児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年10月

「読み聞かせ」のすすめ 7

読み聞かせは、子どもが小学校の中学年になっても高学年になっても続けてよいものか、いつまでも読み聞かせをしていると、自分で読むことをしなくなるのでは? こんな疑問を持つ人がよくおられます。

たしかに「読み聞かせ」は、まだ文字が読めない幼児期を対象に、本を通じて子どもの心を豊かにし、幼いうちに読書への興味を育てるというのが主なねらいです。

でも、子どもが自分で本を読めるようになったら、もうおかしいというものではありません。子どもが2年生、3年生になったら「おもしろそうな本を自分でもさがしてごらん」とすすめるのはよいことですが、「もう文字が読めるようになったのだから、これからは自分で読みなさい」と急に突き放すようにするのは好ましいことではありません。字が読めるのと、本の内容を理解するのとは大きな違いがあるからです。

子どもが自分から「もう自分で読む」といいだしたときは、「そう、それはいいわね」とほめながら、一方で「お母さんと読むのも少しは続けようよ」とか「読み終えたらお母さんにも読ませて」と要求するのもよいでしょう。家庭での親子読書へ発展していけばすてきなことですし、読書の楽しさを知れば、自分で本を読まなくなるという心配は無用です。

今日10月16日は、フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、1793年に38歳の若さで断頭台に消えた日です。

1775年にオーストリアの女王の娘として生まれたアントアネットは、14歳で、フランスのルイ王子と結婚しました。愛情でむすばれたのではありません。フランスとオーストリアが手をむすぶために、ぎせいにされたのです。

4年ののち、王子は国王ルイ16世となり、アントアネットは王妃になりました。王を愛することができないアントアネットは、黄金のベルサイユの宮殿で、ぜいたくでわがままな生活だけを楽しむようになってしまいました。

ところが、1789年10月、アントアネットのはなやかな生活は、とつぜんうちこわされてしまいました。

「国の政治を、王のかってにさせるな。貧しい人びとを虫けらのようにあつかう貴族をたおせ、われわれにパンをよこせ」

人間の自由と平等をさけんで立ちあがった人びとが、ベルサイユ宮殿へおしかけました。フランス革命がはげしさを増し、貴族とむすびついていたルイ16世とアントアネットは、民衆の手でパリに移されてしまったのです。

いつも市民に見はられている生活は息苦しくてしかたがありません。それに、もういちどぜいたくな生活をとりもどしたいアントアネットは、兄のオーストリア皇帝にたすけてもらうことを考え、ある夜、王といっしょに、召使いにすがたをかえて宮殿から逃げだしました。しかし、すぐに見つかり、こんどは罪人のようにして、パリへつれもどされました。

オーストリアは王妃を救い出そうと、軍隊をむけてきました。

「みんな戦え、祖国フランスを守るのだ」

人びとは『ラ・マルセイエーズ』をうたってふるいたちました。ところが、このとき国民が、まず初めにいのちをうばったのは、オーストリアとこっそり手をむすんでいた王でした。

1793年1月、ルイ16世は、市民のまえでギロチン(断頭台)にかけられました。そして、それから10か月ののちにアントアネットも、新しく権力をにぎった政治家たちに、死刑にされてしまいました。ナポレオンが軍隊の力で争いをおさえ、1799年にフランス革命を終わらせるよりも、6年もまえのことでした。

アントアネットは、王妃でありながら、自分のことしか考えない、心のせまい人間でした。しかし、歴史の流れにふみつぶされたかわいそうな王妃として、フランス革命とともに、いつまでも語りつがれるにちがいありません。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 8巻「モーツァルト・ナポレオン・ベートーベン」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「10月16日にあった主なできごと」

1012年 藤原道長絶頂期の歌を詠む…「この世をば わが世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女を一条天皇、次女を三条天皇の皇后とし、そして三女を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。

1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュールンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュールンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。ゲーリングは処刑される寸前に拘置所で服毒自殺。

今日10月15日は、16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが、1564年に亡くなった日です。

暗黒時代がつづいたヨーロッパの社会も、16世紀にはいると、ドイツのルターやフランスのカルバンたちが宗教改革をおこして、教会の権力をゆさぶり、学問の世界も新しい学説が古い学説をくつがえして、ようやく明るいきざしがみえはじめました。

なかでも、1543年に出版された2さつの本は、新しい時代へみちびく手引きとなりました。コペルニクスの『天球の回転について』と、ベサリウスの『人体の構造について』という本です。コペルニクスは、出版と同時にこの世を去りましたが、ベサリウスのほうは、まだ若いときの出版でしたから、世の非難をあびて、のちのち苦労をすることになりました。

ベサリウスは、1514年ベルギーのブリュッセルで生まれました。小さいころから研究熱心で、ネズミやネコを解剖して内臓をしらべたりしました。医学を勉強するために、19歳のとき、パリの大学にはいりました。しかし、先生の講義は、古代ギリシアのガレヌスの説をそのままつたえるだけのもので、ベサリウスには、ものたりませんでした。自分で動物を解剖したり、人体や骨を観察したりして、研究をつづけていきました。

1537年、23歳のベサリウスは、北イタリアのパドバ大学から医学教授としてむかえられました。ベサリウスは解剖学の研究をすすめながら、その新しい知識を学生たちに教えました。教室で人体を解剖してみせ、あやまった古い学説をひとつひとつ正していくベサリウスの講義は、学生たちを感動させ、ほかの医学者たちをおどろかせました。

ベサリウスが『人体の構造について』という研究論文を発表したのは、教授時代の1543年です。近代医学の基礎ともなった、すぐれた論文でしたが、当時の教会は、ベサリウスを危険思想のもち主ときめつけました。学会も、なかまの教授たちも、こぞってベサリウスを非難しました。

大学にいられなくなったベサリウスは、やがてスペイン国王の侍医となり、マドリードにうつり住みました。そして、外科医として信頼されるようになりました。あるとき、貴族の死体を解剖しました。ところが、その人体はまだ心臓がうごいてた、といううわさが町にながれたのです。ベサリウスは、生きた人間を解剖したうたがいで、宗教裁判にかけられました。

「聖都エルサレムにいってざんげせよ」という宣告がくだされました。ベサリウスは、エルサレムまでいきました。しかし、その帰りみち、近代医学をきりひらいた「解剖学の父」は、小さな島でさみしく亡くなりました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 5巻「ミケランジェロ・レオナルドダビンチ・ガリレオ」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「10月15日にあった主なできごと」

1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく、ユリウス暦は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されているグレゴリオ暦で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。

1867年 大政奉還…1月に即位した明治天皇は、前日江戸幕府第15代将軍徳川慶喜から申し出のあった統治権の返上(大政奉還)を受け入れ、江戸幕府265年の歴史が終わりをつげました。

1929年 官吏の給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。

1949年 米プロ野球チームと対戦…来日していたアメリカプロ野球3Aチーム「サンフランシスコ・シールズ」と巨人軍がこの日に対戦。結果は13対4で巨人軍の完敗に終わりました。

初泳ぎの翌朝のこと。散歩中に、かゆいのか痛いのか、キャンキャンいいながら、地べたに座りこんだり、しっぽの辺りを噛みついたり、のたうちまわるのです。ノミに刺されたところが、だだれでもしたのかと思って調べてみると、ややや、まだノミの残党がウロウロしているではありませんか。

すぐに、2度目の風呂入れ作戦に出ました。今回は、最初から浴槽を満水にして、一気にモカをお湯の中に入れ、泳がせてみることにしました。しかしモカは、昨夜の恐怖を思いだしているのか、なかなか風呂場に入りたがりません。でも、ノミをやっつけるのだからと説得して(モカは人間の言葉を理解するのです)、中に入れました。そして、即席の応援歌「♪がんばれ!モカちゃん」をこしらえて、歌ってはげましながら、モカの泳ぎを見守りました。出てきます、出てきます。昨夜ほどではありませんが、10匹ほど退治しました。モカは今回も、おぼれる恐怖と戦いながら、舌をハアハア懸命に泳いでいるのはかわいそうなほどでした。今回は、前夜の倍の10分くらいで出してあげました。はたして、壊滅させられたのでしょうか。その日はもう、あまりかゆがることはありませんでした。

ところが敵もさるもの、まだしぶといのが残っているようです。翌朝、お尻のあたりで動いている1匹を見つけたので、すぐさま、第3回「風呂入れ作戦」の決行です。ノミが少なくなってきているのがわかるためでしょう。モカも協力的になって、尻尾をふりふり風呂場へ直行です。ザブン! 浴槽に入ったモカの泳ぎには、何か余裕が感じられ、昨日までのメチャクチャに前足を水面にたたきつけていたのに対し、全身を上手にバランスをとりながら、最小限の動作で泳いでいるのには感心します。とても気持ちよさそうなので「応援歌」ではげますこともなく、およそ15分で終了、ノミ退治5匹の成果でした。しばらくぶりのハードな運動だったせいでしょう。いつもの倍以上の食事量でした。

私は、15分間も水の中に入っても死なないノミの生命力にあきれはて、モカの身体にノミを見つけたら何回でも風呂へ入れるという長期戦を決めこみました。そしてその翌朝、第4回「風呂入れ作戦」に打って出ました。もうモカは、浴槽に入るのを期待して待っているかのように、うれしそうに尻尾をふっています。そしてスイスイ立ち泳ぎを開始。余計な力がぬけているからでしょう、舌をハアハア出すこともなく、口を閉じて鼻呼吸しながら泳ぐ様は、芸術的でもあります。それにしても、人間の子どものように高い月謝を払って「水泳教室」へ通わせるでもなく、見事に泳いでしまう能力には、感嘆してしまいます。今回もおよそ15分、ノミ退治3匹でした。

そして2日後、第5回目の風呂入れで3匹を退治してから、もうノミを見かけることがなくなりました。ついに壊滅に成功したようです。秋も深まって、涼しくなったことも一因なのかもしれません。最後にモカを泳がせてから、もう10日以上たちますが、ときおり「私、泳ぎたいの」といった表情をみせます。この週末には、泳がせてあげようかな。

3年前に痛めつけられたノミに、その後2年間は無事切り抜けられたのは、散歩中にとりつくと思われる危険地帯に近づかなかったからだと判断していました。ところが、今年の夏の終わりの長雨が、ノミの大発生を後押ししたにちがいありません。9月の半ばすぎから、かゆがりはじめたのです。

犬に詳しい人のアドバイスで、ノミとりシャンプーを手に入れてシャンプーしたところ、2、3日はおとなしくしていました。ところが、またかゆがりだし、かゆいところをなめたり咬んだりするため、自慢の白毛がぬけ落ちて、お尻のあたりが円形脱毛症のようになりました。さらにその範囲は広がり、背中からお尻のあたりまでピンク色の皮膚が見えるようになりました。そして、ノミに刺されたところを後ろ足でかいたり、かみついたりするからなのでしょう。ときおり痛がってキャンキャンいうようになりました。そこで、じっくり観察してみると、何とおしりのあたりにノミが2、3匹動いているではありませんか。3年前、風呂に入れてノミ退治したのを思いだし、すぐに実行を決断しました。

当時の浴槽の水位は、満水にしても60cm程度で、モカは前足で浴槽のへりをおさえ、後足を底につけ、頭を出すことができました。その後長男一家と同居するようになって、私の生活スペースと完全に分離したため以前の浴槽は譲り、私の新しい風呂場には、水位が満水時に80cmほどになる深い浴槽を取りつけました。その浴槽にモカを入れ、温度を33度に設定して少しずつお湯を出していったのです。モカは、3年前のノミとりのことを思い出したのか、はじめはおとなしくしていました。ところが、だんだん水位があがって、わずかに鼻の先が出せる程度になると、もうパニック状態。懸命に浴槽のヘリにつかまって、脱出を試みようとしました。そのうち、前足がヘリからすべって、完全にお湯の中にもぐったかと思った瞬間、泳ぎだしたのです。ハアハアあえぎながら、懸命に犬かきをしています。モカにとっては、まさに泳ぎの初体験でしたが、バシャバシャやっているうち、ノミがぞろぞろと出てきました。見つけるたびに、風呂桶ですくっては捨て、すくっては捨てとやっているうち、20匹以上はやっつけたはずです。この夜は、疲れているようなので、5分ほどで浴槽から出してあげました。

これで当分大丈夫、うまくしたら全滅できたかもしれないと、ほっと胸をなでおろしました。モカもさっぱりしたようで、食欲も出て、しばらく安眠できなかったのに、その夜はぐっすり眠っているようでした。

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