児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年07月

今日7月16日は、明治期に江藤新平らと民選議院設立建白書を提出し、わが国初の政党である自由党を結成して、自由民権運動に尽力した板垣退助(いたがき たいすけ)が、1919年に亡くなった日です。

明治時代の歴史をひもとくと、「板垣死すとも、自由は死せず」 という言葉にぶつかります。これは、1882年4月、岐阜市で板垣退助が暴漢におそわれたときに、叫んだ言葉です。このとき、板垣は、自由党の総理で、人民の英雄とまでいわれていました。自由党員はひどく怒って、全国から数千人も岐阜にかけつけて、大騒動となりました。しかし、政府がいち早く特使を送ったために、大事にはいたりませんでした。

1837年土佐藩(高知県)に生まれ、幕末から明治維新、戊辰戦争、会津戦争、明治新政府の要職となった板垣退助の生きざまは、まさに幕末から明治初期の激動の歴史をみるようです。その後も、西郷隆盛らとともに征韓論をとなえましたが、やがて人民の気持ちを考えるようになって、自由民権の考え方に転じるようになり、自由民権運動の指導者になっていったのです。

しかし、1900年伊藤博文の政友会ができたころから、自由党はバラバラになり、1919年に亡くなるまでは社会事業につくすなど、政治にかかわることなく晩年を送りました。板垣は、意に反して伯爵という貴族の称号をさずけられましたが、伯爵とか子爵といった貴族の身分は、その人一代とすべきだという 「華族一代論」 をとなえるなど、人格清らかだったといわれています

なお、板垣退助の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「板垣退助」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

今日7月15日は、17世紀に最盛期をむかえたオランダ絵画界にあって、「夜警」 「フローラ」 「自画像」 など数々の名画を描き、オランダ最大の画家といわれるレンブラントが、1606年に生まれた日です。

美術史上、「自画像」 をたくさん残しているのは、レンブラントと、ゴッホでしょう。ふたりは200年以上もの開きがあるのに、共にオランダ人であるというのは興味深いものがあります。共通点は、どちらも光を追い求めた画家だということ、頑固な変わり者で周囲と摩擦をおこすことが多かったこと、そのためにモデルを探すことがむずかしく手っ取り早く自画像をえがいたこと、さらにいえば孤独で悲惨な最期をとげたことといえるかもしれません。

レンブラントが生まれた1600年代は、オランダの最盛期の時代で、絵画の世界でも黄金時代といわれるほどでした。前の世紀までのオランダは、スペインの支配下にあって、海外貿易による利益も、スペインにすいあげられるという状態でした。でも、長い独立戦争の末に共和国として一本立ちしたのです。レンブラントは、そんな再出発したオランダのライデンという港町に生まれました。

家は豊かな粉ひき屋で、父親はレンブラントを法律家にしたいと考えていました。でも、幼いころから絵が好きだったレンブラントは、父親の許しをえて、絵の修業をすることになり、18歳でライデンの町で独立を果たしました。若い頃は世間の評判もよく、注文も殺到してお金に不自由することはありませんでした。そして、ライデンからアムステルダムへ移り、貴族の娘と結婚するなど、とてもめぐまれていました。

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ところが、1642年に火縄銃組合から依頼された肖像画 「夜警」 を描いてから、評判が悪くなってしまいました。レンブラントは、ありきたりの肖像画ではつまらないと、このような、舞台の一場面を描写したような作品にしあげたからです。全員を満足させる記念写真のような肖像画を望んでいる人びとからの注文はとだえ、生活は急速に貧しくなっていきました。

しかし、レンブラントは生活が窮乏しても、自分の信じる絵を懸命に描き続けました。50歳の頃には破産の宣告を受け、63歳で一生を終えたときには、聖書一冊のほかは何もなかったといわれています。でも、そんな不幸な時代の絵の奥深さがいっそう評価されているところに、レンブラントのすごさがあるといってよいでしょう。レンブラントが生涯に描いた作品は、800点以上もの油絵のほか、エッチング、デッサンなどを含めると、6000点もあります。

なお、レンブラントの世界3大名画ともいわれる 「夜警」 につきましては、以前このブログで紹介しています。参考にしていただければ幸いです。

今日7月14日は、1789年パリ市民が政治犯を収容するバスティーユ牢獄を襲撃し、革命のひぶたが落とされた日です。日本では、この日を 「パリ祭」 と呼んでいますが、フランス国民は毎年、歌ったり踊ったり、心から喜びあう国民の祝日です。

1789年当時のフランスは、国土の9割を私有する国王、貴族と僧侶を中心に政治をおこなっていたため、国民の大半を占める農民は、高い税金と厳しい労役に苦しみ、力をつけてきた商人も税金に悩まされていました。そんなことから農民や商人のあいだに不満が高まっていました。そこへ、モンテスキュー、ボルテール、ルソー、ディドロといった啓蒙思想家が、国王たちの圧政をはげしく攻撃し、民主主義の考え方をひろめていました。また、1776年、イギリスの専制政治から独立して、アメリカ合衆国という新しい国が生まれたことも、フランス市民にははげまされたことでしょう。

そんなおり、フランス全土に飢饉がひろまり、農民たちは食べるものにも困るほどになりました。産業はふるわず、失業者も国じゅうにあふれました。それにもかかわらず、時の国王ルイ16世は、国の財政を立て直すという名目で三部会(国王・貴族・平民の代表からなる議会)を開いて、これまで以上の税金をとろうとしました。

フランス国民はもうだまっていません。三部会の代表でもあった農民や商人たちの代表は、三部会から分かれてパリ郊外のベルサイユに国民議会を作り、民主主義の基礎となる憲法をつくるように国王や貴族たちにつめよりました。でも、国王たちは、軍隊の力でこれをおしつぶそうと、いがみあいました。

そして、1789年の今日、バスティーユの攻撃がおこったのです。パリ市民たちは、手に手に刀や鉄砲を持って広場に集まり、ある一群は武器庫を襲って武器を手にいれ、「バスティーユへ」 「バスティーユへ」 という声の広がりとともに、バスティーユの牢獄めがけておしよせました。バスティーユは、むかしは要塞でしたが、17世紀から牢獄になって、国王の専制政治に反対した人々がおしこめられていたのです。市民たちはそんな政治犯を救い出し、バスティーユの司令官を市庁舎前まで連行して、首をはねました。

国王は軍隊をくりだし、パリ市民とはげしい戦いをしましたが、この市街戦のニュースはたちまちフランス全土につたえられました。いっせいに立ち上がった全国の農民や地方の市民たちは、今のフランス国旗となっている自由(青)・平等(白)・博愛(赤)の三色旗を掲げ、国歌となっている 「ラ・マルセーズ」 を歌いながら、義勇軍を組織して、軍隊に立ち向かっていったのです。

こうして、貴族や僧侶たちを追い払い、農民や市民たちが議会をにぎることになり、国をにげだそうとした国王をとらえて死刑にし、フランスは短い期間ではありましたが、共和制の国となりました。

私の好きな名画・気になる名画 25

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モディリアーニほど、さまざまな伝説の持ち主はあまりいません。伝説がほんとうなら、絵をかく時間などなかっただろうといわれるほどです。1914年におきた第1次世界大戦のころ、パリのモンパルナスのカフェは、若くて貧しい芸術家のたまり場でした。安酒や麻薬のにおいのただよう店の中で、芸術論をたたかわす者、大声で歌う者、酔いつぶれる者などの中に、30歳前後のモディリアーニがいました。「酔いどれ絵かき」 「モンパルナスの貴公子」 などと呼ばれ、女も男も思わずふりかえるほどの気品にみちた美貌の持ち主でした。

モディリアーニは1907年、23歳の時に、セザンヌの回顧展を見て深くその影響を受けました。でも、セザンヌの得意としていた風景や静物画をえがくことはなく、ほとんどが女性の人物か肖像画でした。しかも、ひと目見ただけで 「モディリアーニの絵だ」 とわかるほど個性的ですが、モデルの個性をとらえて描くのではなく、モディリアニの心の中のイメージを表現したにちがいありません。顔は細く長く、ことに首はとても長く、目は小さくて、多くはこの絵のように白眼も黒眼もない1色のうすい青か緑でえがかれています。

33歳のモディリアーニと、当時19歳だった画学生だったジャンヌ・エビュテルヌとの運命的な出会いは有名です。二人は結婚し、娘がうまれましたが、貧乏と酒におぼれ、結核にむしばまれた身体は少しも平穏にはなりませんでした。ただ、妻を心から愛していたのでしょう。モディリアーニはこの絵を含め20点以上ものジャンヌの肖像を残しています。そして1920年36歳で生涯を閉じてしまいましたが、なんとその葬式の日に、二人目の子を宿していたジャンヌは、アパートの6階から飛びおり自殺をしてしまうのです。

モディリアーニは、1884年イタリア・トスカーナ地方のリボルノという港町に、ユダヤ系銀行家の子として生まれました。早く父をなくし、母親の手ひとつで育てられました。母はモディリアニの絵の才能を見抜き、13,4歳の頃から絵の先生につかせ、16,7歳になると、ベニスやフィレンツェの美術学校で学ばせました。肺の疾患に苦しむ息子でしたが、22歳の時、絵画の都パリにモディリアーニを送り出しました。

その頃のモディリアーニは、画家よりも彫刻家をめざしていました。母国イタリアの古代遺跡で眼にした彫刻のほか、オーストラリアやアフリカの原始的な彫刻に魅せられ、形をシンプルに表現した作品を制作していました。しかし、身体の弱いモディリアーニには、石を扱うことは不向きでした。そこで、彫刻で学んだ表現方法を絵におきかえ、あのような個性的な作品群に結実したのでしょう。

生前は、ほとんど無名のモディリアーニでしたが、今や 「エコールド・パリ(パリ派)」 の代表的な画家として、シャガール、ユトリロらとともに世界中の人々に愛されています。日本でも、先月まで六本木の国立新美術館で 「モディリアーニ展」 が開かれていました。7月1日から9月15日までは、大阪・中之島にある国立国際美術館で、引き続き 「モディリアーニ展」 が開催されています。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 47]

昔むかし、ある暖かな春の日のことです。ひとりの商人(あきんど) が山里を歩いているうち、道にまよってしまいました。よわった商人は、家がないかとあちこち歩きまわるうち、森の中に入ってしまいました。そのうち、遠くにすばらしく立派なお屋敷が見えてきました。ひと休みさせてもらおうと、喜びいさんで屋敷に立ち寄りました。

するとそこに、とても美しい女の人が現われたのです。そして 「どうぞ、ゆっくりお休みください。このあたりは、訪れる人もなく、とてもさみしゅうございます。よろしかったら、泊まっていただいてもかまいません」 というではありませんか。商人は、根がなまけ者でしたので、言葉にあまえて、このお屋敷に居ついてしまいました。いつも、あたたかいごはんとみそ汁、おいしいおかずを出してもらえたからです。

そんなある日のこと、女の人がいいました。「私は、少しのあいだ、町へ用足しにでかけなくてはなりません。この屋敷には12の部屋がございます。どの部屋をのぞいてもかまいませんが、12番目の部屋だけは、のぞかないでください」。商人は、部屋を見るより、昼寝でもしているよとこたえました。

ところが、女の人が出て行ってしまうと、たいくつでしかたがありません。ちょっとだけ部屋を見てみようと、最初の部屋をのぞいてみました。そこには、門松が立っていて、お正月のしたくがしてありました。2番目の部屋をのぞくと、みごとな梅の木が花をさかせています。3番目の部屋は、桃の節句。4番目の部屋はお釈迦さまのおまつり。5番目の部屋は、端午の節句、6番目は虫送り。7番目はお盆のお供えものがいっぱい飾ってあります。商人はおもしろくなって、次々に部屋をのぞきまわりました。

こうして、12番目の部屋まできて、決して開けてはいけないといった女の人の言葉を思いだしました。でも、ちょっとだけならいいだろうと、戸を少し開けてみました。すると、そこには大きな鳥の巣があって、戸を開けたとたん、一羽のうぐいすが舞いたつと、どこかに消えてしまいました。

ふと気がつくと、お屋敷はあとかたもなく消えていて、商人は深い山の中にぽかんとたたずんでいました。

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