児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年08月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 48]

むかしある国に、ひとりの王様がいました。あるとき、王様は旅に出なくてはならなくなり、お妃を呼んでこんな恐ろしいことをいいました。「わしの留守中に、もしお前が男の子を産んだら、いつまでもこの国の王妃にしておこう。だが、女の子を産んだら、お前の首をはねる」 と。

王様が旅に出て、しばらくするとお妃は女の子を産みました。これが王様に知れたら命がありません。何とかして、自分も子どもも助かる方法はないかと考えました。ちょうどそのころ、お城の近くに住む貧しい女が、男の子を産みました。それを聞いたお妃は女に、その男の子とお妃の女の子を取りかえないか、そのかわり女の一生めんどうをみようといって、二人の赤ちゃんを交換したのでした。

そのころ、ひとりの商人が船の旅に出るしたくをしていました。商人はひとりのおばあさんに、卵を40個ゆでて船まで届けるようにと頼みました。おばあさんがゆで卵を40個とどけて商人に渡しました。ところが商人は、今にも船が出るときだったので、お金は帰ってから払うといいのこしたまま、でかけてしまいました。

それから5年たって、ようやく商人が船旅から帰ってきたので、おばあさんは卵の代金をもらいにいきました。商人が卵の代金を払おうとすると、おばあさんは5年の間にあの卵から、何羽のにわとりがかえったか、またそのヒナから何羽生まれるかを考えてから支払ってくれといいました。商人は腹をたてて、そんなことをいうなら何にも払ってやらないと、おばあさんを追い返しました。

おばあさんは、王様のところへ行って、これまどのことを残らず話し、正しいお裁きをしてほしいと訴えました。ところが、王様によい考えが浮かびません。しかたなく、じっくり考えるので、判決をいいわたすまで、商人もおばあさんもいい争いなどせず、おとなしく待つようにいいました。

こうして、3、4年が過ぎていきました。貧しい女の娘は、お城の庭に入ってきては、よく王子と遊びました。ふたりは、王様がいつもおばあさんの卵の代金のことを口にしては、困った困ったといっているのを聞いていました。そこである日、ふたりは卵裁判ごっこをしようといいました。王子が、ぼくが王様役、きみがおばあさん役になってやろうというと、娘は 「いやよ、私が王様役、あなたがおばあさん役よ」 といいました。

王子は承知しましたが、生まれは争えません。ほんとうは、女の子が王様の娘なのですからね。ちょうどその時、王様は窓辺に立って子どもたちの話を聞いていましたが、おもしろそうなので、そのまま二人の遊びを見ていました。

娘はおばあさん役の王子に尋ねます。「お前は商人に卵をいくつ渡したのだ」 「40個でございます。でも、5年間も、代金を払ってもらえませんでした。5年たって商人がもどってきましたので、代金を払ってくれと申しますと、卵40個分の代金を払おうとしました。けれども私はその代金を受け取りませんでした」 「お前は、卵の代金として、いくら望むのかな」 「卵は40個でしたが、その卵からヒナがかえり、そのヒナが卵をうみ、またその卵からヒナがかえりますので・・・」 「商人は、お前に卵を持ってこさせるとき、どんなふうに頼んだ?」 「卵を40個ゆでて、船までもってきてくれといいました」

ここで、女の子は念をおしました。「それでお前は、ゆで卵をもっていったのだな」 「はい」 「では尋ねるが、ゆで卵からヒナがかえったということを聞いたことはあるかな?」 「ございません」 「では、お前には、卵40個分の代金を請求する権利しかないことがわかったな」

王様はびっくりしました。(あの女の子は、わしが何年かかっても解けなかった問題を、みごとに解決した。あの子はいったい何者なのだろう) と思いましたが、まずは、おばあさんを呼び出して、女の子と王子のやりとりを再現しました。こうして、名裁判を終えてから王様はお妃を呼びました。

「王妃よ、ほんとうのことを聞かせておくれ。お前は、どんな子を産んだのかね。心配することはない、お前にはいつまでもこの国の王妃でいてもらうから」 「王様、あなたは女の子を産んだら、私の首をはねるとおっしゃいました。私は、女の子を産んだとき、とてもこわくなって、近くに住む貧しい女を呼びよせて、こっそり男の子をもらい、かわりに、私たちの女の子をやったのです」 「ありがとう。お前は、私が大きな罪を犯すのを救ってくれた」 と、王様はいいました。

こうして、王様は貧しい女を呼び寄せて女の子を引き取り、女に、王子として育ててきた男の子を渡しました。そして、いやがる男の子にたくさんのお金をやり、大きくなったら、そのお金で立派な商人になるようにといってきかせたのでした。

今日8月28日は、「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いたゲーテが、1749年に生まれた日です。

ゲーテは、歴史に残る偉大な文学者です。いつでもこまやかに人間を見つめ、作品を描きつづけました。残された詩や小説は、いまでも世界じゅうの人びとに親しまれています。

ゲーテは、ドイツの商業都市フランクフルトに生まれました。父は裕福な法律家で、母は市長の娘でした。明るい家庭でしたが、父親は、たいへんやかましい人でした。ゲーテは、毎日きびしく勉強させられたので、15歳のころには、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語なで7か国語の読み書きができるようになっていました。

ライプチヒの大学にすすんだゲーテは、父の強いすすめで、法律を学びました。しかし、ゲーテ自身は、法律にさほど興味がありませんでした。しばらくすると、親の目がとどかないのをさいわいに気ままにくらし始めました。不規則な生活をつづけ、ついには重い病気にかかってしまいました。やがて健康をとりもどしたゲーテは、ヘルダーという文学者に出会い、文学を見る目が初めてひらかれました。

そして、古い考え方に反抗して、あるがままの自分の感情をほとばしるように表現しました。1774年に発表したゲーテの代表作『若きウェルテルの悩み』は、失恋の心の痛手を小説にしたものです。新鮮な作品に感動した若者たちが、しだいにゲーテのまわりに集まるようになりました。

26歳の時、ゲーテは、ドイツ中部にあるワイマール公国にまねかれました。突然のことでした。ゲーテは、ワイマールで高い地位をあたえられ、一生この地に住みつづけました。本を読み、作品を書くだけではなく、政治にもたずさわり、忙しい生活でした。しかも、ゲーテは、しばしば恋愛をしました。ある時は、すでに結婚している女性を好きになってしまい、1500通もの手紙を送りつづけたほどでした。でも年をとるとともに、若いころのはげしい性格に、豊かさをくわえ、落ち着いた円満な人間になりました。そして、人生や世界を深くとらえた名作『ファウスト』を生み出しました。

ゲーテは、大文学者として名を高めましたが、それと同時にその純粋な人がらが、おおくの人に尊敬され、したわれました。なかでも詩人シラーとの美しい友情は、あまりにも有名です。文学によって、人間の愛と真実を語り、政治や科学の方面にも活躍したその生涯は、迷い、苦しみ、悩みの連続でした。

1832年、82歳のゲーテは「もっと光を……」という言葉を最期に、この世を去りました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 7巻「ワシントン・ペスタロッチ・ジェンナー」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「8月28日にあった主なできごと」

785年 日本の3大和歌集のひとつで、さまざまな身分の人が詠んだ歌を4500首以上も集めた「万葉集」を編纂した歌人大伴家持(おおとものやかもち)が亡くなりました。

1583年 豊臣秀吉が「大坂(大阪)城」を築きました。秀吉の死後は遺児・豊臣秀頼が城に留まりましたが、1615年の大阪夏の陣で落城し、豊臣氏は滅亡しました。

1945年 連合国総司令部(GHQ)の先遣部隊が、厚木飛行場に到着しました。第2次世界大戦に敗れてポツダム宣言を受け入れた日本は、9月から1952年4月まで、6年9か月間占領され、GHQ(最高司令官マッカーサー)による間接統治が行なわれました。

1953年 日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。

今日8月27日は、古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた孔子(こうし)が、紀元前551年に魯(ろ)の国に生まれたとされる日です。孔子の教えは、弟子たちの手で「論語」としてまとめられ、孔子を始祖とする思想・信仰の体系は「儒教」と呼ばれ、江戸時代では、もっとも大切な学問とされていました。

孔子が生きていたころの中国は、「春秋時代」といって、「周」という国が衰えて形だけの王朝のもとに、諸国で諸侯(王)が勝手な政治をおこなっているという乱れた時代でした。孔子はそんな時代の小国「魯」という国に生まれました。

論語に、つぎのような一節があります。「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心に欲するところに従えども矩をこえず」 (私は15歳で学問に志ざし、30歳になって一本立ちし、40歳になって惑わされなくなり、50歳で大きな使命(天命)に気づき、60歳で天命に従うようになり、70歳で心に思ったことをしても道からはずれることがなくなった)

この言葉の通り、孔子は、幼い頃からの貧しい生活にもめげずに学問の道を志し、古典を読み、古代の美しい伝統を、乱れた世の中によみがえらそうと考えました。そんな懸命な努力が実って、30歳には何人かの弟子ができたようです。36歳の時、魯王が心のよくない臣下に国を追い出されると、孔子もまた故国を捨てました。その後孔子は、10数年もの間、自分の信じる道を行なってもらいたいとさまざまな国を訪れましたが、どの国も孔子をあいてにしなかったため、むなしく魯の国に帰りました。政治家もめざしましたが、自分の仕事は教育者であることを自覚して、大きな成功をおさめたことが、70歳の言葉になったのでしょう。

孔子の弟子はおよそ300人もいたようです。そして、りっぱな弟子が孔子の言葉をまとめて「論語」に残したことが、2500年もたった今も生きているのは驚きです。論語は、やがて「中庸」「孟子」などを生んで、東洋の一つの道「儒教」となりました。長い歴史の中で、孔子の保守主義が愛国主義に利用されたり、つりあいを重視する中庸が折り合い主義になったり、孔子の残した道筋をゆがめてしまうことも多くありましたが、生きる知恵にみちあふれた真実の言葉に満ちあふれています。ぜひ「論語」に目を通されることをお勧めします。

なお、孔子の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「孔子」 を、ご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

「8月27日にあった主なできごと」

663年 当時朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐(中国)の力を借りて、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼして半島を統一しようとしていました。百済から援軍を求められた斉明天皇は、日本水軍を援軍に送りましたが7月に病没、かわって中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)が全軍の指揮にあたりましたが、この日、白村江(はくすきのえ)で、新羅・唐軍を迎え撃って奮闘しましたが、翌日に破れてしまいました。

1859年 安政の大獄で、大老井伊直弼は、水戸の徳川斉昭を永蟄居(ながのちっきょ)、15代将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)を隠居謹慎を命じました。これを恨んだ水戸浪士たちは、翌年3月桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。

1957年 茨城県東海村にある原子力研究所の原子炉で、初めて「原子の火」が灯りました。この原子炉は、ウランなどが原子核反応によって得たエネルギーを、発電用に利用するために建設されたものです。

1969年 山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズ「男はつらいよ」の第1作が公開されました。シリーズは48作にもおよび、国民的映画シリーズとなって、ギネスブックの世界最長記録にも認定されました。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 84

「○○ちゃんを見なさい。ちゃんとやってるじゃないの」 「みんなができるのに、どうしてできないの」 「そんなことじゃ、みんなに笑われるわよ」……。子どもを叱ったり、いましめたりする母親をよく見かけます。よその子と比較しながらわが子を見、よその子より劣っていると思えば案じ、よその子より優れていると思えば安心する。「♪ ナンバー1にならなくても もともとは特別なオンリー1」 と詞の内容に感銘して歌っても、おそらく、ほとんどの母親が知らず知らずのうちに、よその子との比較をしてしまっています。人間はひとり一人違う、子どもだってひとり一人違うと理屈の上ではわかっていても、どこかで置き去りにしてしまっているとしか考えられません。

いつもはテストで50点、60点しかとらないわが子が70点を取ってきたら、「だめだめ、○○ちゃんは100点だったっていうじゃないの、70点なんかじゃ……」 と子どもの尻をたたくのは絶対にやめ、「あら、今日は70点もとったの、頑張ったわね。すごいすごい」と語りかけてやる、つまり 「うちの子」 という一人の人間を尊重し、わが子を大きくとらえながら導いてあげることが大切なのです。

わが子に何か欠点のようなものがあるとしても、それを他との比較で案じたり戒めたりするのではなく、わが子の総体をあたたかく見つめてやりながら、その長所や短所を観察していくようにすれば、いたずらな不安も消え、「ほんとうのわが子」 の姿もみえてくるに違いありません。

今日8月25日は、ポルトガル人二人をふくむ100人以上も乗せた大きな船が、1543年九州の種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えた日です。

島の領主は、まだ16歳の種子島時尭(ときたか)でした。漂着船に乗っていた中国人と漢字で筆談したところ、嵐にあって難破、20日以上も漂流して、種子島にたどりついたことがわかりました。

難破船の修理をしているあいだ、ポルトガル人の二人は鉄砲をもって狩りにでかけ、沼辺でカモを撃ち落としたということを耳にした時尭は、さっそく二人を呼んで、鉄砲の威力をたしかめ、感心してしまいました。そして、鉄砲2丁をゆずり受け、2000両という破格の謝礼をしたといいます。

日本には古来から、刀鍛冶の製鋼・鍛錬技術がありました。時尭は、この技術は鉄砲の製造に応用できないかと考え、優秀な刀鍛冶に研究させました。その結果、ポルトガル人たちが半年後に島を離れるときには、新しく作らせた鉄砲が600丁もできていたということです。

こうして種子島銃(火縄銃)の製造は、種子島以外に、和泉国堺や紀伊国根来(ねごろ)、近江国国友など各地で生産され、戦国時代の影響もあり、量質とも急激に進歩して、30年後にはおよそ20万丁の鉄砲が存在していたといわれています。

伝来当初は猟銃としてでしたが、すぐに戦場で用いられるようになり、火縄銃から、早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされて、すぐに装填できるよう改良されました。実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣による大隅国攻めといわれていますが、何といっても、戦国大名から、やがて天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が、1575年に甲斐武田氏との「長篠の戦い」で、1000丁以上もの鉄砲を有効に使って、武田軍を壊滅させたのが特筆されます。

こうして鉄砲は、戦争における主力兵器として活用され、弾丸をふせぐために厚い白壁の大きな城を築くといった城作りに変わり、戦国大名の統治構造にも大きな影響を与えていきました。

「8月25日にあった主なできごと」

1648年 母に孝養をつくし「近江聖人」としてその徳望が慕われた江戸時代の儒学者・日本の陽明学の始祖といわれる中江藤樹が、この日亡くなりました。

1830年 ベルギーの中心都市ブリュッセルの劇場で演じられていたナポリの独立闘争のオペラに刺激されて、ベルギーのオランダからの独立革命がおこりました。たちまち各地に運動が飛び火して10月に独立宣言がなされ、年末までにオランダをのぞくヨーロッパの列強は、ベルギーの独立を認めました。

1944年 北フランスのノルマンディー上陸に成功した連合国は、ドイツ軍と激しくたたかいましたが、この日フランスの首都パリに入るとドイツ軍は降伏、パリは解放されました。解放運動の指導者ド・ゴール大統領が凱旋門に現われると、パリ市民は熱狂的な歓声で迎え、パリは4年ぶりにパリ市民の手にもどりました。 

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