児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年08月

今日8月5日は、マルクスとともに「共産党宣言」「資本論」などを著したエンゲルスが、1895年に亡くなった日です。

カール・マルクス(1818-1883)も、フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)も、美しいライン川の流れるドイツのライン州で生まれました。マルクスは、大学で法律や哲学や歴史を学びました。エンゲルスは、16歳で学校をやめ、自分の力で、哲学や政治学の勉強をつづけていました。そのふたりが、初めて固く手をにぎりあったのは、1844年のことです。

「労働者がしあわせになれる社会主義の社会をうちたてるためには、金持ちの資本家が会社や工場をにぎり、労働者はその資本家に使われるだけの社会のしくみを、改めなければだめだ」

ふたりは、すべての人間が平等に暮らすことのできる社会主義についての考えが、まったく同じだったのです。マルクスは26歳、エンゲルスは24歳でした。

労働者たちが人間平等の社会をきずこうとする、共産主義者の集まりに加わっていたふたりは、共産主義の正しい考えをひろめるために、1848年『共産党宣言』を書きあげました。ところが「万国の労働者よ、団結せよ」とうったえた宣言は資本家たちをおこらせ、ふたりは、どこの国へ行っても追われるようになってしまいました。

ふたりはイギリスへ渡り、マルクスは、資本家と労働者の差別のない社会をつくるための経済学の研究を始めました。いっぽうエンゲルスは、会社ではたらいて、マルクスに生活費を送りつづけながら、研究に協力しました。

マルクスは、それからおよそ10年、雨の日も風の日も大英博物館にかよいつづけて、研究に研究をかさねました。しかし生活は苦しく、食べるのにもことかき、ついに、3人の子どもを次つぎと失ってしまいました。

41歳のときマルクスは、研究の成果を『経済学批判』という本にまとめて発表しました。そして、さらに8年ごに、『資本論』第1巻をまとめて出版しました。でも、はげしい研究と貧しさのためにからだをいため、1883年2巻目の『資本論』を書きかけたまま、64歳の生涯を終わりました。

残された『資本論』は、そののちりっぱに出版されました。

「死んだ友人のためにしてやれることは、これしかない」

エンゲルスが、マルクスの遺志をひきつぎ、10年の歳月をかけて完成させたのです。

エンゲルスは、『資本論』をまとめたつぎの年にガンでたおれました。『資本論』1-3巻はこうして世に残り、社会・共産主義国家の建設に、大きな影響をあたえました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 10巻「リンカーン・ダーウィン・リビングストン」の後半に収録されている7編の「小伝」のうち「マルクスとエンゲルス」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日8月4日は、幕末期の長州藩士で、明治維新前後に活躍する多くの人材を育てた「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を主宰した吉田松蔭(しょういん)が、1830年に生まれた日です。

幕末の動乱期には、大勢の志士が活躍しましたが、なかでも松蔭はすぐれた学者として、政治の指導者として、また高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、井上馨、山県有朋、伊藤博文らを育てた教育者として、その名は歴史に深くきざまれています。

1830年、長州藩の下級武士の次男に生まれた松蔭は、4歳のとき、山鹿流の兵学をつたえる吉田賢良の養子になりました。まもなく賢良が急死したため、松蔭は吉田家の学問を受けつぐ使命をおわされました。さっそくおじの玉木文之進から学問をきびしくたたきこまれました。猛れつなつめこみ教育でしたが、松蔭はこれにこたえ、9歳のころには神童ぶりがうわさされるようになりました。10歳のとき、うわさを聞いた藩主毛利敬親の前で『武教全書』を講義したと伝えられています。

頭がよいうえに、努力をおしまなかった松蔭は、18歳で藩校明倫館の師範になりました。1850年、世界の大勢に目をそそぐ必要を感じて長崎に遊学し、ひきつづきよく年には江戸に出て佐久間象山らに学びました。

「山鹿流の兵学はもう古い。西洋学を学ばなくては遅れるよ」

象山にこう説かれて松蔭は苦しみました。そして、藩のゆるしを受けずに、東北をめぐる旅で苦しみをまぎらそうとしました。しかし、旅から江戸に帰ると、藩から帰国を命じられました。脱藩の罪に問われ、禄をうばわれて師範の役目もとりあげられたのです。なんとか10年間の諸国留学のゆるしを受けた松蔭は、1853年ふたたび江戸に出て、象山から洋学を学びました。

世の中はちょうど、ペリーの艦隊が浦賀(神奈川県)にきて、大さわぎしているときでした。アメリカの軍艦を見た松蔭は、西洋人の文明がたいへん進んでいるのにおどろきました。そしてついに、象山のすすめもあって、海外渡航を決意するのです。たまたま長崎に入港したロシア軍艦にのりこもうとしましたがまにあわず、1854年、ふたたび来航したペリーの軍艦に命がけで近づきました。しかし、必死のたのみも受け入れてもらえず、おいかえされて、松蔭は長州藩の獄につながれることになりました。でも、牢のなかでは、勉強する機会を天が与えてくれたと読書にふけり、世をすねた囚人たちに学問を教えました。そんな態度がりっぱだったため、藩は松蔭を牢から出しました。

しかし、塾がひらかれたのは、1859年に松蔭をはじめ数おおくの志士たちが死刑となる「安政の大獄」までの、わずか2年半の間だけでした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 31巻「福沢諭吉・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。
 

今日8月3日は、国際連盟事務局次長などを通じ、日本の国際的な発展に寄与した教育者 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)が、1862年に生まれた日です。なお、以前の5000円札(現在は樋口一葉)は、新渡戸稲造の肖像画でした。

「もし天が許せば、太平洋の橋になりたい」

新渡戸稲造は、東京大学に学んでいたころ、このように語っています。日本と外国との交わりを進めて、世界における日本の地位の向上に役だつことを、心にちかったのです。

明治時代が始まる5年まえに、盛岡藩士の家に生まれた稲造は、15歳のときに、札幌農学校(いまの北海道大学)へ入学しました。この学校をつくるために招かれていたクラーク博士が、キリスト教の精神と「少年よ大志を抱け」という言葉を残してアメリカへ去った、すぐあとのことです。同期生の内村鑑三らと洗礼を受け、クリスチャンとして生きるようになりました。

農学校を終え、さらに東京大学で勉強をつづけた稲造は、22歳のとき「太平洋の橋」になる夢を心にひめてアメリカへ渡り、経済や歴史や文学を学びました。また、そのあとつづいてドイツへも留学して、農業に関する政治や統計学を研究し、28歳で帰国すると、札幌農学校の教授にむかえられました。

「太平洋の橋」の夢をまずひとつ果たしたのは、そのご、アメリカで静養していた37歳の年の『武士道』の出版です。日本人の心や道徳についての考えを英文で伝えると、おおくの外国人に、日本への目を開かせました。

1901年、稲造は、日本の植民地となっていた台湾へ渡り、総督府の殖産技師の任につきました。そして、植民地を力で支配するのではなく、人びとに新しい文化を伝えるという大きな心で、熱帯地産業の発展に力をつくしました。稲造の心には、すべての人間への愛が、あふれていたのではないでしょうか。

やがて日本へ帰った稲造は、こんどは、京都帝国大学(京都大学)の教授にむかえられました。また44歳の年から7年間は東京帝国大学(東京大学)の教授をかねながら、第一高等学校の校長をつとめました。のちには東京女子大学の学長もつとめています。大学教育にたずさわっているあいだ、いろいろな雑誌にやさしい論文を発表して、はたらく青年や、婦人たちにも、自己の人格をみがかなければいけないことを、よびかけています。日本人のかがやかしい将来を、期待していたのでしょう。

稲造は、60歳ちかくなってから 「太平洋の橋」 の願いを、大きく果たしました。およそ7年にわたって国際連盟事務局事務次長として世界の舞台に生き、また、太平洋問題調査会の理事長として世界の平和に心をかたむけ、そのあいだに、日本の国際的な発展に命をもやしたのです。太平洋問題会議にでかけたとき、太平洋のむこうのカナダで1933年、71歳の生涯を終えました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日8月2日は、聾唖(ろうあ)者の発音矯正などの仕事を通じて音声研究を深めているうちに、磁石式の電話機を発明したベルが、1922年に亡くなった日です。

1876年3月10日、自分と助手が3階と地下室にわかれ、その間に電線を引いて電話実験の準備をしていたベルは、薬品のかんをひっくり返して、思わず大きな声をだしました。

「ワトソンくん、すぐきてくれたまえ」

ベルは、助手のワトソンが自分の部屋にはいないことを、つい忘れていました。ところが、まもなくワトソンが「聞こえた、聞こえた、聞こえた」と叫びながら、3階へ、かけのぼってきました。受話器をあてていたワトソンの耳に、ベルの声がつたわってきたのです。

「ついにやった、電話機の発明に成功したんだ」

ふたりは、だきあい、とびあがってよろこびました。

アレクサンダー・グレアム・ベルは、1847年に、イギリス北部のエジンバラで生まれました。父は、口や耳が不自由な人たちの会話を研究する学者でした。

ベルも、父の仕事のえいきょうを受けて、少年時代から話すこと聞くことに興味をもち、犬にことばを教えてとくいになったこともありました。大学では、音声について学びました。そして、卒業ごはアメリカへ渡り、耳の聞こえない子や口のきけない子に、話のしかたを教えるようになりました。

仕事のかたわら、電信の研究にもとりくんでいました。そして、あるとき、電磁石を使って声を電気で送ることを思いつき、電話の研究を始めたのです。数えきれないほどの失敗をのりこえて、助手のワトソンに「聞こえた」と叫ばせたのは、研究を始めて5年めのことでした。

さて、その年にフィラデルフィア市で開かれた大博覧会でのことです。博覧会を見にきていたブラジルの皇帝が、おかしな機械の前で、気味悪そうにつぶやきました。

「これはふしぎだ、機械がものをいう」

ベルが、すこしはなれたところから、送話器に「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と有名な『ハムレット』のなかのことばをしゃべったのです。

ものをいう機械は、最高の賞をもらい、電話が発明されたというニュースは、またたくまに世界じゅうに広まりました。

そのごのベルは、ベル電話会社をつくって電話事業の発展に力をつくし、エジソンが発明した蓄音機の改良なども手がけて1922年、75歳の生涯を閉じました。大発明家、大事業家とたたえられるようになっても、口や耳の不自由な人たちのことを忘れないあたたかい心を、死ぬまでもちつづけました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 12巻「ファーブル・トルストイ・ロダン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日8月1日は、「雨にも負けず」 などの詩や 「風の又三郎」 「銀河鉄道の夜」 「セロ弾きのゴーシュ」 などの童話の作者として有名な宮沢賢治」が、1896年に生まれた日です。

「注文の多い料理店」 も、賢治の童話の一つで、次のような内容です。二人の紳士が猟にでました。でも、1匹も獲物がとれないので、山を下りようとしたところ、「山猫軒」というレストランがあるので、のぞいてみることにしました。すると、「当店は注文の多い料理店です」とガラス戸に書いてあります。中に入ってみると、いくつも扉があって、そこには必ず何かが書いてあります。「鉄砲と弾丸をここにおいて」とか「帽子と外套と靴をぬいで」とか「クリームを顔や手足にぬって」とあり、二人は勝手な想像をしながら、扉を開けてみました。そのうち「壷の中の塩を飲むように」というところで、二人の紳士は震えだしました。食べにきたのでなく、食べられにきたことに気がついたからです。逃げようとしても扉は開きません。

奥の方にはまだ一枚扉があって、大きなかぎ穴が二つつき、銀いろのホークとナイフの形が切りだしてあって、
「いや、わざわざご苦労です。大へん結構にできました。さあさあおなかにおはいりください。」
と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきょろきょろ二つの青い眼玉(めだま)がこっちをのぞいています。
「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
 ふたりは泣き出しました。

その時、ふいに2匹の犬が飛びこんできて、むこうで「にゃーお」という悲鳴が聞えました。犬が山猫を追い出してくれたのでしょうか。こうして、二人は犬を連れた本物の猟師に助け出されたのでした。

賢治は、こんな童話を100編以上も残しましたが、生前は文壇と接触する機会がほとんどなかったため、人々に知られることはありませんでした。37歳の若さで亡くなった後、詩人の高村光太郎や草野心平、哲学者の谷川徹三らに注目されてから、広く世に知られるようになり、その真価が認められるようになったのです。

賢治の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「宮沢賢治」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

また、賢治の作品のほとんどは「青空文庫」で読むことができます。

↑このページのトップヘ