児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年10月

今週の火曜日(28日)、スケジュールに余裕があったのと久しぶりの秋晴れに誘われて、かねてから行ってみたかった「フェルメール展」へ出かけてみました。前日、株価がバブル崩壊後最安値、円高加速、景気の先行きに悲観論続出などとニュースで騒がれていても、上野公園はそんな世間の情勢などとは無縁であるかのようにおだやかで、たくさんの人出でにぎわっていました。

11時半ごろに東京都美術館に着いたところ、6種類の展覧会が開催中なのに他の展覧会はまったくの閑散、「フェルメール展」のチケット売り場にだけ長蛇の列ができています。入場券をやっと手に入れ、さあ入場と思ったら、こんどはさらに大勢の人たちが入場待ちをしていました。大盛況で、なかなかじっくり見られないと聞いてはいましたが、8月2日から始まり開催後3か月近くも経っているのに「入場まで30分」の表示を見ながら、日本人はどうしてこんなにもフェルメールが好きなのかとなかばあきれてしまいます。8割は女性でしょうか。入場料65歳以上のシニア割引が900円のせいか、半数以上がシニアの切符を手にしているように見うけました。「30数点しかないというフェルメールの作品のうち、7点を一堂に見ることができる最後のチャンス」などと新聞やテレビで報道されたり、大宣伝におどらされているだけではなさそうです。

とはいえ、私もフェルメール好きな日本人の一人なのかもしれません。フェルメールの全作品を踏破したいと、17年かけて欧米の美術館を訪ね歩き「恋するフェルメール」を著した有吉玉青さんほどではないにしても、何種類かのフェルメール関連書籍や画集を手元にしているばかりでなく、すでにナショナルギャラリー(ロンドン)、ルーブル(パリ)、メトロポリタン(ニューヨーク)、絵画館(ドレスデン)で十数点のフェルメールと出あい、昨年は六本木の新国立美術館で開催された「牛乳を注ぐ女」には、2度も対面したほどです。

私が一番出合いたいと思っていたフェルメールは、ウィーン美術史美術館にある「絵画芸術」(画家のアトリエ)。今回来日する7点のうちの1点がこの絵であることを、主催する朝日新聞の6月27日付[be]「フェルメール展特集」で知り、12月14日までの会期中には必ず行こうと決意していました。

felmale.jpg

ところが、お目当てのこの作品がありません。一通り見終えたあと、特別の部屋にでも展示してあるのかと、もう一度もどってみましたが見当たらないため、フェルメール作品を1点ずつ数えていったところ、7点すべてあります。おそらく、何か事情があって来日できなくなったのでしょう。しかし、今回出品の7点はどれも、納得のいく作品ばかりで、特に「小路」と「ヴァージナルの前に座る若い女」の2点は、画集ではわからなかった詳細を見ることができて満足でした。

帰社後、「フェルメール展」のホームページ をチェックしたところ、開始間際の7月31日「オーストリア教育文化省は、輸送による影響、特に温湿度の変化に伴い、保存状態の悪化が懸念されるという事由により出品中止の決定を下した」とありました。

いずれ、ウィーン美術史美術館へでかけ「絵画芸術」だけでなく、ベラスケスの3点の「マルガリータ」(名品「ラス・メニーナス」に描かれている王女の、見合い写真としてハプスブルグ家に贈られた肖像画)、そしてブリューゲルの「バベルの塔」に出合いたいと願っています。何といっても美術鑑賞は、本来あるべき場所で、じっくり観るのに勝るものはありません。当然見られるものと訪ねた美術館に、「貸し出し中」で見られない時ほど興ざめなことはないからです。

なお、昨年12月6日の私のブログに「日本人の大好きな画家・フェルメール」と題し、フェルメールの人物像にふれていますので、参考にしていただければ幸いです。

今日10月30日は、「夢物語」を著し、江戸幕府批判の罪で捕らえられるも脱獄、自ら顔を焼いて人相を変えて逃亡していた蘭学者高野長英(たかの ちょうえい)が、1850年幕府の役人に見つかって自殺をはかった日です。

開国論者として有名な高野長英の一生は、時代を切り開こうとする者が、どんな苦しい目に会い、それに耐えて生き抜かなければならなかったかを教えてくれます。

長英は1804年、陸奥国(岩手県)水沢に生まれました。7歳で父を失い、母の実家にひきとられたのが蘭学をはじめるきっかけでした。養父の高野氏信が杉田玄白の弟子で、長英にオランダ語の手ほどきをしてくれたからです。やがて16歳になると長英は医学をおさめようと江戸に出ました。はじめ玄白の養子杉田伯元につき、さらに伯元のすすめでオランダ内科医学で名高い吉田長叔の弟子になりました。長英の勉強ぶりはたいへんなもので、まもなくオランダ語の辞典の翻訳を手がけるほどの進歩をとげました。

ちょうどそのころ、長崎でオランダ医者シーボルトが「鳴滝塾」を開き、日本の産業や文化を研究するかたわら蘭学をこころざす青年を集めて教えはじめました。これを知った長英は、さっそく長崎におもむきました。19歳のときです。

オランダ医学はもちろん、長英はシーボルトの日本研究を助けて資料をまとめたり各地の実地調査をする仕事にも人一倍努力しました。そのなかで長英の社会を見る目はとぎすまされ、自分一人の出世よりも、学んだことを少しでもおおくの人びとの役に立てようと考えるようになりました。

1828年、長崎留学をおえて江戸に帰ろうとしたやさき、シーボルト事件がおきました。シーボルトが日本から持ち帰ろうとした品物のなかに持ち出し禁止の日本地図があったからです。役人の追及は塾生にも及びました。長英は災いをさけ、各地を転てんとしたあげく、1830年10月江戸に帰って町医者になりました。しかし、おだやかな日びは長くはつづきませんでした。

1833年、天保の大ききんがおこると渡辺崋山らとともに長崎での学友小関三英の呼びかけに応じて尚歯会に加わり、飢えに苦しむ人びとを助けるための対策をねって『ニ物考』という本を書きました。この本の中で長英は幕府のやり方を批判したので目をつけられることになったのです。さらに1837年モリソン号を砲撃して退去させた幕府の鎖国政策の誤りを『夢物語』に書いて明らかにしたため、『慎機論』を書いた崋山とともに捕えられてしまいました。6年後、牢が火事になったのにまぎれて逃げ出し、顔を硝酸で焼いて人相を変えてさすらいましたが、ついに、追っ手にとり囲まれて自殺しました。長英は自分の正しいと思ったことは、決して曲げない人でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「10月30日にあった主なできごと」

1890年 教育勅語発布…この日「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、翌日全国の学校へ配布。以来、1945年の敗戦まで55年もの間、皇室中心の国家的教育が進められました。

1938年 火星人来襲パニック…アメリカのラジオドラマで、オーソン・ウェルズ演出による「宇宙戦争」(原作H・Gウェルズ)を放送、演出として「火星人がニュージャージー州に侵入」の臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いした人々が大パニックをおこして町から逃げ出す人、発狂する人まで現れました。

2000年 高橋尚子に国民栄誉賞…8月に行なわれたシドニーオリンピックの女子マラソンで優勝し、陸上競技で日本に64年ぶりの金メダルをもたらした高橋尚子に国民栄誉賞が授与されました。  

今日10月29日は、開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、桜田門外の変で水戸浪士らに殺害された江戸末期の大老井伊直弼(いい なおすけ)が、1815年に生まれた日です。

井伊直弼は、江戸時代の末期、対外的には200年来つづいていた鎖国体制がゆさぶられ、また国内的にも幕藩体制がゆるぎはじめたむずかしい時期に、幕府の最高責任者である大老として活躍した人です。歴史の曲がりかどに生きた直弼の一生は、個人の運命と時代の流れとのかかわり合いについて、さまざまなことを考えさせてくれます。

1815年10月、直弼は近江(滋賀県)の11代彦根藩主、井伊直中の14番目の男の子として生まれました。4歳で母を失い、16歳で父を亡くすと、直弼は長兄の12代藩主直亮(なおあき)から城外に小さな屋敷を与えられ、命じられるままにそこに移り住みました。このとき直弼は自らの住みかを埋木舎(うもれぎのや)と名づけ、一生ここに埋もれて過ごす覚悟をきめ、出世の望みも捨てました。ただ若いエネルギーと知識欲はおさえることができません。茶道や国学の研究に、あるいは禅や居合の修行に、直弼は全力を注ぎました。

ところが直弼が31歳のとき、藩主直亮の養子直元が病死してしまい、かわりに直弼が養子に選ばれることになりました。さらに4年ご、藩主直亮も亡くなり、思いがけなく35歳にして直弼は13代彦根藩主となったのです。知識や体力はもちろんですが直弼がなみの藩主とちがうのは、埋木舎の時代を通して私利私欲にとらわれない冷静な判断力を身につけていたことです。まもなく直弼は名君として人びとの信頼を集めました。

1853年、アメリカ使節ペリーが浦賀(神奈川県)にあらわれ幕府に開国をせまる事件がおきました。産業革命をなしとげた欧米の列強による海外市場の開拓の波が、ついに日本にも打ち寄せてきたのです。天下は開国か攘夷かで大混乱となりました。翌年ペリーが再来し、武力をちらつかせながら江戸湾深く乗り入れると幕府はやむなく和親条約を結びましたが、アメリカの本当のねらいは通商条約です。困りはてた幕府は名君のほまれ高い直弼を大老の位につけてことに当たらせることにしました。直弼はアメリカと戦っても勝ち目のないこと、さらにヨーロッパ列強につけ入られるすきを与えないためには通商条約もやむなしとの断をくだし、1858年、条約は調印されました。怒ったのは水戸藩の徳川斉昭をはじめとする攘夷論者の人たちです。

ここにいたって直弼は力による弾圧で難局を切り抜けようとして「安政の大獄」を引きおこしてしまいました。これを恨んだ水戸浪士らによって、1860年3月3日直弼は江戸城の桜田門外で殺され、直弼を失った幕府も衰亡への道を急ぐことになりました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「10月29日にあった主なできごと」

1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。

1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られて株が大暴落したため、ニューヨークの取引の中心であるウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日1630万株も売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株価はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていったのです。

1945年 宝くじ発売…政府はこの日、戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年1等の副賞には木造住宅がつきました。

「読み聞かせ」のすすめ 9

子どもへの読み聞かせは、毎日ではなくても、週に1、2回、少しの時間があればできます。しかし、これを1年、2年、3年も継続するには、それなりの意志が必要です。

そこで、読み聞かせを始めてはみたものの、子どももなかなか静かに聞いてくれないし、もうやめてしまおうかと思いはじめたお母さんに、すすめることがあります。それは、半日が無理なら2、3時間でもよいですから、子どもの本を備えた公共図書館か公民館、あるいは近くの家庭文庫などへ足を運んで、子どもの絵本をできるだけたくさん読んでみることです。絵本であればわずか2、3時間でも20冊くらいは読めます。公共図書館などがなければ、子どもの通う学校図書館でも、わけを話せば見せてくれるはずです。

こうして、自分自身が、まず絵本の世界にひたってみることです。すぐれた絵本は、必ずおとなの心をも打ち、絵本の素晴らしさに気づかせてくれます。

もしも、この図書館通いを2、3回も続けることができれば、何とかして読み聞かせをつづけてやろうという気持ちになるのは、もう間違いありません。子どもの豊かな成長を願う親なら、このくらいの努力も必要でしょう。

読み聞かせが長続きしないのは、子どもが悪いのではなく、絵本を好きになっていない親の側に責任があるのだということを自覚してください。

おもしろ「言葉」のおこり 2

● つじつまが合わない

話のすじがでたらめな時などに用いますが、語源は裁縫用語からきています。つじ(辻)は、裁縫で縫い目が十字に合うところ、つま(褄)は、着物のすその左右が合うところをいいます。つまり、この2つの合うべきところが合わないと、ちぐはぐな着物になってしまうことから、話の合わない不自然なことを「つじつまが合わない」というようになりました。

同じ意味に「矛盾(むじゅん)」という言葉があります。これは、中国の韓非子という書物にある故事からきています。楚の国にほこ(矛)とたて(盾)を売り歩く商人がいました。矛というのは、諸刃の剣に長い柄をつけた武器、盾というのは槍や剣を防ぐ武器です。商人が矛を売るときは「この矛はとても鋭いので、どんな堅い盾でも突き通す」といい、盾を売るときは「この盾はとても堅いので、どんな鋭い矛でも突き通せない」といいました。それを聞いた客のひとりが「それではその矛で、その盾をついたらどうなる?」といわれて、返答に困ってしまったという話からきたものです。

● けりをつける

物事に結末をつける時に使う言葉です。つまり、この「けり」は、短歌や俳句の末尾に「秋は来にけり」「昔なりけり」「紅葉なりけり」などと結ぶことから、すっきり結末をつける意味で用いられるようになりました。

↑このページのトップヘ