児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年07月

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 83

あるスーパーの店長さんから聞いた話です。

その店に、4歳くらいの男の子の手をひいた、30歳くらいのお母さんがやってくるようになって、もう半年以上になる。子どもを連れてくる母親の半分以上は、子どもが品物にさわろうとすると 「さわってはいけません!」 としかるようにいう。どうかすると、子どもの手をピシャリとたたく。

ところが、このお母さんには、そんなことが一度もない。ある時、男の子が魚にふれようとしたら、お母さんは 「あら、お約束はどうなったのかしら?」 と、静かにいうだけ。スーパーにいって、してよいことと、してはいけないことが、ちゃんと約束してあるらしい。

リンゴなど数のものを買うときは、お母さんが 「さぁ、5つ、かごに入れるわよ、お願いね」 というと、男の子は、お母さんが一つずつかごに入れるたびに 「ひとーつ」 「ふたーつ」 と声を出して数をかぞえる。そして、男の子が 「いつーつ」 というと、「はい、ありがとう」 と、ちょこっと頭を下げる。

店の中が混んでいないときは、そのかごを、お母さんが片手に下げて、男の子にも手をそえさせる。そして時々 「○○ちゃんが持ってくれるから助かるわ」 などといって、子どもに笑顔をおくる。

こうして買物を終えてレジに出る。するとお母さんは男の子に、きまって 「どうも、ありがとう」 という。そして、袋をいっしょに下げるようにして、子どもの歩調にあわせて、ゆっくり帰っていく。スーパーヘ来るとき、お母さんの姿は、たいてい、まっ白い前かけをしたまま。

店長さんは、この母子のたちいふるまい、帰っていくうしろ姿がとてもさわやかで、ふたりの来店がいつも楽しみだというのです。このお母さんの心には、ガミガミいい聞かせる 「しつけ」 などみじんもなく、子どもへのあたたかい思いやりだけが、いつもいっぱいになっているのにちがいありません。

今日7月8日は、主に人間を動物におきかえた教訓話(寓話)で名高いフランスの文学者・詩人のラ・フォンテーヌが、1621年に生まれた日です。

「ライオンと蚊」 のお話

ある日、ライオンが小さな蚊に 「あっちへ行け、このちっぽけな虫けらめ!」 と、どなりつけました。蚊は、そんなことをいうならと、ライオンにおそいかかって、首から鼻の中まで刺してまわりました。すると、ライオンは、かゆくて、わが身をひっかきまわしたあげく、へたばってしまいました。蚊は大勝利をおさめて、ようようと引き上げていきました。ところが、このことを触れまわって帰るとちゅう、クモの巣にひっかかって、あっけなく最期をとげてしまいました。

[教訓] 1、一番小さいものが、一番おそろしいということ。 2、大きな危険からのがれても、ごくつまらないことのために、命を失うことがあること。

これは、240編もある 「ラ・フォンテーヌの寓話」 のひとつの話です。

よく知られている 「イソップ物語」 も寓話の一つで、ラ・フォンテーヌは昔から伝わっている寓話を、フランスの子どもたちのために美しい詩にして、再構成しました。

役人の子として生まれたラ・フォンテーヌは、さいしょは牧師になろうと、パリの神学校に学びましたが、やがて文学にめざめ、30歳をすぎたころから宮廷詩人たちとつきあううちに、大臣や貴族たちのおかかえ詩人になり、パリで華やかな生活をしながら文学の道を深めていきました。劇や小説もかきましたが、44歳から72歳で亡くなるまで発表したこの 「寓話詩」 が名高く、フランス人には、古典として老若男女に親しまれています。

なお、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック 「レディバード100点セット」 には、ラ・フォンテーヌの寓話18篇を紹介した 44巻「ラ・フォンテーン寓話」 の日本語参考訳を収録しています。また、73巻「イソップ物語1」 74巻「イソップ物語2」 では、イソップの寓話を計24篇収録していますので、あわせて目を通すことをお勧めします。

今日7月7日は、稗田阿礼(ひえだの あれ)が暗誦した古代の伝承を記録し 「古事記」 としてまとめあげた奈良時代前期の学者 太安万侶(おおの やすまろ)が、723年に亡くなった日です。

日本で最も古い歴史書のひとつに 『古事記』 とよばれるものがあります。奈良時代にまとめられたものです。上・中・下の3巻に分かれ、上巻では、日本に天皇が現われるいぜんの神代のことがしるされています。中・下巻では、第1代の神武天皇から、第33代の推古天皇までの、天皇の歴史や国づくりの物語がつづられています。

「天皇を中心にした国家を建設していくためには、天皇の流れを明らかにして、日本は天皇の国であるということを、はっきりさせておかなければいけない」

『古事記』 は、このような目的で、朝廷の力で作られました。歴史の本ではあっても、香り高い文学の味わいをもっています。太安万侶は、この 『古事記』 をまとめた、奈良時代初めの学者です。若いころから朝廷につかえ、正五位から、のちには民部卿という高い官位についていました。

『古事記』 は、太安万侶がまとめたとはいっても、安万侶ひとりの力でできあがったのではありません。それよりも、およそ30年まえに、天武天皇は、朝廷につかえていた稗田阿礼という役人に、天皇のことを伝える古い資料を読ませて、それをもとに歴史の本を作ろうとしました。ところが、天皇は願いを果たさないうちに亡くなり、そのご、このしごとは、つぎの持統天皇のときも文武天皇のときも、そのままになっていました。

安万侶は、女帝の元明天皇の時代に、天皇の命令でこのしごとをひきつぎ、阿礼の読みおぼえたことを整理して、712年に、3冊の歴史の本にまとめ、朝廷に献上したのです。

『古事記』 は、そのころの政治の目的で、歴史がゆがめられたところや、かざられたところが少なくありません。しかし、古代の日本のすがたを知るには、かけがえのない本です。

安万侶は、年をとってからは、全部で30巻の 『日本書紀』 を著わすしごとにも加わり723年に世を去りました。2つの歴史書の完成に力をつくしたことをのぞくと、安万侶の生涯についてのくわしいことは、何もわかりません。安万侶の死ご1200年以上すぎた1979年に、奈良市で、安万侶の墓誌が発見されて、日本の歴史学者のあいだで大さわぎになりました。これほど有名な人の、これほど古い墓が見つかったのは、初めてだったからです。それまで、太安万侶はほんとうにいた人ではないのではないか、という説もありましたが、その疑いは、いちどに吹きとんでしまいました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 19巻「聖徳太子・中大兄皇子」 の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日7月4日は、ラジュームを発見して夫ピエールといっしょにノーベル物理学賞をもらい、夫の死後ラジュームの分離に成功してノーベル化学賞をえた女性科学者キュリー夫人(マリー・キュリー)が、1934年に亡くなった日です。

5人兄弟の末っ子のマリーが生まれた1867年ごろのポーランドは、ロシアに占領されていたため、植民地のような状態でした。そのため、ポーランド語を話すことを禁じられ、ロシア式の生活を強いられました。学校の先生だった両親でしたが、10歳の時に母親は死に、父親もロシア人校長に教師をやめさせられるなど、科学者としてすぐれた力をもちながら、ふさわしい職場も待遇もあたえられませんでした。少しの給料で子どもたちを養っていくのは、どんなにたいへんだったことでしょう。

でも、姉の一人は亡くなりましたが、4人の子どもたちは、家庭教師などのアルバイトをして、自分と兄弟の学費をかせぎ、それぞれ、大学や専門学校にすすみました。女学校へ進んだマリーは、卒業の時には、学校1の成績をとりました。ものおぼえがよいばかりでなく、死にものぐるいで勉強をしたからです。

24歳のとき、マリーは姉のいるパリへ行き、ソルボンヌ大学に入りました。ここでも、みんなが驚くほどの勉強を続け、卒業時には物理学が1番、数学が2番という成績だったそうです。卒業後も大学に残り、27歳の時に、フランス人物理学者で、ソルボンヌ大学の先生をしていたピエールと知り合って結婚、フランス人になりました。

こうして、研究者として、また娘のイレーヌ(後にノーベル賞を受賞)ら子どもたちを育てながら、さまざまな実験に取り組み、どのようにして、ノーベル賞を受賞するようになったか、またその後半生につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「キュリー夫人」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

なお、昨年(2007年)7月4日、今日はこんな日のブログには、「アメリカの独立記念日」 を掲載していますので、あわせてご覧いただければ幸いです。

今日7月3日は、聖徳太子の命により、小野妹子(おのの いもこ) が607年、中国(当時の隋)につかわされた日と伝えられています。

聖徳太子は、用明天皇の第二皇子で、推古天皇(叔母)の摂政として、内外の政治を立派に整えた飛鳥時代の政治家です。隋は、すぐれた先進国として知られ、そのため太子は大陸のすすんだ技術や学問、仏教などを日本にとり入れようと考えました。小野妹子を隋につかわしたのは、そんな目的からでした。

ところが、妹子が持参した国書を見て、隋の煬帝(ようだい)は真っ赤になっておこりました。「日の昇る国の天子が、日の沈む国の天子に手紙をさしあげます」 とあったからです。小国のくせに対等のように書いてあること、日本が日の昇る国で、隋が日の沈む国というのは何事かと思ったからにちがいありません。しかし、当時の隋は、朝鮮半島の高句麗との戦争で苦戦を強いられていたこともあって、日本と手を結んだほうがよいと考えたのでしょう。やがて態度を改め、両国の国交は開かれ、妹子は斐世清(はいせいせい)ら12人を連れて日本へ帰りました。

帰国後、妹子は流刑にされそうになりました。隋の国書を、朝鮮の百済の役人にとられてしまったと報告したからです。でも、それは事実でなく、国書の文面に、隋が日本を家来扱いしているため、天皇にさしだす勇気がなかったからだといわれています。こういう事実を見抜いた太子は、妹子をかばって流刑の罪から救いました。

やがて、妹子や斐世清らから、隋についてのさまざまな話を聞いた太子は、想像以上の進んだ文化にびっくりしました。そこで、隋の使者たちが帰国する際、ふたたび妹子を遣隋使としてつかわしただけでなく、8人を隋に留学させました。

こうして、小野妹子や留学生たちの力で、聖徳太子への仏教の師となる僧を連れてきたり、紙や墨、彩色などを伝える技術者、芸術家もつぎつぎに渡ってきて、中国の高い文化、政治のしくみなどを日本へもたらしたのです。

なお、聖徳太子の生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「聖徳太子」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

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