児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年09月

今日9月5日は、仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家棟方志功(むなかた しこう)が、1903年に生まれた日です。

棟方志功は、1903年(明治36年)青森市に生まれました。青森には、東北三大祭りのひとつであるねぶたがあります。赤や青、黄など原色でえがいた勇壮な武者人形のなかに明かりを入れて、町じゅうをひっぱりまわす豪快な夏の祭りです。また、冬になると空にうなりをひびかせて大きなたこがあがります。こうしたねぶたやたこの絵が、志功をとりこにし、絵の楽しさを教えてくれました。ですから、志功の絵や版画は、同じように骨太な線と強い色彩でえがかれ、土のかおりのする生命力にあふれています。

青年時代、文学や演劇や詩歌を研究する集まりを作っていた志功は、ある日、友人からゴッホの『ひまわり』の絵を見せられました。その燃えるような色彩をもつ、からだごとぶつけてかいたような絵に、志功は思わずさけびました。

「ようし、おれは、日本のゴッホになるぞ」

こうして、21歳のとき、画家になるため、志功は東京に出てきました。しかし、めざす帝展(今の日展)には、なかなか入選できません。志功は、生活費をかせぐために、看板かき、なっとう売り、靴屋の手伝いなどをしながら、勉強をつづけました。1928年に、やっと帝展に出品した油絵が初入選しました。しかし、生活の苦しさはかわりません。それでも、そのころ、妻になったチヤ子は、志功をはげましました。

「そのうちきっと世界一になるときがくるよ」

1938年、志功は帝展に版画で『善知鳥』という作品を出しました。今年も落選かと思っていると、夜、雨のなかをふたりの友人がかけつけてきました。志功の作品が特選となったのです。志功は大声をあげて踊りまわりました。

志功の作品は、日本だけでなく、ベネチア・ビエンナーレ国際版画大賞などを受け、海外でも高く評価されました。志功が版画を彫るときの姿勢は、板にむしゃぶりついていてまるで板と格闘しているようでした。

「板刀と板木さえ手にしていれば、わたしの生命はあるようです。いや、生命がなくたって、版画は出来つつあるといえます。そうなることが望ましいことであるし、そうこなくてはならないのが版画のようです」

ちっぽけな自己からぬけ出たとき、自然の力は自分を助けて、さらに高く広い心の作品を生み出してくれると、志功は考えていました。1970年、文化勲章を贈られ、1975年9月13日、72歳で亡くなりました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月5日にあった主なできごと」

1905年 セオドア・ルーズベルトアメリカ大統領のあっせんにより、アメリカのポーツマスで、日露戦争のあとしまつをするための講和条約に、日本の全権大使小村寿太郎、ロシアの全権大使ウイッテが調印しました。日本は、樺太の南半分の割譲と朝鮮支配の優越権などは認められましたが、賠償請求は全面的に撤回されました。これに怒り内閣を倒そうとする人たち数万人が、日比谷公園で講和反対集会を開き、暴徒化した市民が内相官邸や交番などを焼き討ちしました。東京は無政府状態となり、翌日政府は戒厳令を敷いて騒動を治めました。

1972年 ドイツ(当時西ドイツ)のミュンヘンで行なわれていた第20回オリンピック夏季大会中、パレスチナ・ゲリラがオリンピック村のイスラエル宿舎を襲い、2名を殺害、9名を人質にとりました。西ドイツ警察は、ゲリラと人質を空軍基地に移して救出作戦を強行したところ、ゲリラがヘリコプター1機を手榴弾で破壊するなどして激しく抵抗したため、銃撃戦は長時間に及び、人質となった9名全員、警察官1名、ゲリラ8名のうち5名が死亡するという事態が発生、「平和なスポーツの祭典」に大きな汚点を残しました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 49]

ある国の王様が、「石をうち殺して、血を流させることができれば、この国第一の若者とする」 というおふれを出しました。国じゅうから若者がやってきましたが、だれもできませんでした。

ある村に、とても賢いと評判の羊飼いの娘がいました。娘はおふれの話を聞くと、若者の姿に変装して、王様に 「挑戦します」 と申し出たのです。このうわさは、たちまち国じゅうに伝わり、たくさんの人が、石をうち殺すのを見物しようと集まってきました。

娘は、小刀をぬくと王様に向かっていいました。「この石をうち殺し、血を流させようと思います。王様、それではどうぞ、石に生命を与えてください。その上で、私が石をうち殺せないようでしたら、私の首をはねてください」

王様は、この言葉にびっくりしていいました。「お前は、この国一番の知恵のある若者じゃ。これからは、貴族にとりたてることにしよう。なお、もしこれからわしの申すことをやってのけたら、家族同様に扱うことにするが、どうじゃ」 「どうぞ、おっしゃて下さい。ぜひ挑戦してみたいと思います」

「3日後に、もう一度わしのところへ来なさい。ただし、その時お前は、何かに乗ってこなくてはいけないし、乗ってきてはいけない。わしに贈り物を持ってこなくてはいけないが、持ってきてもいけない。もう一つ、わしは供を連れてお前を迎えに行くが、お前は迎えてもらわねばならぬが、迎えてもらってもいけない」 と、王様。

約束の3日後、娘は、農夫たちに捕ってきてもらった4ひきのウサギを1ぴきずつ袋に入れ、それぞれ農夫たちに渡して、「私がウサギを放してといったら、放してね」 といいました。それから、2羽のハトを持ち、ヤギの背中にまたがって、お城をめざしました。そして、使者を先にやって、自分が出発したことを王様に知らせておきました。

やがて娘は、王様がたくさんのお供を連れてやってくるのを見つけると、「ウサギを放して」 といいました。ウサギが飛び出したのを見ると、お供の人たちはウサギを追いかけました。娘はヤギの背中にまたがって、ときどき足を地面につけたり、足を高くあげたりしながら王様に近づきます。そして、王様の前まで来ると、2羽のハトを王様にさしだしました。王様が手にしようとした瞬間、ハトはパッと飛び立ってしまいました。

「王様、ご覧いただきました通り、みなさんは私を迎えてくださいましたし、迎えてくださいませんでした。私はヤギに乗ってまいりましたが、乗ってまいりませんでした。王様に贈り物を持ってまいりましたが、持ってまいりませんでした」

王様は、すっかり感心して 「約束通り、今日からお前を息子同様に扱う」 といいました。娘が王様に耳を近づけ 「私は男ではなく、娘です」 とささやくと、奥さんのいない王様は、娘を妻に迎えたいと思いました。

こうして、知恵のおかげで、羊飼いの娘は王妃になったのです。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 86

道で会えば、いつもにっこり笑うようにして「こんにちは」とあいさつする女の子。ある日、その子の母親が、近所のおばあさんと雑談しているのが聞こえてきました。

「お宅のお嬢さん、とってもよくしつけができていますね。いつも感心してるんですよ。秘訣があったら教えてくれません?」

「秘訣なんて、わかりません。ただ、一つだけ守るようにしてることがあります。それは、子どもを必ず一日に3回はほめるようにしてることです。どんな小さなことでも、がんばったわね、よくできたわね、もうそんなことができるの…とか。それも、できるだけ、わーっ、よくやったね。お母さんもうれしいわ、握手しよう、なんて多少オーバー気味にいったりします。昼間、つい、ほめるのを忘れていたときは、夜、まとめて3つ以上ほめるんです。これで、子どもは安らかに眠りについてくれます。もちろん、叱るときは、厳しく叱ります。でも、叱られてふくれるようなことはなくなりました。いつもほめられているから、叱られることも抵抗なく受け入れてくれるのじゃないかしら。ほめる回数がふえれば、叱る回数が少なくなってきてるみたい。ガミガミいわないですめば、親としても気持ちがいいですからね」

この母親は、しつけのことがわからないどころか、一番大切なことがわかっているようです。

「9月3日にあった主なできごと」

1189年 当時奥州・平泉に藤原氏という豪族がいて、清衡、基衡、秀衡が3代100年にわたり強い勢力をほこっていました。源義経が兄頼朝におわれた時に、かくまったのが秀衡です。秀衡は、1187年義経を守るよう遺言して死にましたが、その子泰衡は遺言にそむいて義経を殺しました。しかし、この日頼朝の軍に泰衡は破れ、藤原氏は滅びました。国宝に指定されている中尊寺・金色堂は清衡、基衡、秀衡3代の墓所で、それぞれのミイラが残されています。江戸時代の俳人松尾芭蕉の「夏草や 兵(つわもの)どもの 夢のあと」という有名な句は、平泉周辺を旅したときに創りました。

1858年 6月に日米通商条約に調印した江戸幕府は、オランダ、ロシア、イギリスについで、この日フランスとも通商条約を結びました。

1977年 巨人軍の王貞治(現ソフトバンク監督)が、通産756本のホームランを打ってアメリカ大リーグのハンク・アーロンの755号の記録を破り世界最高記録(大リーグでは参考記録)を更新、2日後に初の国民栄誉賞を受賞しました。なお、現役引退までの王の通算本塁打数は868本。

今日9月2日は、フランスの教育者で、イギリス留学中にスポーツの重要性を認識し、古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシアのアテネで近代オリンピックの開催を実現したクーベルタン男爵が、1937年になくなった日です。

古代ギリシアのオリンピアで、およそ1000年にわたって行なわれた古代オリンピックは、393年の293回を最後にすがたを消してしまいました。それから約1500年ののち、このスポーツの祭典にふたたび火をともしたのがクーベルタンです。

1863年、フランスの貴族の家に生まれたピエール・ド・クーベルタンは、小学校を卒業すると、軍人になるために陸軍幼年学校へすすみました。しかし、戦いで勝っても、ほんとうの平和は生まれないとさとり、15歳のときに退学してしまいました。

「強い心の人間を育てるためには、学校の教育がたいせつだ」

教育者になる道を選んだクーベルタンは、イギリスに留学して、スポーツをたいせつにしている教育に心をひかれました。

「教育に、もっとスポーツをとりいれよう!」

フランスへとんで帰ったクーベルタンは、さっそく、学校の体育を盛んにする活動を始めました。すばらしいニュースを耳にしたのは、このころでした。ギリシアのオリンピアの遺跡が発掘されたというのです。

「そうだ、オリンピックを復興させればよいではないか」

クーベルタンは、まずアメリカやイギリスへ行き、自分の考えを説いてまわりました。そしてフランスへもどると「オリンピック復興についての会議」をパリで開くことに決め、世界の学者や政治家に案内状をだしました。反対したり、じゃまをしたりする人もいましたが、クーベルタンはくじけませんでした。1894年6月23日、みごとに会議は開かれ、12か国から集まった人びと全員の賛成で、オリンピック復興が決まりました。

「スポーツで、世界が1つになる日がくるぞ」

長いあいだ夢に描いていたことが、やっと実現します。31歳のクーベルタンは、からだじゅうが熱くなるような思いでした。第1回の近代オリンピック大会は、1896年、ギリシアのアテネで開かれました。それからは4年に1度ずつ、スポーツを愛する世界の若者が、人種をこえ、国境を越えて技をきそうようになりました。

世界の5つの大陸を結ぶ願いを表わしている5輪の旗は、クーベルタン自身が考えたものです。オリンピックの父とよばれたクーベルタンは、1937年、74歳でスポーツにささげた一生を終えました。
 
「たいせつなのは、勝つことより参加することだ」という言葉を愛したクーベルタンの心臓は、ギリシアのオリンピアの丘の上にうめられ、世界の平和を見守っています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 シーザーの暗殺後、ローマはオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。詳細は 8月12日のブログ を参照ください。

1945年 東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。

1949年 タイから寄贈された象が日本に到着、戦争中に餓死させられた象「花子」の名前を継いで「はな子」と命名されました。はな子は、1950年に始まった上野動物園の「移動動物園」企画で全国や東京都下を巡回しましたが、武蔵野市や三鷹市ではな子の誘致運動が起こり、1954年に上野動物園から井の頭自然文化園に引っ越しました。61歳の今も健在です。

今日9月1日は、フランスブルボン王朝の第3代国王で、「朕は国家なり」(私そのものが国家だ)というほどの権力をふるった、絶対専制君主ルイ14世が、1715年に亡くなった日です。

フランスのブルボン王家では、1643年にルイ13世が亡くなり、子のルイ14世が、わずか5歳で国王の位をつぎました。ルイ14世は、両親の結婚から22年もたって生まれた王子です。即位はしても、実際の政治は、母親のアンヌと宰相のマザランが行ないました。それでもルイ14世は、子ども心に、一国の王として「ぼくは、だれよりも偉い」と信じ、わがままいっぱいに育ちました。やがてルイ14世は、絶対君主の政治をおしすすめ、権力をふるうようになります。

ルイ14世が自分で直接政治にたずさわるようになったのは、マザランが死んだ1661年からです。もう宰相という総理大臣はおかず、国王自らの手で政治を行なっていくことにしました。

「宰相に政治をまかせてはいけない。王自身が国を治めることこそ、神からあたえられた権限だ。私そのものが、国家である」 国土も国民も、自分のものであると23歳の若い王は考えました。最高国務会議も形だけのもので、ルイ14世の一声ですべてが決められました。

祭りの時、王が着る衣装には、太陽がいちめんにデザインされています。喜びを生む太陽、永遠に輝く太陽を、王のシンボルとしたのです。人びとはルイ14世を「太陽王」とよびました。

ルイ14世は、自分と違う考えをもつ政治家や貴族を、どんどん追放しました。それまで、行政官や軍の司令官になるのは、名門の貴族に限っていましたが、これを、金持ちの商工業者から人を採用し、役につかせました。たとえば、国の経済を豊かにするために、コルベールという人を財務長官に任命しました。コルベールは毛織物商人の息子でしたが、王の政策をたくみにとりまとめて大きなはたらきをしました。ヨーロッパで、もっとも強い軍隊をつくった陸軍大臣のルーボアという人も、商人の出身でした。このようにしてルイ14世は、国の政治を改革し、同時に王の権力も強くしていったのです。しかし、絶対王政のゆきすぎは、国民を苦しめました。

そのころ国内に、新教徒がふえてきました。これに対し、旧教の王は、祖父アンリー4世が信仰の自由をみとめたものを廃止して、新教徒の地位や財産をとりあげるなどの迫害をくわえました。このため、数十万人の新教徒たちが、国外に逃げだしたといわれます。ルイ14世が、世界一豪華なベルサイユ宮殿を建てたのは1682年のことです。昼も夜も、音楽やバレーが演じられ、ぜいたくにパーティーをくりひろげている間に、フランスの国力はだんだんおとろえていきました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月1日にあった主なできごと」

1923年 午前11時58分、関東地方一体に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。

1939年 ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。

1960年 前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。

1983年 ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。

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