児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年08月

今日8月12日は、古代エジプト・プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラが、紀元前30年に毒蛇に身をかませて亡くなったといわれる日です。

エジプトの女王クレオパトラは、その美しさで世界の人びとに知られていますが、外国語にもくわしい、教養のある女性でした。プトレマイオス王家をまもるために、ローマの武将とかかわり、最後には、自殺をするというめまぐるしい人生を送りました。

クレオパトラは、プトレマイオス12世の王女として生まれ、父がなくなった17歳のとき、弟とともに王位をつぎました。王家のしきたりにより弟プトレマイオス13世と結婚し、いっしょに国をおさめることになったのです。でも、二人はなかたがいをし、クレオパトラは弟に宮廷を追い出されてしまいました。クレオパトラが20歳の年、ローマ軍をひきいたシーザーが、エジプトへやってきました。クレオパトラはシーザーの力をかりて、弟の軍をやぶり、王位をとりもどしました。

クレオパトラとシーザーは愛しあい、男の子をもうけました。クレオパトラ親子は、ローマで2年ちかく住みましたが、シーザーが暗殺されてしまったので、エジプトへ帰ってきました。

シーザーが死んだのち、ローマで権力者になったアントニウスは、資金をえようとしてエジプトの財産に目をつけてクレオパトラに近づきました。クレオパトラも、王家を建てなおそうと考えていましたので、アントニウスと手をむすびました。そして、エジプトにとどまったアントニウスは、クレオパトラと結婚しました。ローマのもう一人の権力者オクタウィアヌスは、シーザーの養子で、アントニウスに捨てられた妻の弟です。アントニウスのふるまいに腹をたてたオクタウィアヌスは、ローマ軍をひきいて、戦いをいどみました。紀元前31年、オクタウィアヌスの艦隊は、アクチウムの海戦で、クレオパトラとアントニウスの艦隊をうちやぶりました。

クレオパトラとアントニウスは、エジプトの都アレクサンドリアに逃げもどりました。それを追ってオクタウィアヌス軍はアレクサンドリアに攻めこみ、都を占領して、城をとりかこみました。もうこれまでと、アントニウスは自殺してしまいます。追いつめられたクレオパトラは、オクタウィアヌスを誘惑しようとしたり、エジプトとローマは、兄弟国としてまじわるべきであると説いたり、いろいろないいつたえがあります。しかし、オクタウィアヌスは、女王クレオパトラにたいしてつめたかったようです。クレオパトラは、毒ヘビに胸をかませて自殺しました。300年つづいたプトレマイオス王朝はほろび、エジプトはローマに支配されました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 2巻「アレクサンドロス・シーザー・イエスキリスト」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

「8月12日にあった主なできごと」

紀元前490年 ギリシアのマラトン(英語読みマラソン)で、1万人のギリシア軍と10万人のペルシア軍が戦いギリシアが勝利をおさめました。戦いに勝ったことを知らせるために、ギリシア兵のフェイディピデスが首都アテネまでの42,195mを休まずに走り続け「わが軍勝利」といって死んでしまいました。この逸話を記念して、1904年の第1回近代オリンピックから、マラソン競技としてとり入れられました。

1893年 「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の太平洋横断に成功しました。

1985年 日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。「上を向いて歩こう」を歌い世界的ヒットをさせた歌手坂本九もこの犠牲者の一人。

今日8月11日は、鋼鉄で利益をあげた大実業家であり、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家カーネギーが、1919年に亡くなった日です。

19世紀にアメリカの鉄鋼王といわれたアンドルー・カーネギーは、1835年に、イギリス北部のスコットランドで生まれました。家は貧しく、父は、手織物の職人でした。

カーネギーが13歳になったとき、家族は、大西洋を越えてアメリカへ渡りました。人間の手のかわりに蒸気の力で動かす機械が発明されて、産業革命とよばれた時代が進み、父の手織りの仕事がなくなってしまったからです。

「少しでも、かあさんを、らくにしてあげよう」

心のやさしいカーネギーは、母を助けるために、ぼうせき工場の糸巻きやかまたき、電信会社の電報はいたつ係や電信技術者などをして、大人にまじってはたらきました。

学校へは行けませんでした。でも、図書館の本で勉強をつづけ、歴史も文学も科学も、自分の力だけで学びました。

17歳で父が亡くなると、つぎの年にはペンシルバニア鉄道会社へ入り、1861年に、黒人どれいの解放をめぐって南北戦争が起こったときには、26歳の若さで北軍の軍用鉄道と電信の総かんとく官をつとめるほどになっていました。

1865年までつづいた南北戦争で、鉄道が破かいされるのを見たカーネギーは、大きな決心をしました。

「これからは鉄道がもっとたいせつになる。それには質のよい鉄が必要だ。よし、自分で、鉄道と製鉄の会社をおこそう」

そのごのカーネギーは、鉄橋会社、機関車製作所、製鉄所などを次つぎにつくり、やがて、イギリスで新しく開発された製鋼法をとり入れて鉄鋼業一本にとりくみました。そして、さらに鉄鉱山も手に入れ、45歳をすぎたころには、アメリカの鉄鋼の半分以上を生産する力をそなえて、ついに鉄鋼王とたたえられるようになりました。

ところが、1901年、66歳のカーネギーは、すべての事業の権利を売りはらって、鉄鋼の業界からしりぞきました。大きな競争相手が現われ、経営がむずかしくなったからです。

「鉄でもうけたお金で、社会事業に力をつくそう」

カーネギーは鉄鋼王から社会事業家へ身をかえ、もういちど大きな人生を歩み始めました。公共図書館や大学の建設、教育や科学の発展を推進するための財団の設立、国際平和運動を進めるための援助、ニューヨークの音楽会場カーネギー・ホールの完成など、その社会事業は数えきれません。

金持ちは富を世のために使う義務があると考え、それを実行したカーネギーは、鉄鋼王である以上に偉大な人間でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 12巻「ファーブル・トルストイ・ロダン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日8月8日は、水墨画の大成者として知られる室町時代の画僧 雪舟(せっしゅう)が、1506年に亡くなった日です。

水墨画というのは、色をいっさい使わずに墨の濃淡で表現する手法でありながら、あっさりした中にも力強く風景をえがくことが可能です。雪舟が日本の風景をえがくまでは、ほとんど中国の風景でした。それを、日本人の心情にマッチした水墨画をえがいたところに、雪舟の真骨頂があります。

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国宝になっている「山水長巻」(毛利博物館)と一般によばれているこの図巻は、雪舟の代表作として知られています。春から始まり冬で終わる四季の山水の変化を、長さ16mにも及ぶ長巻の上に、ドラマチックにえがかれているのがよくわかります。

雪舟の作品で、国宝に指定されている水墨画は、「山水長巻」を含め、「天橋立図」(京都国立博物館)、秋冬山水図、破墨山水図(ともに国立博物館)など6点あり、10数点が重要文化財となっています。

なお、雪舟の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の「雪舟」を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

今日8月7日は、「東海道中膝栗毛」などで知られる江戸時代後期の戯作(げさく)者・十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)が、1831年に亡くなった日です。

江戸の遊び場にやってくる町民たちのすがたを、しゃれた会話を中心にしてえがいた「洒落本」。社会風刺をもりこんだ物語に黄色の表紙をつけた「黄表紙」。町民たちのふだんの生活や遊びを、たくみな笑いをおりまぜて小説にした「滑稽本」。

18世紀の終わりごろからのちの江戸時代に、町人社会の発展にともなって、このような文学がたいへん流行しました。

十返舎一九は、その代表的な戯作者です。弥次郎兵衛と喜多八のふたりが、つまらないことで大失敗をくり返しながらつづける旅を、さまざまな土地のおもしろい風習やことばをおりこんでつづった『東海道中膝栗毛』の作者、と言ったほうが早いのかもしれません。

一九は、幼名の市九からとって名のるようになった号です。駿河国(静岡県)で生まれた一九は、20歳をすぎるころまでは武家に奉公しましたが、やがて、職をすてて浪人となり、24歳のときに大坂(大阪)で浄瑠璃を書く仲間に加わって、戯作者への道を歩み始めました。

29歳で、江戸へでて、書店へ住みこみました。でも、初めの1年あまりは雑用係でした。ところが、文だけではなく絵も自分でかいて黄表紙『心学時計草』を出版すると、たちまち名が知られるようになりました。そして、結婚して自分の家をもってからは、黄表紙のほか洒落本もぞくぞくと世におくりだしました。まず、人びとをおどろかせたのは、その筆の早さでした。

そのうえ、遊び場に集まる人たちの欲望、人情、恋、あわれさなどをえがいた洒落本の文章は、まるで、遊び場のようすが目に見えるようにおもしろく、江戸じゅうの町人たちの心をひきつけました。しかし、世の中のことをおもしろくえがくことはできても、自分の家庭は、うまくいかなかったようです。

『東海道中膝栗毛』を発表し始めたのは、37歳のときからです。初めは、弥次さん喜多さんの、江戸から京都、大坂までの旅でやめるつもりでした。ところが,あまりの人気に、金毘羅詣、安芸宮嶋詣から木曾街道、善光寺、草津温泉を通って江戸へもどるまでの『続膝栗毛』を書きつづけ、書き終わったときは、57歳になっていました。21年間も膝栗毛にとりくんだのです。

滑稽本の形を完成させた一九は、社会を風刺した狂歌も作り、歴史や伝説から話をとった読本も書き、66歳で亡くなりました。読みものでは人びとに笑いをふりまきましたが、一九自身は、まじめで、むしろ気むずかしいほどの人だったと伝えられています。原稿料だけで生計をたてた、日本最初の人でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 29巻「小林一茶・間宮林蔵・二宮尊徳」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日8月6日は、青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが、1881年に生まれた日です。

ペニシリンを発見したイギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングは、スコットランドで生まれました。父は農民でしたが、フレミングが7歳のときに亡くなりました。

フレミングは、幼いときから観察力がすぐれていました。また、次からつぎへと新しいことを考える才能をもっていました。子どものときから科学者になる素質があったのかもしれません。

14歳のとき、兄が眼科の病院を開業しているロンドンへでました。そして、工芸学校で2年間学び、そのご4年ほど商船会社ではたらいたのち、セント・メアリーズ医学校へ進みました。

医学校を卒業すると、細菌学の道をえらび、セント・メアリーズ病院の予防接種研究室へ入りました。白衣をつけたはなやかな医者にくらべると、収入も少ない研究者の道が楽ではないということは、よくわかっていました。しかし、フレミングは、自分のことよりも人のために生きる人生をえらんだのです。

最初の研究は、顔にできるにきびでした。それは命にかかわるような病気の研究からみると小さな研究でしたが、研究者はけっしてあせってはいけないことを知っていたフレミングは、たとえ目だたない研究でも、全力をそそぎました。

1914年に第1次世界大戦が始まると、軍医として野戦病院で、負傷兵の手当てにあたりました。すると傷の治療をしているうちに思いがけないことを発見しました。消毒薬は、傷口の殺菌にはほとんど役だたないばかりか、場合によっては、むしろ菌をはんしょくさせている、ということをつきとめたのです。

「からだの外からつける薬にたよってはだめだ。体内に入りこむ菌に対する、からだの抵抗力を強めさせる薬が必要なんだ」

それからのフレミングは、動物の組織をいためないで菌を殺す物質の研究にうちこみました。まず、だ液、鼻汁、涙を使った実験をくり返して、それらには自然に菌をとかしてしまう物質がふくまれていることを発見し、その物質をリゾチームと名づけました。

ペニシリン発見のかぎをさがしあてたのは、このリゾチームの研究をしていたときのことです。あるとき、菌の培養器に青かびが落ちこみました。すると、菌が死んでいくではありませんか。どんな小さなことも見のがさないフレミングは、青かびにとびつきました。そして実験に実験をかさねて、青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもっていることを証明しました。これが世界の医学者をおどろかせたペニシリンです。

フレミングは1945年にノーベル生理・医学賞を受賞しました。

以上の文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 16巻「アムンゼン・チャーチル・シュバイツァー」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

なお今日8月6日は、人類がはじめて原子爆弾を落とした日です。昨年のブログに 「広島に原爆を落とされた日」 として記述していますので、あわせて参考にしてください。

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