児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年09月

今日9月12日は、江戸時代の後期に国史や国文学を研究する「和学講談所」を開いて門人を育て、「群書類従」という、わが国有史以来の文献のうち価値ある研究資料3373点を25部門に分類した叢書を著した、盲目の国学者塙保己一(はなわ ほきいち)が、1821年に亡くなった日です。

わが国の盲人は、世の中ではあまり活躍する場が開かれていません。幼少の頃から視力が弱く、5歳のころに失明した塙保己一もまた、琵琶を弾く腕をみがいて音曲のわざで身を立てるか、あんま(マッサージ)などの技術を身につけて生業につく以外にないと、15歳で雨富検校の門人となりました。検校(けんぎょう)というのは、そのころ盲人の最高の官位です。

門人になったはものの保己一は、あんまも音曲などの修行も、どれも上達せず、絶望して自殺しようとしたとさえ伝えられています。でも、師の雨富検校は、保己一をあたたかく思いやり、保己一がやりたい道を選ばせてくれました。そのころの保己一の楽しみは、本を読み聞かせてもらうことでした。近所に住んでいた一人の武士が、保己一の学問好きなことを知って、その願いをかなえてくれたのです。

こうして保己一は、検校らのはげましや、学者として著名な賀茂真淵らに教えを受け、努力に努力を重ねた上で学者になり、今も高く評価されている「群書類従」六百数十冊という驚異的な偉業をなしとげることになりますが、詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「塙保己一」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

「9月12日にあった主なできごと」

1571年 延暦寺の焼き討ち…織田信長は、比叡山延暦寺を攻め、堂塔を焼き払い、僧徒らを皆殺しにしました。領地をめぐる確執から、近江の浅井氏、越前の朝倉氏の軍勢を延暦寺が受け入れたこと、延暦寺が広大な寺領を誇り、大勢の僧兵をかかえて信長に反抗的だったのが原因でした。

1872年 新橋-横浜間に鉄道が開通…新橋と横浜をむすぶ約29kmでわが国初の鉄道が開通、この日明治天皇を乗せた祝賀列車が走りました。翌日から旅客や貨物の輸送がはじまり、これまで1日かかったところを53分に短縮しました。上り下り共毎日8往復、料金は1円42銭5厘、75銭、37銭5厘の3階級でした。

1940年 ラスコーの壁画発見…フランスの子ども4人が遊んでいるうち偶然に発見。洞窟の側面と天井面には、たくさんの馬や山羊、野牛、鹿などの絵があり、旧石器時代後期(1万5000年ほど前)のクロマニョン人によって描かれたものと推定されています。

1960年 浅沼稲次郎暗殺事件…東京・日比谷公会堂で行なわれていた自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会で、演説中の社会党(現社民党)委員長浅沼稲次郎が、17歳の右翼少年に暗殺されました。

今日9月11日は、ソ連の政治家で、資本主義国と平和共存を図ったことで知られているフルシチョフが、1971年に亡くなった日です。フルシチョフは、スターリンの死後、ソ連の最高指導者となり、スターリン批判によって、その独裁と恐怖政治を世界に暴露して世界に衝撃を与えたことも特筆されます。

ニキータ・フルシチョフは、20世紀の、ソ連の政治家です。1894年に、ウクライナの炭鉱労働者の家に生まれ、初等教育を終えると、すぐ、炭鉱や工場ではたらきはじめました。フルシチョフが11歳のときに第1次ロシア革命、23歳のときに第2次ロシア革命(10月革命)がおこり、皇帝が支配した国の政治がくずれて、社会主義のソビエト政府が生まれました。

少年時代から労働者の社会に入ったフルシチョフが、この革命の影響を強くうけたのはとうぜんです。24歳でロシア共産党に入り、はたらきながら政治運動にくわわりました。4年後、28歳になったフルシチョフは、党から、ソビエト労働者学校に学ぶことがゆるされました。また、35歳のときにはモスクワのスターリン記念工業大学に学ぶこともゆるされ、大学卒業後、モスクワ市の党委員会書記に任命されて、政治家への道を歩みはじめました。そして、党の組織をかためる仕事のかたわら、モスクワの地下鉄の建設に力をつくし、地下鉄が完成した1935年にはレーニン勲章をうけました。

フルシチョフが、ソビエト社会主義共和国連邦のなかで大きな力をもつようになったのは、30年にわたって政権をにぎってきたスターリンの時代が、1953年に終わりをつげてからです。

「スターリンの独裁的な政治には、権力のゆきすぎがあった」

まず、スターリンをひはんすることから始めたフルシチョフは、やがて1958年には首相となり、国民の生活を豊かにすることを考えるいっぽう、積極的な外交政治にのりだしました。

「戦争は、さけることができる。われわれは、資本主義の国ぐにと、平和的に競争し、共存していく」

党大会で、このようにさけんだフルシチョフは、1959年にはアメリカのアイゼンハウアー大統領、さらに2年後にはケネディ大統領と会談して、ソ連とアメリカの友好を強めました。ところが、1962年に、カリブ海のキューバにソ連のミサイル基地をつくろうとしたことから、いまにも、アメリカとのあいだに戦争がおこりそうになりました。このときフルシチョフは、キューバの共産政府にアメリカが口だししないことを条件に、ミサイル基地の建設をとりやめて、危機をのりこえました。

しかし、2年後の1964年には、書記と首相の地位を追われてしまいました。資本主義国との共存に目をむけすぎて、中国との仲を悪くしてしまったことや、農業の発展に失敗したことなどが、強いひはんをあびてしまったのです。資本主義国との平和共存。これがフルシチョフの残した最大のものでした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 18巻「毛沢東・ディズニー・ケネディ」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月11日にあった主なできごと」

1900年 初の公衆電話設置…それまでは電話局にのみおかれた公衆電話が、この日東京の新橋駅と上野駅の通路に設置されました。当時は「自働電話」と呼ばれ、交換手を呼びだしてからお金を払って、相手を呼びだしてもらうしくみでした。ちなみに通話時間は5分、料金50銭、東京市内限定だったそうです。

1947年 教科書の検定制度…1886年の「小学校法令」で国定教科書(政府が定めた教科書)が使用されてきましたが、この日教科書検定制度を発表、文部省(現文部科学省)が認めたものだけを教科書に採用することになりました。この検定制度は憲法違反に当たると、家永三郎氏は国を相手に裁判をおこしましたが、32年間にもわたる審議の結果、1997年に敗訴が確定しました。

2001年 同時多発テロ事件…アメリカでハイジャックされた旅客機3機が、ニューヨークの世界貿易センタービル(ツインビルに各1機)とワシントンの国防総省(ペンタゴン)に突入、数千人の死者を出す大惨事となりました。ブッシュアメリカ大統領は、この犯人をウサマ・ビンラディンを首謀者とするイスラムのテロ組織アルカイダと断定し、潜伏するアフガニスタン政府に引渡しを要求。しかし、彼らを保護するタリバン側が拒否したことから、アメリカはアフガニスタンを攻撃しました。

今日9月10日は、黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が1951年に、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞した日です。以来海外では、黒沢明を 「世界のクロサワ」 と呼ぶようになりました。

黒沢明監督の 『羅生門』 が、国際的な映画祭でグランプリ(大賞)を受賞したことで、ヨーロッパの人びとは、日本映画の水準におどろき、これをきっかけとして、欧米でも日本映画が次つぎに上映されるようになりました。こうしたことからも、この受賞は、黒沢ひとりの名誉だけではなく、深い意味をもつものでした。

黒沢明は、1910年(明治43年)東京大森に生まれ、はじめは画家になりたいと考えていましたが、新聞で助監督募集の広告をみて、PCL(今の東宝)に入社しました。7年ほどつづいた助監督の時代に、シナリオ(脚本)をせっせと書いて、早くもすぐれた才能をみせました。監督に昇進しての第1作は 『姿三四郎』 です。ひとりの若者が柔道家として成長していくすがたをえがいたこの作品は、暗い戦時下に生きる人びとに、新鮮な感動をあたえました。

戦後は 『酔いどれ天使』 『野良犬』 『生きる』 などの名作を発表します。これらの映画は、この社会の片すみに生きる人びとに眼をむけたものです。たとえば 『生きる』 の主人公は、書類の山にうずもれて暮らしてきた市役所のひとりの課長です。ある日、課長は、自分ががんであることを知り、今までの自分の人生には、どんな意味があったのかと考えます。そして、さいごの努力を児童公園を作ることにかたむけ、死んでいく物語です。黒沢は、人間はいかに生きるべきかを、作品の中に取りあげたのです。

『七人の侍』 『用心棒』 『隠し砦の三悪人』 など、黒沢の作品には誰にでも楽しめる痛快な時代劇もあります。これらの映画はあまりにもよくできていたので、イタリアやアメリカで西部劇として、もう1度作られたほどでした。

黒沢の映画を作る姿勢のきびしさは有名です。1つのシナリオを作るのにも、数人の脚本家と合宿してアイデアを出し合い、おたがいに妥協せずにつきつめていきます。撮影に入ると、自分の思うとおりの画面のできるまで、何度もねりなおしがおこなわれます。これが、映画に緊張と迫力を生むのです。

黒沢はソ連に行って 『デルス・ウザーラ』 をつくり、モスクワ国際映画祭でグランプリをとりました。1980年には 『影武者』 がカンヌ映画祭でグランプリをとり、1985年フランスとの合作の 『乱』、1990年には 『夢』 を発表しましたが、日本では、名作だという人もあれば、つまらないという人もあって、評価は2分しています。しかし、このことは、それだけ人びとの黒沢明への期待の大きさを語っているともいえるでしょう。

1993年 『まあだだよ』 を発表、次回作に予定していた 『雨あがる』 の脚本執筆中に倒れて、1998年88歳でなくなりました。翌年米週刊誌タイムは 「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」 にクロサワを選びました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月10日にあった主なできごと」

1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。今日の4回目の戦いがもっとも激しいものだったようで、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。

1960年 カラーテレビの本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 87

日本で「教育」というと、教室で黒板を前にした先生が、一段高い教壇に立ってさまざまなことがらを生徒に教え、生徒は先生から教わるという上下関係にあるようです。幼児への家庭教育も同じで、多くの母親は、先生役になって子どもにしつけをする──教える母親、教わる子どもという上下関係にあると思っています。そのためか、知らず知らずのうちに独善的になり、子どもに対して圧制者のようになってしまっている母親をよくみかけます。

いっぽう、イギリスなどヨーロッパの人たちは「教育」のことを、子どもの本来持っている能力を「引き出す」ことだと考えています。英語の「教育」education の語源が、ラテン語の educatio (引き出す) ということだからなのでしょう。そのため、先生と生徒は並列関係にあります。

古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、アテネの街角に立ち、若者にさまざまな質問を投げかけ、若者の信じる考えを正しいものと仮定しながらさらに質問を続け、自分の説の間違いを若者自身に気づかせる教育法をあみだしました。これは「産婆術」ともいわれ、まさに「引き出す」という教育の原点になっているのです。

イタリアの幼児教育者、実践者として有名なモンテッソーリ女史の「子どもは、私たちの先生です」と、幼児からいつも学ぼうとする姿勢が教育理論の根底にあるのも、まさにこのことを意味しているのにちがいありません。

子どもの言葉や行動、心や感情の動きをしっかり把握して、よいところを引き出し伸ばしていく──母子関係を、これまで考えられてきた上下関係から、ほんらいの並列関係に立場を変えて、わが子から学ぼう、よいところを引き出してみようと、肩の力をぬいて、日々子どもと接していきたいものです。

今日9月8日は、「スラブ舞曲」や「新世界より」などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが、1841年に生まれた日です。日本人によく親しまれている「家路」(♪ 遠き山に日は落ちて・・・)は、交響曲第9番「新世界より」に出てくるフレーズです。

チェコ西部に生まれ、町から町へさまよい歩くジプシーたちの音楽を耳にしながら育ったアントニン・ドボルザークは、幼いころから、心に音楽の火をともして成長しました。

ところが、12歳になったとき、父に「家にはお金がない」とさとされ、肉屋へ、はたらきにだされてしまいました。でも、夢を捨てきれないドボルザークは、父にかくれて音楽を学び、16歳でプラハのオルガン学校へ入って苦学をつづけました。そして卒業ごは、昼は音楽の家庭教師、夜はホテルの楽団員をして、音楽家への道をあゆみはじめました。また、21歳から12年間は、プラハの国民劇場管弦楽団のビオラ奏者をつとめながら、作曲にもはげみました。

「わたしは、チェコ人だ。チェコ民族の音楽を作ろう」

このころのチェコは、オーストリアに支配されていましたが、ドボルザークは祖国愛にもえて、作曲にとりくみました。34歳のときに、幸運がおとずれました。オーストリア政府から、すぐれた芸術家として奨学金が支給されるようになり、そのうえ、祖国の美しさと人びとのやさしさをたたえた『スラブ舞曲』が、ドイツの大作曲家ブラームスにみとめられたのです。また、ブラームスの協力で『スラブ舞曲』などの楽譜が出版され、作曲家ドボルザークの名は、ヨーロッパじゅうに広まりました。

50歳でプラハ音楽院の教授にむかえられ、さらにつぎの年にはニューヨークの音楽学院に院長としてまねかれ、アメリカへ渡りました。交響曲『新世界より』、弦楽4重奏曲『アメリカ』などを作曲したのは、このときです。

「人間の愛と、ふるさとへの思いにみちあふれた美しい曲だ」

『新世界より』が演奏された日のカーネギー・ホールは、超満員の人であふれ、われるような拍手がなりやみませんでした。しかし、祖国の自然が恋しくてしかたがないドボルザークは、わずか3年でアメリカをはなれ、プラハへ帰りました。そして、おおくの協奏曲、交響曲、歌劇を生み、プラハ音楽院院長やオーストリア上院議員をつとめ、63歳で世を去りました。

ドボルザークは、蒸気機関車が大すきでした。幼いときから、黒い鉄のかたまりの力強さともの悲しさに心をひかれ、60歳ちかくになっても、散歩のときには機関庫へ立ち寄って、ひとり静かに機関車をながめていたということです。ドボルザークは、祖国を愛しつづけた心のやさしい音楽家でした。そのやさしさが、チェコ国民音楽のきそをきずきました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 12巻「ファーブル・トルストイ・ロダン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月8日にあった主なできごと」

1868年 年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は1天皇は1年号とする「一世一元の制」を定めました。

1951年 第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使吉田茂首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印し、6年8か月にわたる占領が終わり、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになります。

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