児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年07月

今日7月24日は、「三銃士」 や 「モンテクリスト伯」(巌窟王) などの長編小説を著したフランスの作家アレクサンドル・デュマが、1802年に生まれた日です。

固い友情でむすばれた青年ダルタニアンと3人の剣士が活やくする、痛快な歴史物語『三銃士』。無実の罪でとらえられた男が、やがて牢獄をぬけだして、次つぎに復しゅうしていく冒険物語『モンテ・クリスト伯』。この2つの名作を書き残したのは、父親のデュマです。そして、その息子も『椿姫』という、かわいそうな女の悲しい恋の物語を書いて名をあげました。やはり、デュマという名前です。

ふたりのアレクサンドル・デュマという名前は、まったく同じでした。だから、歴史のうえでは、父親を大デュマ、息子を小デュマとよんで区別しています。

1802年に、北フランスのビレール・コットレという町で生まれた大デュマは、4歳のときに軍人の父を亡くし、貧しさのため小学校へはほとんど行けませんでした。しかし、負けん気の強い大デュマは、少しも、くじけませんでした。母や神父から文字をおそわると、さまざまな本を読みあさり、少年時代を明るくすごしました。

「いつかは、ぼくも、おもしろい劇や物語を書きたい」

大デュマの胸のなかで、作家になる夢が、しだいにふくらんでいきました。そして、20歳のとき、わずかなお金をポケットに入れるとパリへ出て、はたらきながら勉強を始めました。

7年のち、心にえがいていた夢が花開きました。歴史を劇にした『アンリ3世とその宮廷』がパリの劇場で上演され、大評判になったのです。大デュマは、いちやく有名な劇作家になり、おおくの戯曲を発表しました。また、40歳をすぎたころからは小説に力をそそぎ、68歳で生涯を終えるまでに、250編を越えるおもしろい作品を書きつづけました。

小デュマは、1824年に生まれました。大デュマの、本当の妻の子どもではありませんでした。

『椿姫』を書いたのは、まだ24歳のときでした。早くから、父といっしょに都会ではなやかな生活をしましたが、自分が私生児でしたので、町の片すみでしいたげられている女に心をひかれて、この小説を書きあげたのです。そして、それからのちも、さまざまな社会問題をするどくみつめて、苦しい世の中を生きぬく人びとをえがきつづけ、71歳で亡くなりました。

小説『椿姫』は、19世紀の半ばすぎから歌劇として上演されるようになり、いまも、世界の名歌劇のひとつに数えられています。大デュマも、小デュマも、物語の組み立てかたが天才的な小説家でした。

さてこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 9巻「スチーブンソン・シューベルト・アンデルセン」 の後半に収録されている7篇の「小伝」のうち「デュマ父子」から引用しました。近日中に、300余篇の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

なお、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「レディバード100点セット」54巻目に、大デュマ作 「三銃士」 の翻案日本語参考訳を収録しています。また、昨年7月24日のブログ「今日はこんな日」では、1927年の今日亡くなった 「芥川龍之介」 を紹介していますので、あわせて目を通されることをおすすめします。

今日7月23日は、農家に生まれ、幼い頃に両親を失いながらも刻苦して小田原藩士となり、各地の農村の復興や改革につくした江戸後期の農政家・二宮尊徳(にのみや そんとく)が、1787年に生まれた日です。

1945年、太平洋戦争が終わって何年かまでは、全国のたいていの小学校の校庭には、たきぎを背負って本を読みながら歩いている二宮金次郎 (尊徳の子どものころの名) の銅像がみられました。働きながら、立派に勉強を続ける金次郎を見習うようにということからでした。その銅像の大半が戦後まもなく取りはらわれてしまったのは、二宮尊徳の倹約や節約を奨励する考え方が国家主義に利用されたことと、人間の権利を守り生活の豊かさを求める風潮、民主主義を掲げる時代にふさわしくないというのがその理由でした。

金次郎は両親を失ったあと、おじさんの家に引き取られながらも、懸命に働きました。そのかいがあって、19歳の時に独立、24歳の時に小田原藩の重臣である服部家の再建をひきうけて3年で成功、つぶれた二宮家を再興させました。さらに、小田原藩家老の家計の再建をたのまれ、持ち前の倹約と勤勉をとなえて、5年がかりでをたて直しました。こうした功績により、35歳で小田原藩士にとりたてられ、小田原藩と関係の深い下野(栃木県)の3つの村のたて直しを、15年間現地にとどまって、自らさしずしながら成功に結びつけました。

56歳の時には幕府の役人にめしかかえられ、幕府の領地である日光89か所の村の復興を手がけるなど、1856年70歳でなくなるまでに、600以上もの町村を復興させました。

2004年に環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性のワンガリ・マータイさん(アフリカ人のノーベル賞も初)が、2005年の来日の際に、感銘を受けた日本語は「もったいない」と大きく報道されました。大量生産、大量販売、大量消費という戦後社会を象徴する経済の仕組みへの反省と、環境保護が叫ばれている今日にあって、その対極にあるような、尊徳の掲げる「倹約と勤勉」という基本テーマは、あらためて見直されるべき時代なのではないでしょうか。

なお、二宮尊徳の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の「二宮尊徳」を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

今日7月22日は、室町時代に現在も演じられる多くの能をつくり、「風姿花伝」(花伝書) を著して能楽を大成した世阿弥(ぜあみ)が、1363年に生まれた日です。

日本に古代から伝わってきた芸能のひとつに、猿楽とよばれるものがありました。こっけいな、物まね、曲芸、おどりなどを中心にした芸です。神社や寺の祭り、貴族の集まりなどで、人びとを楽しませるためにおこなわれてきました。

世阿弥は、この猿楽に、奥深い歌や舞いや劇をとり入れて、能楽とよばれる新しい芸術をつくりあげた人です。猿楽を演じる観世座という一座をおこし、のちに能楽観世流の祖とあおがれるようになった能役者観阿弥(かんあみ)の子として生まれ、幼いころから、父のきびしい教えをうけて成長しました。

12歳になったころ、世阿弥の能役者としての道が、大きく開かれました。猿楽に舞いをくわえた猿楽能を、室町幕府の第3代将軍足利義満の前で父といっしょに演じて、義満にかわいがられるようになったのです。観阿弥、世阿弥の芸がすばらしかっただけではなく、美少年だった世阿弥のすがたが、このとき16、7歳の義満の心をとらえたのだろう、といわれています。そののちの世阿弥は、祭りや歌の会などにも義満にまねかれ、貴族と交わる生活を楽しむようになりました。

しかし、自分の芸をみがくことは、けっして忘れませんでした。能の道に生きることを、しっかり心に決めていたからです。

世阿弥は21歳のころ父が亡くなると観世座のかしらをひきつぎました。そして、観世座をさらに発展させるいっぽう、能とはなにか、能の歴史、能を演じるものの心がまえを説いた『風姿花伝』などの本をまとめ、亡き父をのりこえて、能の芸術を深くきわめていきました。

とくにきびしく追いもとめたのは、平凡で静かな動きのなかに深い味わいをだす、幽玄の世界です。人びとに目と耳で楽しませてきた猿楽を、心で感動させる芸へ高めようとしたのです。自分の筆で数おおくの能の名作を書き、また、能芸術論『至花道』『花鏡』などもつぎつぎに発表して、能楽の花を大きく開かせていきました。

ところが、義満が亡くなったあと、やがて第6代将軍義教(よしのり)の世になると、義教につめたくあつかわれ、思いがけない悲運におそわれました。観世座のかしらの地位をうばわれただけではありません。1434年には、わけもわからないうちに佐渡へ流されてしまいました。そして、数年ごに京へもどってからも消息のわからないまま、およそ80年の生涯を終えてしまいました。

晩年の世阿弥は不幸でした。しかし、世阿弥の心はいつまでも生きつづけ、能は日本の伝統芸能へと発展しました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 23巻「足利尊氏・一休・雪舟」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日7月18日は、ドイツのナチス党をひきい第2次世界大戦をひきおこした独裁者ヒトラーが、1923年11月に獄中で 「わが闘争」 を著し、1924年のこの日、上巻が刊行された日です。ユダヤ主義と民主主義に反対するナチスの軍事行動の、予告通知ともいうべき内容になっています。

ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーは、1889年オーストリア北部で生まれました。父は、あまり地位の高くない役人でした。しかし、この父も、そして母も次つぎに失い、ヒトラーは18歳のときに、妹とふたりだけの孤児になってしまいました。

少年時代、ヒトラーは、実業学校を2度も3度も落第しました。性格が少しかたよっていたからだ、といわれています。画家を志して受験した美術学校の試験にも失敗しました。進学をあきらめてから5年のあいだは、定まった仕事にもつかずに、絵をかいて売るなどして、気ままにくらしました。

1914年、第1次世界大戦が始まりました。25歳のヒトラーは、オーストリア国民でありながら、国境を越えてドイツ軍へ入隊しました。ドイツ帝国主義にあこがれていたのです。戦場では、伝令兵として手がらをたてました。でも、戦争はドイツの敗戦に終わりました。ヒトラーが、戦勝国へのにくしみをたぎらせて、心に闘争をちかったのは、このときです。

1919年、ヒトラーは、のちにナチス党とよばれるようになったドイツ労働者党へ入って、政治活動を始めました。2年ごには、早くも党首になり、独裁者への第一歩をふみだしました。

「ドイツ人はすぐれているのだ。強力な政府をつくれ。強い軍隊をもて。共産党はつぶせ。じゃまになるユダヤ人は追いだせ」

ヒトラーは、たくみな演説であやつって、労働者、資本家、軍人をひきつけ、ナチス党の力を大きくのばしていきました。

1923年には、政府をたおす革命に失敗して捕えられ、牢へ入れられました。ナチス党も解散させられました。しかし、ヒトラーは、口をつぐみませんでした。獄中で 「わが闘争」 を書きつづって、ドイツ帝国の建設をうったえつづけました。

牢をでて、およそ10年ご、ヒトラーは、ついにドイツ最高の指導者になりました。たてなおしたナチス党を、ドイツ最大の政党へ育てあげ、その力で、大統領の地位についたのです。

「わたしは総統である」。ヒトラーは、こう叫んで立ちあがりました。国民の自由をうばい、反対者は、ようしゃなく捕えました。1939年9月1日、ドイツ軍をポーランドに侵入させて第2次世界大戦をひき起こし、独裁者の道をつき進みました。そしてユダヤ人を、つくりあげた人種差別でドイツ国民の敵にしたてあげ、アウシュビッツ強制収容所で数百万人も虐殺したのです。

ドイツの人びとがナチス党の残虐さに気づいたときは、戦争は終わり、ヒトラーは自殺して独裁者の生涯を終えていました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 17巻「アインシュタイン・ヘレンケラー・チャップリン」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日7月17日は、江戸時代の中期、奥州白川藩主松平定信(まつだいら さだのぶ)が、若くして老中に抜てきされ、田沼意次(おきつぐ)一族の放漫財政を批判して、1787年に幕政改革を開始した日です。

1787年から1793年にわたって、「寛政の改革」 とよばれる江戸幕府たてなおしの、すぐれた政治がおこなわれました。松平定信は、この改革を進めた政治家です。

定信は、幕府8代将軍徳川吉宗の3男田安宗武の子として、1758年に生まれました。幼いころから学問をこのんだ定信は、陸奥白河藩主(福島県)の松平家へ養子に迎えられ、25歳で11万石の藩主になりました。

定信が、まず初めに、すぐれた政治家の力をみせたのは、このときです。ちょうどこのころ、全国に大ききん(天明の飢饉)が起こり、白河藩でも数えきれない人びとが飢えと伝染病で死んでいきましたが、藩主定信は、食糧を集め、倹約を奨励し、農業の改革につとめて、みごとに危機をのり越えました。

1787年、定信は、まだ29歳の若さで幕府最高職の老中の座につきました。それまで老中をつとめていた田沼意次の一族が政治の失敗で幕府を追われると、白河藩での政治と、教養ある人格がみとめられて、意次のあとの老中に迎えられたのです。

定信は、その年にわずか14歳で第11代将軍の位についたばかりの徳川家斉(いえなり)を助けながら、幕府のたてなおしにのりだし、まず、政治にたずさわる人びとをすっかり入れかえました。

つぎに、苦しくなっていた幕府の財政を豊かにしていくために、白河藩での政治と同じように農業の発展に心をくばりながら、やはり徹底した倹約を奨励し、物価があがるのを防いで人びとの生活が安定するように力をつくしました。大ききんのあとで、人びとの心に不安が残っていたからです。

また、農業をすてて江戸へでてきた人たちには、もういちど農業へもどることをすすめ、それでも江戸の町に失業者がふえると人足寄場をもうけて宿のない人びとを集め、手に技術を持たせてやるようにしました。いっぽう、武士たちの心も正させるために、各地に学問所を建てて学問や武術も盛んにしました。

ところが、生活がきゅうくつすぎると訴える武士や、物が売れないで困るという商人たちが現れ始めたと思うと、1793年、定信は、とつぜん老中をやめさせられてしまいました。自分の権力が強くなっておおくの敵をつくることをおそれていた定信は、このとき、心よく老中職をひいたということです。

そのごの定信は、ふたたび藩の正しい政治を進めたのち、年老いてからは自伝や随筆を書くかたわら、日本画も楽しみ、70歳で亡くなりました。老中として活やくしたのは,わずか6年でしたが、寛政の改革は長くたたえられました。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 29巻「小林一茶・間宮林蔵・二宮尊徳」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

なお、定信の 「寛政の改革」 があまりに厳しかったために、老中職をしりぞいた後、こんな落首(匿名のざれ歌)が出たのは有名です。

白河の 清きの魚の住みかねて もとの濁りの 田沼こいしき

↑このページのトップヘ