児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年08月

今日8月22日は、[まだあげ初めし前髮の/林檎のもとに見えしとき・・・] ではじまる「初恋」をおさめた処女詩集『若菜集』や、[小諸なる古城のほとり・・・] ではじまる「千曲川旅情の歌」、[名も知らぬ遠き島より・・・] 唱歌として有名な「椰子の実」などをおさめた詩集『落梅集』で、近代詩に新しい道を開き、のちに「破戒」や「夜明け前」などを著した作家 島崎藤村(とうそん)が、1943年に亡くなった日です。

島崎藤村は、明治の初めに、むかしの中山道(木曾街道)にそった長野県馬籠村に生まれました。生家は、長く、村をとりしきる庄屋や、大名がとまる本陣などをつとめてきた、歴史のある家でした。しかし、藤村が生まれたころには、消えていく古い時代とともに、家もしだいにおちぶれ始めていました。

藤村は、9歳のときに、兄といっしょに馬籠をはなれて、東京へでました。そして、しばらく姉のもとに住んだのちは、見知らぬ実業家の家へあずけられ、気づまりな思いをしながら、少年時代をおくるようになりました。小学校の卒業が近くなったころ、ナポレオンの伝記を読んで心をうたれ、自分も政治家になる夢をいだいたということです。

ところが、15歳で明治学院へ入学して、キリスト教や西洋の新しい思想にふれ、さらに、なかまと文学や宗教を語りあうようになってからは、政治家へのあこがれなどはすてて、人間の心を見つめる孤独な人間へとかわっていきました。やがて、小説、詩、古典を読みふけるうちに、自分の進む道は文学だと心に決めたのは、19歳のころだったといわれます。

明治学院を卒業した藤村は、明治女学校の教師をつとめるかたわら、文芸雑誌『文学界』の創刊にくわわり、その創刊号に戯曲や詩を発表して、長い文学生活の第一歩をふみだしました。

まず、名を高めたのは、詩人としての藤村です。女学校の教え子との悲しい恋や、文学の友、北村透谷の自殺などに苦しんだ藤村は、東北学院の教師となって仙台へのがれ、1年ごに、初めての詩集『若菜集』を世に送ったのです。そして、27歳のときに長野県へ移り、小諸塾の教師として生活をたてながら、2年ごにを発表すると、日本の近代詩の誕生に灯をともした詩人として、たたえられるようになりました。

1905年、33歳の藤村は、東京へとびだしました。詩をとおして自然や青春や人生の美しさ悲しさを見つめることから、さらに進んで、小説家として、自分や社会と強くたたかっていくことを決心したのだといわれています。このとき小諸をはなれる藤村の手には、差別される人間の苦悩をえがいた名作『破戒』の、書きかけの原稿が、しっかりにぎられていました。

そのごの藤村は、小説家の地位をきずいた『破戒』につづいて『春』『家』『新生』『夜明け前』などを書きつづけ、人間と社会のすがたをありのままにえがく自然主義文学を、かがやかしくきずいていきました。藤村が世を去ったのは、日本が戦争に負ける2年まえです。自分にきびしい芸術家でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 34巻「夏目漱石・野口英世」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。なお、島崎藤村の詩や小説のほとんどは、青空文庫で読むことができます。

「8月22日にあった主なできごと」

1903年 日本初の路面電車は1885年京都に開業していましたが、首都東京に [♪汽笛一声新橋を…] と鉄道唱歌に歌われる、新橋~品川間の路面電車の営業が開始されました。

1910年 日本は明治のはじめころから、朝鮮半島を勢力範囲にしようと乗りだしていましたが、日清戦争・日露戦争に勝利してからは次第に植民地化をしていきました。やがて軍事、外交、警察権を奪うばかりか内政にまで干渉するようになったことに対し、反日運動が強まり、1909年には初代統監となった伊藤博文射殺事件がおきました。日本政府はこれを期に、朝鮮政府に圧力をかけ、この日、日韓併合の条約に調印をさせました。こうして、朝鮮は日本の植民地になっていったのです。

1981年 台北市に本拠をおいていた遠東航空の旅客機が、台北-高雄間を飛行中に空中分解して墜落、乗員乗客110人が全員死亡しました。この中に直木賞作家の向田邦子が含まれていて、日本社会に衝撃がおこりました。

生麦(なまむぎ)事件とは、1862年8月21日に現在の横浜市鶴見区生麦で、イギリス人4人が殺傷された事件です。江戸から京都に向かう薩摩藩主の父であり、薩摩の実権を握る島津久光の一行が生麦村にさしかかったおり、前方をリチャードソンらイギリス人4人が乗馬のまま横ぎったことにより、一部の藩士がリチャードソンを斬り、傷を負って落馬したところを止めをさしました。他の二人も負傷、もう一人の女性は帽子をきられただけでしたが、精神的なショックを受けて間もなく死亡しました。

当時の全国の大名たちは、幕府をはさんで二派に別れて対立していました。一つは薩摩、越前、水戸などのグループで、将軍の跡継ぎに一橋慶喜(よしのぶ)をむかえて、ひびの入った幕府の政治をあらためようとしていました。これに対抗する勢力は、彦根、紀伊などの親藩グループで、このグループの彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)が大老になると、紀伊から将軍家茂(いえもち)をむかえ、1858年には日米通商条約に調印して開国、さらにイギリス、フランス、ロシアなどとも条約を結びました。そして、これに反対する勢力をおさえつけ、吉田松陰や梅田雲浜(うんぴん)、頼三樹三郎らを死刑にしたり、天皇に近づいた反対派大名のけらいたちを牢に入れたり、暗殺したりしました(安政の大獄)。怒った水戸や薩摩の浪士たちは、1860年江戸城の桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。

これで、薩摩、長州、越前など、天皇をかつぎだして幕府の実権をにぎろうとする「公武合体派」が勢力を盛り返し、1861年から翌年にかけて、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を将軍家茂の夫人とし、一橋慶喜を将軍の後見人に、越前藩主松平慶永(よしなが)を大老に任じました。一方このような大名中心の公武合体では手ぬるいと、下級武士らは「尊王攘夷」(天皇を尊び外国人をうちはらう)を合言葉に幕府を倒そうと、1862年1月、坂下門外で老中安藤対馬守(つしまのかみ)を襲って負傷させました。

その4月、京都御所の警備にあたっていた島津久光は、大兵を率いて江戸にむかうとき、京都伏見の寺田屋で、血気にはやる自藩の尊王攘夷派の有馬新七らを斬って、この勢力をおさえました。生麦事件は、この帰り道の出来ごとで、何とも皮肉な事件といえそうです。

生麦事件を調べた神奈川奉行は、島津久光に下手人(げしゅにん)を出すようにかけあったところ、久光は「先年脱藩した足軽が、行列を見にきてやったことで、我らが知るところではない」と突っぱね、行列を整えて引き上げていきました。

この事件でイギリスは、幕府をおどして賠償金10万ポンドを払わせたばかりでなく、翌年の8月に7隻の艦隊を鹿児島湾沖にくりだし、生麦事件犯人の引渡しと、賠償金2万5000ポンドを薩摩藩に要求しました。薩摩藩はこれを拒否、薩英戦争が起こりました。ともに甚大な被害を蒙りましたが勝敗はつかず、双方があなどれない相手であることを自覚したものと思われます。薩摩藩は攘夷の間違いをさとり、イギリスは幕府支持の方針を変えて、薩摩藩と接近するほうが得策だと考えるようになりました。いずれにせよ、この生麦事件と薩英戦争は、明治維新にいたる前夜の、重要なできごとといってよいでしょう。

「8月21日にあった主なできごと」

1911年 パリのルーブル美術館から、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」がこの日に盗まれました。2年後、フィレンツェのホテルで無事発見されましたが、盗みだしたイタリア人のペンキ職人は「レオナルドの故国イタリアへ絵を返してもらっただけだ」と豪語したと伝えられています。レオナルド・ダ・ビンチの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「レオナルド・ダ・ビンチ」 をご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

1940年 レーニン、スターリンらとともにロシアの革命の指導者だったトロツキーが、レーニンの死後スターリンと意見が対立して国外追放にあい、メキシコで暗殺されました。

1959年 アメリカ領だったハワイが、アラスカに続きアメリカ第50番目の州となりました。

今日8月20日は、「小倉百人一首」や、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ新古今和歌集を編さんした鎌倉時代の歌人 藤原定家(さだいえ、またはていか)が、1241年になくなった日です。

日本人に、かるた遊びで最も広くしたしまれている古い歌集に『小倉百人一首』があります。7世紀から13世紀にかけての歌人100人の和歌を、1首ずつ集めたものです。

藤原定家は、この百人一首を選んだといわれる、鎌倉時代初めの歌人です。そのころの最高の歌人藤原俊成を父に、1162年に生まれ、幼いときから、歌人になるためのきびしい教育を受けて成長しました。

早くも16歳のときに、貴族たちが和歌をきそう歌合の会にまねかれるほどになっていた定家は、24歳ころ関白の九条家にめしかかえられました。そして、日本の古い文学や中国の詩なども学びながら、一流歌人の慈円や藤原良経らとまじわっておおくの歌をよみ、またたくまに名の知れた歌人のひとりになりました。

ところが、1196年に九条家が関白の座を追われたため、34歳の定家も高い官位へのぼる希望を絶たれ、歌もよめないほどの暗い生活がつづくようになってしまいました。宮廷につかえる歌人は、どんなに歌人としてすぐれていても、官位が低くては豊かな生活はのぞめなかったのです。

およそ5年ののち、定家にふたたび明るい希望をあたえたのは、定家を『新古今和歌集』の歌を選ぶ歌人のひとりに加えた、後鳥羽上皇でした。

「上皇は、このうえなく和歌を愛しておられる。その上皇といっしょに新しい歌集が作れるとは、なんと幸せなことだろう」

定家は、天皇の位を土御門天皇にゆずったばかりの20歳の上皇によくつかえ、それから4年、その時代の和歌のなかから約1900首の歌をえらぶしごとに励みました。

歌をえらぶあいだ、定家は意見のくいちがいで、上皇となんどもしょうとつしました。上皇をどんなに尊敬していても、歌人として自信をもっていた定家は、歌のことでは自分の考えをまげなかったからです。

そののちの定家は、自分の歌も4000首ちかくおさめた自選歌集を作りました。いろいろな歌集の解説書も書きました。また『土佐日記』『源氏物語』『伊勢物語』『更級日記』などを書き写して、日本の古い文学をのちの世に正しく伝えるしごとにも励み、1241年に79歳の生涯を終えました。

『新古今和歌集』は『万葉集』『古今和歌集』とともに、日本の3大歌集のひとつに数えられています。『小倉百人一首』は、定家が京都の小倉山の山荘で、びょうぶにかきつらねたものだといわれています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 21巻「平清盛・源頼朝・源義経」の後半に収録されている7編の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

「8月20日にあった主なできごと」

1839年 吉田松蔭の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士高杉晋作が、1839年に生まれた日です。高杉晋作については、昨年8月20日のブログ をご覧ください。

1926年 1925年の春に、東京、大阪、名古屋の放送局がラジオ放送をはじめていましたが、この3局がいっしょになって、日本放送協会(NHK)を創立させました。設立当時の聴取者は、わずか2万5000人でした。

1941年 彫刻家で詩人の高村光太郎が、精神病となり7年間病気とたたかって亡くなった妻智恵子を歌った詩集「智恵子抄」を刊行。智恵子は東京には空がないという/ほんとうの空が見たいという・・・ではじまる「あどけない話」や「レモン哀歌」など29編の詩や短歌は、今も多くの人たちに感動を与え、映画やテレビドラマにもよく登場します。詩の内容はすべて、青空文庫 で読むことができます。

今日8月19日は、18世紀末頃からイギリスにおこった産業革命の原動力ともいえる、蒸気機関の改良をおしすすめたワットが、1819年に亡くなった日です。

ワットの蒸気機関の発明は、イギリスの産業革命で、最大のできごとといわれます。

蒸気機関の原理は、古くから考えられていました。でも、実用的なものができはじめたのは、17世紀のすえごろからです。セーバリやニューコメンらによって作られた単純な装置で、鉱山の排水などに利用されていました。ワットは、ニューコメンの機械を細かく調べあげ、新しい蒸気機関を発明しました。ワットの20年にもおよぶ血のにじむような努力が、つみ重ねられた結果でした。

ジェームズ・ワットは、1736年スコットランドのグリノックという港町に生まれました。父が船大工でしたので、ワットは仕事場にある道具でいろいろな模型をつくって遊んだり、父の仕事をてつだったりしながら育ちました。19歳のときロンドンにでて、機械屋ジョン・モーガンのところに弟子いりしました。手先の器用なワットは、モーガン親方の教える技術を、たちまち自分のものにしてしまい、1年ごにはグリノックへもどりました。

1757年、グラスゴー大学の教授たちの好意で、ワットは大学のなかに数学器具の店をひらくことになりました。ある時、ニューコメン機関の模型の修理をたのまれて、蒸気機関をてがけることになりました。

「これでは能率が悪い。石炭もたくさんいるし、蒸気もむだだ」

ニューコメンの機械が、あまりにも欠点のおおいことに気づいたワットは、改良しようと思いたちました。それからはもう、蒸気機関にむちゅうになり、昼も夜も、研究にあけくれました。

まず、蒸気を冷やす復水器という装置を研究し、つぎに、大気圧にたよらず蒸気の圧力で、ピストンを往復させるしくみを考えました。でも、なんど実験しても失敗の連続です。研究にうちこめばうちこむほど、生活は苦しくなり、借金がふえるばかりです。店もたたまなければならなくなり、妻にも先だたれ、すっかり希望をなくしてしまいました。

そのときにあらわれたのが、金持ちの工場主マシュー・ボールトンです。ボールトンは、ワットの発明に大きな期待をかけました。ワットは、力強い協力をえて、ついに新型の蒸気機関を完成させました。そして、ピストンの往復運動を回転式にきりかえるなど、いろいろな工場の機械を動かす原動機にしあげたのです。ワットのすぐれた蒸気機関は、産業を手工業から工場生産に発展させただけでなく、世のなかのしくみまでも変えてしまいました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 7巻「ワシントン・ペスタロッチ・ジェンナー」の後半に収録されている7編の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

「8月19日にあった主なできごと」

1662年 液体の圧力に関する「パスカルの法則」や、随想録「パンセ」の著書で有名な物理学者・哲学者パスカルが亡くなりました。パスカルについては、6月19日のブログ をご覧ください。

1832年 「ねずみ小僧次郎吉」といわれる大泥棒が、鈴が森刑場でさらし首の刑に処せられました。ねずみ小僧は15年間に、大名などの武家屋敷100か所から1万両もの大金を盗み、貧しい人たちに配ったという逸話が伝えられ、ねずみ小僧を主人公にした小説が、芥川龍之介、菊池寛、吉行淳之介らたくさんの作家に書かれています。芥川龍之介の作品は、青空文庫 で読むことができます。

1929年 ドイツの飛行船「ツェッペリング伯号」が世界周航の途中、霞ヶ浦飛行場に到着。全長240mもの巨船に、日本中が大騒ぎになりました。飛行船の時代が来るかと思われましたが、可燃性や操縦の困難性を克服できず、次第にすたれていきました。

今日8月18日は、戦国時代に足軽百姓の子に生まれながら、織田信長にとりたてられて、全国統一をなしとげた豊臣秀吉が、1598年に亡くなった日です。秀吉は、絢爛豪華な桃山文化を築いた武将としても知られています。

秀吉の一生をえがいた「太閤記」は、江戸時代以来たくさんの作家に書かれ、現代も吉川英治、山岡荘八、司馬遼太郎らの原作をもとにテレビや映画となって、親しまれています。名もない百姓の子が天下を統一するという偉業をなしとげたところに、人気の秘密があるのでしょう。

秀吉は、16歳の頃に織田信長のぞうりとりとして仕えはじめ、よくまわる頭を使って次第に頭角をあらわし、35歳の頃には早くも一城の主になりました。やがて中国の毛利氏と戦っているとき、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、中国からすぐに引き返して、山崎の戦いで光秀を破って、信長の後継の地位を得ました。その後、大坂城を築いて関白・太政大臣に任ぜられ、日本全国の大名を従えて、天下統一を成し遂げたのです。

政治家としての秀吉は、刀狩や太閤検地を行なって兵農分離をしたり、貨幣統一など幕藩体制の基礎をきずいたものの、2度にわたる朝鮮攻めなど、評価は二分しているといってよいでしょう。

秀吉の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「豊臣秀吉」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

「8月18日にあった主なできごと」

1227年 蒙古部族を統一してモンゴル国を建設したチンギス・ハンが亡くなりました。チンギス・ハンの詳しい生涯につきましては、上記オンラインブックの 「チンギス・ハン」 をご覧ください。

1850年 「谷間の百合」や「ゴリオ爺さん」など、「人間喜劇」と名づけた作品群を遺したフランスの大作家バルザックが亡くなりました。バルザックについては、5月20日のブログ をご覧ください。

1909年 東京市(東京都)が、ワシントンへ桜の苗木を2000本贈ることに決定しました。苗木はポトマック河畔に植えられて、いまや桜の名所として有名です。

1930年 作家の谷崎潤一郎と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。谷崎潤一郎につきましては、7月30日のブログ をご覧ください。

1966年 北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。 

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