児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年09月

「読み聞かせ」のすすめ 5

母から子への読み聞かせ──心さえこもっていれば、じょうず、へたを気にすることはありません。10回も続けるうちに、その人なりの、その人らしい読み聞かせの型ができてくるものです。

でも、ひとつだけ大切にしたいことがあります。それは間(ま)です。正確にゆっくり読み進めながら、じゅうぶんに間をとっていくことです。ひとつの文がマルで終わったあとの間、それは話に聞き入る子どもの心を落ち着かせます。物語が事件に入るときの間、話が山場にさしかかったときの間、それは、次はどうなるのだろうという話の展開に期待する子どもの心の高まりを、さらに高めます。

つまり、間は、子どもの集中力を高め、子どもを物語の中へより深く引きこむのに欠かせません。

話の中の「すると…」「ところが・・・」などのところでは、わざと5秒くらいの間をおいて、子どもの目をじっとみつめます。この時の母親と子どもの心の通いあいの深さ、確かさ…、それはまちがいなく一つになっています。

また、この間は、読み手にとってもたいせつです。間をとることによって心を落ち着かせ、間をとってるあいだに、子どもの反応、子どもの心の高まりを確かめ、味わい深く読み進めることができるからです。

今日9月29日は、大政奉還を行い、250年にもおよぶ江戸幕府の幕を閉じた15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が、1837年に生まれた日です。

15代将軍徳川慶喜は、長州藩の木戸孝允に「家康の再来を見る思い」といわせ、だからこそ幕府の体制がととのう前に早く倒さねばならないと考えさせたほど、頭のきれる人物でした。将軍慶喜の出現がもう少し早かったら、歴史は大きく変わっただろうといわれています。

慶喜は、1837年水戸藩(茨城県)主徳川斉昭の7男に生まれました。幼い時からすぐれた才知のある人と評判高く、10歳のときに一橋家を継いだのも、将軍となるためには幕府と血のつながりが遠い水戸家より一橋家のほうがよいと、周囲が考えたからでした。慶喜はそのころから将軍候補だったのです。

慶喜が20歳になったころ、慶喜は越前藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬らに推せんされて14代将軍の候補に立てられていました。ところが、当時の大老井伊直弼らのグループに反対されて実現せず、慶喜は政界から追い出されてしまいました。

1860年、井伊直弼が暗殺されると、やがて14代将軍家茂(いえもち)の後見職にかえりざいて、朝廷と幕府のつながりを強くすることに力をつくしました。そして、1866年、病死した家茂にかわって慶喜が15代将軍職につきました。

慶喜はさっそく、徹底した幕府改革をおこない、幕府の力で諸藩をおさえこもうと必死の努力をしました。まず、老中会議の体制をあらため、海軍、陸軍、会計、国内事務、外国事務の総裁をおいて、内閣に近い政治体制をつくりました。兵制改革では、フランスから軍事教官をまねいて近代的な軍事訓練をさせました。また、これまでの例を破って、人材を登用し、経費の節約、儀礼の簡略につとめました。その他、税制の改定、留学生を海外へ送り、フランスから経済援助を受けてそのみかえりにフランス商社を設立、製鉄所建設までおしすすめたのです。

しかし、世の中の情勢は慶喜に味方してくれませんでした。開国をせまる諸外国との交渉、薩摩と長州を中心とする討幕派の強硬な動きに、慶喜は1867年土佐藩主山内豊信の進言により、政権を朝廷にかえしました。こうして江戸幕府はおわりましたが、慶喜は諸藩が連合する新政権をつくろうとしました。しかし「鳥羽伏見の戦い」にやぶれて江戸城にひきあげ、そして強硬な抗戦をさけ、上野の寺院に入って謹慎しました。こうして、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟のはたらきで、江戸城は血を流すことなく開城されたのです。そのご慶喜は、水戸に移り、ついで静岡に移動して、76歳まで生きました。1902年には、維新に功績があったとして公爵の位がさずけられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)31巻「福沢諭吉・坂本龍馬・板垣退助」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月29日にあった主なできごと」

1872年 ガス灯の点灯…ガス灯が横浜の大江橋(桜木町駅近くの橋)から馬車道、本町通あたりに10数基設置されました。「あんどん」という油の中に灯心を入れたものしか見たことがなかった人々にとって、あまりの明るさに「あれはキリシタンの魔法だ」「近寄るな、すいこむと死んでしまうぞ」「外国人が横浜を火の海にする気だ」など大騒ぎしたと伝えられています。

1918年 原内閣成立…日本で初めての本格的な政党として原敬(たかし)内閣が成立しました。初めて爵位をもたない平民宰相として人々の期待を集めましたが、普通選挙制に反対したり、大正デモクラシーを弾圧するなど国民の期待を裏切る結果になり、3年後に原は18歳の少年に暗殺されてしまいました。政党内閣はその後1932年の犬養内閣までつづきましたが、やがて軍閥・右翼勢力にとってかわられました。

1972年 日中共同声明の調印…田中角栄首相と中国周恩来首相は、北京で日中共同声明を発表し、日本と中国の国交正常化の調印を行ないました。この調印によって、両国間の国交が正常化され、1978年には日中平和友好条約が結ばれることになります。 

今日9月26日は、「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲(やくも)が、1904年に亡くなった日です。

目が見えない芳一は、毎晩、ふしぎな屋敷にまねかれて、琵琶をひきながら平家物語を語って聞かせました。語りが進むと、いつも、武士たちのすすり泣きの声が聞こえてきました。ところが、屋敷だと思っていたのは、人ひとりいない墓場でした。芳一は、壇ノ浦の戦いでほろびた平家の武士たちの亡霊によびだされていたのです。これを知った芳一は、からだじゅうに魔よけのお経を書いてもらって、寺にとじこもっていました。しかし、その夜、芳一の耳は寺へやってきた亡霊にひきちぎられてしまいました。耳にだけ、お経を書いてもらうのを忘れていたからです。

これは、小泉八雲が書いた 『耳なし芳一』 という怪談です。

八雲は、本名を、ラフカディオ・ハーンといいました。1850年にギリシアで生まれ、父はイギリス人、母はギリシア人でした。でも、まもなく両親が離婚してしまったため、ハーンはみなし子のようになり、父の叔母にひきとられました。そのうえ、15歳をすぎたころ、その叔母の破産と、父の死にあい、卒業まぢかの学校もやめなければなりませんでした。

ハーンは、19歳のとき、ひとりでアメリカへ渡りました。そして、やがて新聞記者として活やくするうちに東洋へ心ひかれるようになり、1890年に、日本の旅行記を書くために横浜へやってきました。2か月の予定でした。ところが、日本がすっかり好きになり、日本に住みつくことを決心しました。

日本人の心も、日本の景色も愛してしまったハーンは、松江中学校の英語の教師になり、日本女性の小泉節と結婚しました。そして、そのご熊本の第五高等学校の教師、「神戸クロニクル社」の記者、東京帝国大学の講師をつとめながら、日本の研究を深めていきました。小泉八雲と名のって日本へ帰化し、ついに日本人になってしまったのは、45歳のときでした。

八雲は、日本人のものの考え方や、日本の文化を心から理解しようとしました。とくに、明治の文明開化の時代に入るまえの、古い日本を深く見つめ 『東の国から』 『心』 『霊の日本』 『日本お伽噺』 『怪談』 など、たくさんの本を著わしました。

『怪談』 は、1904年に、まずアメリカで出版され、日本ではのちに 『小泉八雲全集』 におさめられて、怪談の名作とたたえられるようになったのです。

日本人よりも、もっと日本を愛した八雲は、早稲田大学の教壇にも立ったのち、1904年に54歳で亡くなりました。八雲の作品は、いまも、おおくの日本人に読みつがれています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。なお、小泉八雲の原作をもとにした 「みみなしほういち」 「ゆきおんな」 は、いずみ書房ホームページ・オンラインブック「せかい童話図書館」40巻の1冊として公開しています。

「9月26日にあった主なできごと」

1954年 青函連絡船・洞爺丸沈没…乗客乗員1324人をのせた青函連絡船「洞爺丸」は、台風15号の強風を受けて函館港近くで座礁、転覆しました。1150名もの犠牲者を出し、これは1912年の北大西洋でおきた「タイタニック号」(犠牲者1500人以上)、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号」(犠牲者1450人以上)の事故に次ぎ、戦争をのぞくと世界海難史上3番目の規模でした。

1959年 伊勢湾台風上陸…台風15号(伊勢湾台風)が紀伊半島に上陸し、近畿・東海・北陸地方を最大風速50mもの暴風雨に巻きこんだ上、37都道府県に被害をもたらし、死者5000名以上という史上最悪の災害となりました。

1978年 日本語ワープロ登場…東芝が、世界初の日本語ワープロ(JW-10)を発売すると発表。価格は630万円、翌年2月から出荷されました。

「読み聞かせ」 のすすめ 4

読み聞かせる本──読み聞かせが成功するかどうか、それは本の選び方にかかっているといってもよいでしょう。

まず第1は、おとなの目で選ぶのではなく、聞き手の子どもを大切にしたいものです。せっかく高い本を買ってきて読み聞かせるのだから、少しでも内容の濃い、少しでも多く子どもが学びとってくれるものをなんて考えて選んだ本は、きまって、子どもはおもしろくないと思ってしまうもの、読み聞かせをはじめたばかりの子どもには、とくにそうです。

ふだんの生活の中で、いつもそっと子どもを見つめ、語りあい、今この子の心のなかでどんなことを求めているのか、どんなことに心をふるわせるかを思いやり、それにあわせて選ぶことができれば理想的です。

わが子が 「のらねこ、かわいそうね」 といったのを思い出して、『ちいさいねこ』 『11ぴきのねこ』 を読み聞かせ、子どもをいっぺんに絵本好きにしたという話や、電車のおもちゃに夢中になっている子に、『きかんしゃやえもん』 を読み聞かせて大成功したという例もあります。

子どもを育てることはすべてそうですが、本の読み聞かせも、わが子の心にあたたかく寄りそうことが大切ですね。

今日9月24日は、正直、倹約、堪忍という徳目をわかりやすく示し、町人の道を教える 「心学」 をはじめて説いた江戸時代中期の学者 石田梅岩(ばいがん)が、1744年に亡くなった日です。

1685年、丹波国(京都府)の農家に生まれた梅岩は、10歳のとき京都の商家に奉公にだされ、一時は、奉公先がおちぶれて帰郷しましたが、22歳の年に、ふたたび京へでて呉服商にやとわれました。

そのころ、京都や大坂(大阪)では、幕府がおかれている江戸とともに商業が活発になり、商人を中心にした町人社会が栄えはじめていました。しかし、幕府が定めた士農工商の身分制度によって、工・商にたずさわる町人は、農民と同じように、武士にくらべると、すべてのことに差別されていました。

梅岩は、商売のかたわら、神道、儒教、仏教などを自分の力で学んでいきました。町人への差別を不満に思い、人間が人間らしく、町人が町人らしく生きる道を求めたからです。35、6歳ころからは、人の道を説く儒者たちの教えにも耳をかたむけ、自分の考えを深めていきました。

ある日、梅岩は家の前に張り紙をだしました。

「学問のすきな人は、だれでも遠慮なく、わたしの話をききに、おいでください。お金はいりません」

人間のほんとうの心のあり方をさぐりあてた梅岩は、それを世の中に広める決心をしたのです。

「町人として、りっぱに生きていくためには、正直、倹約、堪忍の3つを、心がけなければいけません……」

むずかしい学問を説くのではありません。梅岩の口からもれるのは、どんな人の心にもしみ入る、やさしい教えでした。梅岩が語るだけではなく、考えることの大切さをさとらせるために、町人どうしで話しあいもさせました。また、人の生き方を説きながら、商人として守らなければならないことも教えました。梅岩は、もうけさえすればよいという商人の考えには、反対だったからです。このほか、養父養子の義理や財産相続の問題など、町人の日常の生活に必要なことも教えました。

44歳のときには『都鄙(とひ)問答』4巻を著わして、それまで説いてきたことを世にだしました。また、手島堵庵(とあん)をはじめおおくの門人を育て、それぞれ道場を開かせて、さらに全国各地へ教えを広めさせました。のちに道場は200あまりを数えるほどになったということです。

梅岩は、59歳で、心学にささげた一生を終えました。町人のなかから芽ばえた学問が、これほど広く人びとに受け入れられたことは、かつてなかったことでした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 28巻「塙保己一・良寛・葛飾北斎」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月24日にあった主なできごと」

1877年 西郷隆盛「西南戦争」に敗れて自殺…木戸孝允と大久保利通とともに倒幕・維新に尽力した「維新の三傑」の一人とうたわれた西郷隆盛は、士族(もと武士)たちの不満を解消させるために征韓論を主張しましたが、木戸、大久保らに反対されたため、明治政府の要職をすてて郷里鹿児島へかえりました。私塾を開いているうち、やがて下級士族たちにかつがれて8か月にわたる西南戦争をおこしました。西郷軍は政府軍と奮闘しましたが、最新式武装をした政府軍の力に及ばす、最期をさとった西郷は、たてこもった城山で、腹心に介錯を頼み自刃しました。なお、西郷隆盛の詳しい生涯につきましては、いずみ書房ホームページで公開している・オンラインブック「せかい伝記図書館」の「西郷隆盛」をご覧ください。

1965年 みどりの窓口開設…国鉄(いまのJR)は、コンピューターを使った指定券発売の窓口「みどりの窓口」を全国152の主要駅と日本交通公社(現・JTB)の83営業所に設置しました。これにより、長い時間待たされたり、ダブルブッキングがほとんど解消されました。

↑このページのトップヘ