中国へ、チベットへ、モンゴルへ、ヘディンは生涯のうちに4回、命がけで足をふみ入れています。そして、砂にうずもれた楼蘭の町や、インダス川の水源や、ヒマラヤ山脈の北にあるもう1つの山脈トランスヒマラヤなどを探りあてたのです。

ヘディンの目的は、見知らぬ土地を探検する苦しみやよろこびを、心にきざむことだけではありませんでした。地理学者として、地形や気候や、そこに住む人びとの生活などを、こまかく書きとどめておくことも忘れませんでした。そうした記録は、87歳の生涯を閉じるまでに、10冊を超える探検記と数えきれないほどの調査報告として、みごとにまとめられています。

一生結婚もせず、ひたすらアジアを歩きつづけたヘディンの心には、いつも、未知への探求心の火が燃えていました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開いたします。

「11月26日にあった主なできごと」

1086年 白河上皇の院政開始…白河天皇はこの日、8歳の親王を堀川天皇として譲位。白河上皇となって、幼い天皇の後見役となってからも政治の実権を握る院政をはじめました。白河院政は、堀川・鳥羽・崇徳天皇の3代にわたり43年間も行なわれ、その後も鳥羽・後白河上皇も院政を続けたため、「院政時代」といわれています。

1504年 イサベラ女王没…スペイン(カスティリア王国)女王のイサベラ1世がこの日53歳で亡くなりました。女王はイスラム教国グラナダを滅亡させたこと、コロンブスのアメリカ発見の援助者として有名です。

1906年 満鉄設立…日露戦争に勝利した日本は、ロシアが建設した東清鉄道を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)として経営することになりました。満鉄は、鉄道事業を中心に広範囲にわたる事業を展開、日本の満州(中国東北部)進出の中核となりました。

今日11月25日は、ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家でありながら、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげた三島由紀夫が、1970年に亡くなった日です。

1970年(昭和45年)11月25日、東京市ヶ谷にある陸上自衛隊ではたいへんな騒ぎが起こりました。三島由紀夫が、自分のひきいる「楯の会」の4人の会員とともに、総監室になだれこみ、バルコニーから、ビラをまき、演説をはじめたのです。

「今の憲法は、自衛隊をはっきり認めていない。自衛隊を正しい姿とするために、いっしょに死を決して立ち上がろう」

しかし、演説を聞いた自衛隊員は、ただヤジをあびせるばかりでした。三島は、総監室にもどると、腹を切り、会員の森田必勝が三島の首を打ちおとしました。森田も、あとを追って腹を切りました。新聞やテレビは、この事件を「気ちがいじみた行動」と報道し、人びとも、作家の三島がなぜこのような行動に走ったのか、首をかしげました。

1925年(大正14年)1月14日、三島由紀夫(本名平岡公威)は、東京四谷に生まれました。父は農林省の官吏でした。三島は少年のときから、文学に親しみ、父は反対しましたが、その強いこころざしをとめることはできませんでした。19歳のときには、早くも最初の短篇集『花ざかりの森』を刊行しました。才能を認められ、21歳のとき、川端康成の推せんによって『煙草』が雑誌に発表されて、文壇に登場しました。

これから三島は『仮面の告白』『青の時代』『金閣寺』『潮騒』などを書きます。緊密で論理的な構成と、ゆたかで機知にとんだ文章によってきずかれた、それらの独自な世界は人びとの注目を集めました。いっぽう、演劇の世界でも、『近代能楽集』『若人よ蘇れ』『十日の菊』などの戯曲で、そのはなやかな才能を示しました。また、翻訳された作品は、海外でも高い評価を得ています。

三島は、小さいときは虚弱でした。それだけに強いからだ、強い心にあこがれました。多くの作家たちが、弱いからだ、弱い性格にもたれかかって作品を書いているのをきらい、からだをきたえました。剣道、空手、ボクシング、ボディビルにはげみ、「楯の会」では自衛隊と共同訓練を行いました。また、社会のできごとに対しても積極的に発言したので、その存在がいつも話題の中心となる作家でした。

三島由紀夫は、なぜ死を選んだのでしょうか。

「物質的な繁栄に精神を失った日本の現状を真剣にうれえたのだ」と言う人もあれば「自分の文学の限界を知ったので、ああした形で死を選んだのだ」という人もあります。そのどれとも言いきれないところに、その死の複雑な意味があるといえます。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開いたします。

「11月25日にあった主なできごと」

1890年 第一回帝国議会の開催…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれました。衆議院の議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限られるなど、当時の人口のおよそ1パーセントが有権者であるにすぎませんでした。

1892年 オリンピック復活の提唱…クーベルタン男爵はアテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られました。

1987年 ハイビジョンの日…高精密度テレビ「ハイビジョン」の走査線が、従来のテレビの走査線525本に対し、1125本であることから、この日が「ハイビジョンの日」と制定されました。

今日11月21日は、形式化した禅宗と僧侶たちを厳しく批判し、世間的な常識に真っ向から対立する奇行と人間味あふれる狂詩で世を風刺した室町時代の名僧・一休が、1481年に亡くなった日です。

一休が、仲間の小僧たちと寺の掃除をしていますと、近所に住むおかみさんがやってきて「ボタ餅をつくったから食べておくれ」といいます。みんなは喜んで、餅にかぶりついたら、ガリガリ、ガリガリ。よくよく見たら、餅ではなくて、丸い石ころでした。「やーい、おいらのボタ餅はうまかったか?」「あっ、きつねだ。よくもだましたな」と、みんなで追いかけましたが、どこに逃げてしまったのか、見当たりません。

その時、本堂のほうから和尚さんの大声がします。「おーい、みんな来ておくれ。大変だ、仏様が二つになっている」「和尚さん、どちらか一つは、きつねが化けてるんですよ」と一休。「だがな、どっちがホンモノで、どっちがニセモノか見分けがつかぬ。しっぽはないか」「ありません」「棒で頭をたたきましょうか」と小僧たちは口々に叫びます。「いかん、いかん。ホンモノをたたいたら大変じゃ。寺の宝じゃからな」

すると一休が「ホンモノの仏様は、和尚さんがお経を読むと、いつも舌をペロリと出しますよ」といって目くばせすると、和尚さんもわかったらしく「おお、そうじゃった、そうじゃったな」といいながら、お経を読みつづけていると、一つの仏様が長い舌をペロリと出しました。

「それっ、舌をペロリと出したのがきつねだぞ」。きつねはみんなにぎゅうぎゅう押さえつけられ、ひげをちょん切られ、棒でたたかれ、「もう、悪さはしません」といいながら、尻尾をたらりとさげて、山へにげていきました。

これは、江戸時代のはじめに、一休の名を借りて作られた「一休とんち話」の中にあるたくさんの話のひとつです。一休は、南北朝の時代に、北朝の天皇だった後小松天皇の子に生まれましたが、母が南朝すじの人だったために、5歳で安国寺に預けられました。とんち話は、その安国寺の小僧時代のエピソードとして語られています。一休は、安国寺を出たのちも、もっとそまつな寺で厳しい修業をつづけました。やがて全国各地を歩き回り、禅をやさしくユーモアをまじえながら、誰にもわかる言葉でといてまわったことで、「一休さん、一休さん」と人々に親しまれ、愛されるようになったのでしょう。

一休は、室町幕府将軍家の信仰を受けて、権威化・世俗化していた「五山派」という禅宗の腐敗を嘆いて、奇行や狂詩などでこれを風刺しました。杖の先にガイコツをつけて京の町を歩きまわり「正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」「今日ほめて 明日悪くいう人の口 泣くも笑うも うその世の中」などと詠んだことは有名です。

一休の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「一休」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

「11月21日にあった主なできごと」

1783年 世界初の有人気球…モンゴルフィエ兄弟の発明した熱気球が、ふたりの侯爵を乗せて100mまで上昇。パリ上空9Kmの距離を、25分間世界初飛行に成功しました。

1806年 ナポレオンの大陸閉鎖令…プロイセン軍を破ってベルリンに入ったナポレオンは、この日ヨーロッパ大陸とイギリスとを隔離する「ベルリン勅令」を発しました。トラファルガーの戦いでイギリスに破れて制海権を失ったしかえしに、イギリスを経済的に自滅させ、フランス商品のヨーロッパ大陸支配をねらったものでした。しかし、密輸の横行と、大陸諸国のフランスへの反感が高まりました。

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