児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年07月

今日7月31日は、全国を調査して 「遠野物語」 をはじめ 「雪国の春」 「海南小記」 などを著し、日本民俗学を樹立した学者・柳田国男が、1875年に生まれた日です。

古くから庶民のあいだに伝え受けつがれてきた、生活のすがたや、文化や、人の心などを研究する学問を民俗学といいます。柳田国男は、この学問を、日本で初めてうちたてた人です。

国男は、兵庫県神崎郡の田原村(いまの福崎町)で、医者の松岡操の6男として生まれました。姓が柳田になったのは、26歳のときに、柳田家へ養子に入ってからのことです。

子どものころの国男は、なによりも本を読むことがすきでした。また、記憶力とすぐれた感覚にめぐまれ、まわりのことを深く見つめ、深く考えながら成長しました。

12歳のときに兄をたよって上京すると、文学にしたしむようになり、やがて高等学校をへて東京帝国大学法科大学(いまの東京大学法学部)へ進んでも、さらに、25歳で大学を終えてからも、おおくの詩人や小説家との交わりをつづけました。

大学で、農業を守り育てるための農政学を学んだ国男は、卒業ご、農商務省へ入りました。そして、役人として農村をめぐり歩くうちに深く興味をいだくようになったのが、民俗学です。

地方によって、農村の文化や農民の生活に大きなちがいがあることや、各地に、めずらしい伝説がうずもれていることなどが、文学と農民を愛する国男の心をとらえてしまったのです。やがて、山深い村に伝わる、古い日本人の生活や心を聞き集めて『後狩語記』『遠野物語』などを著わし、また、雑誌『郷土研究』を創刊して、民俗学研究の道をひらいていきました。

39歳のときに貴族院書記官長という地位にまでのぼった国男は、その5年ごに、およそ20年間の役人生活をやめてしまいました。自由に、学問にうちこんでいくことを考えたからです。

「日本人の、ほんとうのすがたは、どうなんだろう……」

こんな疑問がますます深まっていく国男は、そのご、朝日新聞論説委員にむかえられたあいだも、東北地方へ足をむけては『雪国の春』を、奄美、沖縄を旅しては『海南小記』を著わし、各地に残る民俗の比較研究をつづけていきました。

1932年には朝日新聞もしりぞき、3年ごには、全国の民俗学研究者によびかけて『民間伝承の会』をつくり、雑誌『民間伝承』を発行して、日本じゅうのむかし話を集めました。国男は、きっと、日本人の心のふるさとを、さがし求めたのでしょう。

戦後も、民俗学研究所を設立して、やはりこの道ひとすじに生きた国男は、76歳のとき文化勲章を受け、1962年に87歳の長い生涯を終えました。晩年には、これからの日本の子どものことも考えつづけた、心のやさしい学者でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 34巻「夏目漱石・野口英世」 の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日7月30日は、明治・大正・昭和期の小説家で、「春琴抄」 「細雪(ささめゆき)」 「痴人の愛」 「鍵」 など、耽美(たんび)主義という文学の確立をめざした谷崎潤一郎が、1965年に亡くなった日です。耽美主義というのは、19世紀後半、フランスやイギリスを中心におこった文芸思潮で、ボードレール、ワイルド、ゴーチエらがその代表。生活を芸術化して、官能の享楽を求めました。

盲目の春琴と、春琴に永遠の愛をささげるために自分も自らの手で目を刺しつぶして生きる佐助の、清らかな愛をえがいた『春琴抄』。落ちぶれた商家で、鶴子、幸子、雪子、妙子の4人姉妹がわびしくても平凡に生きていこうとするすがたを、まるで絵巻物のようにえがきあげた『細雪』。

谷崎潤一郎は、このような美の世界の名作を、明治、大正、昭和の半世紀にわたって書きつづけた作家です。

1886年東京に生まれ、幼いころの潤一郎は、町でもひょうばんの美しい母に、やさしく育てられました。いつも甘やかされ、小学校へあがったときも、ばあやがついてこないと学校へもいけないほどでした。ところが、父の仕事が、しだいにうまくいかなくなり、東京府立第一中学校へ入学してからは、家庭教師として他人の家へ住みこまなければ、学校へ通えないほどになってしまいました。
 
19歳で第一高等学校へ、22歳で東京帝国大学へ進みました。中学生時代から文章を書き始めていましたが、「作家になろう」 と決心したのは、高等学校3年生のころでした。大学へ入って3年めに、劇作家の小山内薫らと文芸雑誌『新思潮』(第2次)をだし『刺青』『麒麟』などの短編小説を発表しました。そして、1年ごには、流行作家の永井荷風の目にとまってほめられ、25歳の潤一郎はまたたくまに、新進作家として注目されるようになりました。しかし、このときすでに大学は、授業料が払えずに退学になっていました。

荷風にみとめられたことは幸いでした。でも、それは偶然ではなく、潤一郎が、たとえ人間の性をえがいても、それを美の世界へ高めることのできる力を、もっていたからです。やがて発表した『痴人の愛』も、ふしだらな性の世界をえがいたものでしたが、ひとつの美を見つめたものとして、たいへんな人気をよびました。

1923年、関東大震災が起こると関西へ引っ越しました。このころから『盲目物語』『蘆刈』『春琴抄』など、日本の古い文学の伝統をとり入れた作品をおおく書くようになり、50歳をすぎると『源氏物語』を現代語に書きなおす大事業を完成して、その功績と文章の美しさがたたえられました。

『細雪』を発表したのは、このあとのことです。『細雪』がでると、作家潤一郎に、いくつもの文化賞といっしょに文化勲章がおくられました。

潤一郎は、そのごも『鍵』『瘋癲(ふうてん)老人日記』などの独特の名作を書き残し、1965年に亡くなりました。79歳でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 35巻「与謝野晶子・石川啄木」 の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日7月29日は、「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが、1856年に亡くなった日です。なお、有名な 「トロイメライ」 は、全13曲からなる 「子どもの情景」の7曲目に登場する曲。

『トロイメライ』で親しまれているドイツの作曲家ローベルト・シューマンは、幼いころから音楽がだいすきでした。1810年に生まれ、7歳ですでに作曲を始めたといわれています。また、10歳ころから、ハイネやバイロンらの叙情詩を愛するようになり、音楽と文学にひたって少年時代をすごしました。

しかし、16歳のときに父を亡くし、やがて、法律を学ぶために大学へ進みました。生活の安定した道へ進んでくれることを願う母に、さからうことができなかったからです。でも、音楽への夢を断ち切れないシューマンは、母に秘密で、ピアノや作曲を学びました。そして、20歳の年の春、イタリアのバイオリン奏者パガニーニの演奏を聞いたとき、もう、だれにも動かすことのできない決断をしました。

「音楽はすばらしい。やはり音楽家になろう!」

シューマンは、有名なピアノ教授ウィークの弟子になりました。ところが、ピアノにうちこみ始めて2年めに、むりな練習がたたり指をいためてしまいました。もう、ピアニストにはなれません。シューマンは、作曲家をめざす決意をしました。

『謝肉祭』『交響的練習曲』『子どもの情景』。五線紙を前にしたシューマンは、春の野の光のような美しい曲を,つぎつぎに生みだしていきました。このころ、ウィークの娘クララとひそかに愛を誓いあっていたシューマンは、あふれでる愛を名曲にちりばめて、クララへささげたのです。

1840年の秋、ウィークの反対をおしきって、クララとむすばれました。シューマンは幸せでした。ペンをとれば、うちふるえるような喜びが名曲になって、歌曲集『ミルテの花』『女の愛と生涯』『詩人の恋』などがほとばしりでました。また、それでもおさえきれない歓喜は『第1交響曲・春』『第4交響曲』『第3交響曲・ライン』などを生み、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家の地位を、きずいていきました。

いっぽう、文学に親しみ文才にもめぐまれていたシューマンは、音楽評論家としても活やくして、ショパン、ブラームス、メンデルスゾーンなどの音楽家を、世に送りだしました。

30歳から40歳にかけては交響楽団の指揮棒もふり、さらにおおくの曲を作りました。しかし、1856年の死は、あまりにも不幸でした。若いころからの精神病がひどくなってライン川に身を投げ、救助されて精神病院に閉じこめられたまま、2年ごに46歳の生涯を終えたのです。シューマンは、音楽と、詩と、そして妻クララを愛しすぎたのかもしれません。

なお、今日7月29日は、「ひまわり」「アルルのはね橋」「自画像」などを描き、後期印象派の代表的な画家といわれるゴッホが、1890年に亡くなった日でもあります。ゴッホの生涯につきましては、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)の 「ゴッホ」 をご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

今日7月28日は、世界で一番有名なうさぎ 「ピーターラビット」 シリーズ23点の作者ビアトリクス・ポターが、1866年に生まれた日です。ポターが世界的な環境保護団体 「ナショナル・トラスト」 運動の支持者だったことも有名です。また、ポターの生涯を描いた映画 「ミス・ポター」 が、昨年秋に日本語版ロードショー公開されました。

ビアトリクス・ポターは、ロンドンのケンジントンに生まれました。父親は弁護士で、ポターは何人もの使用人に囲まれながら、両親よりも乳母や家庭教師と日々を送っていました。

両親とも芸術に造詣が深く、6歳年下の弟も油絵をたしなんでいました。ポターは、ウサギ、ネズミ、カエル、イモリ、トカゲなどたくさんの小動物を自分の部屋に飼っていて、それらをスケッチすることで絵の才能を育んでいきました。とくにピーターラビットとベンジャミンという名の2匹のうさぎは、ポターの代表作である冒険物語になったことはいうまでもありません。ポターはまた、ケンジントン公園にある 「自然史博物館」 を幾度も訪れて展示物をスケッチしました。夏には家族で毎年のように休暇をすごすスコットランドも、姉弟のお気に入りで、田園風景や野生の動植物と終日過ごしたと思われます。

ポターが16歳になったとき、一家はこれまでの習慣を変えて、夏のあいだ、「湖水地方」 に大きな家を借りることにしました。ポターはこのときはじめて、後に人生に大きな影響をおよぼす場所にであったのです。多くのピーターラビットシリーズの絵本は、この湖水地方を舞台に描かれました。そしてポターは、絵本を売ってえた収益で、ベストセラー作家としてポターの地位を不動のものにしました。

「ピーターラビットのおはなし」 は、1902年にフレデリック・ウォーン社から出版されました。このお話は、以前ポターの家庭教師だった人の息子ノエル君をはげます絵手紙から生まれました。この本が出版されたとき、ポターは36歳で、両親とともに平穏なくらしをしていました。

1905年、ポターの出版を手がけ、いっしょに仕事をしてきた編集者ノーマン・ウォーンからプロポーズされ、ポターは即座にこれを受け入れたものの、「商人のところへ嫁にやるわけにはいかない」 と両親の大反対にあいます。不幸にも、その数週間後、ノーマンは貧血症でこの世を去ってしまいました。

そんな中でも、ポターのピーターラビットおはなしシリーズの人気はますますが高まり、やがてポターは独立して、生計が立てられるようになっていき、湖水地方に、最初の所有地ニアソーリ村の農場を手に入れたのでした。そして、1913年、ポターの財産管理をしていたヒーリスという事務弁護士と結婚しました。

47歳のとき、すでにピーターラビットと仲間シリーズも18点に及んでいました。その頃には、ポターは絵本をかくことよりも、農業やヒツジの飼育に時間と労力をさくようになっていました。農業の知識を充分に備え、地域に貢献していたポターは、湖水地方のヒーリス夫人として、多くの人々の尊敬を集めていたのです。

ポターは、心から愛した湖水地方の田園とそこに住む動物たちのために、この地を保護する努力を続けました。1943年ポターは亡くなりましたが、そのとき、15の農場と多数のコテージを含む4000エーカーもの土地をナショナル・トラストに寄贈しました。ポターの遺した湖水地方の土地は、次の世代の人々を魅了する贈り物として、今も大切に守られています。

なお、昨年9月12日号のブログでは、映画「ミス・ポター」 について記述しています。あわせて、参考にしていただければ幸いです。

今日7月25日は、蒸気機関車の実用化に成功したイギリスの技術者スチーブンソンが1814年、第1号の蒸気機関車ブリュッヘル号を試運転した日です。

スチーブンソンは1781年、北イングランドの炭鉱地にある鉱山村に生まれました。当時のイギリスは、蒸気機関や紡績機が発明され、にわかに世界一の工業国になっていました。産業革命がはじまっていて、石炭はいくらあっても足りないほどでした。

スチーブンソンの父は、そんな炭坑のかまたきでした。景気のよい鉱山であっても、働く人たちの賃金はおどろくほどわずかで、スチーブンソンを小学校へやることもできません。

子どものころから、父の助手として働かなくてはならないスチーブンソンにとって、炭坑は学校であり、生きた書物でした。いつのまにか、蒸気機関のしくみをおぼえ、16歳には一人前のかまたきになり、17歳には機関助手に出世しました。もっと勉強したいと思ったスチーブンソンは、18歳で夜学に通い、年下の子どもたちと机を並べて、はじめて読み書きを学んだということです。向学心が旺盛なためなのでしょう。子どもたちが4、5年かかる勉強を1年で学びとってしまいました。

その後のスチーブンソンは、苦難を重ねながら蒸気機関車をこしらえ、やがて1825年にストックトンとダーリントン間21kmの鉄道建設に成功することになります。

「鉄道ができたら、牛は草を食べなくなるし、ニワトリは卵を産まなくなる。空気がにごって、鳥は空を飛ばなくなる」 「機関車の火の粉が飛んできて、あちこちで火事がおこる」 「鉄道が通ると馬車で働く人たちの仕事がなくなる」 など、反対する人びとやさまざまな障害とどのようにたたかってきたか、1848年67歳で亡くなるまでの生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「スチーブンソン」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

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