児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年06月

今日6月9日は、「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 などを著し、イギリス人には朝のベーコンと卵のように、欠かすこと出来ない作家とさえいわれるディケンズが、1870年に亡くなった日です。

18世紀から19世紀にかけて、イギリスを中心に産業革命がおこりました。これまでの手工業から、水力や動力を用いて大量に物を生産する工業制機械工業がとり入れられたことによって、社会構造も大変革がおこりました。機械の発達は、労働者の中から大量の失業者を生み出しました。彼らは機械をのろい、石を投げつけ、社会には悲劇がたくさんおこりました。ディケンズはそんなめぐまれない人々に涙をそそぎ、人間らしさを失わずに生きつづけることの大切さを、ユーモアをまじえながら、さまざまな作品に描きました。イギリスばかりでなく、今も世界中の人々に読まれ続けているのは、そんな作者の深い人間性にあるといってよいでしょう。

チャールズ・ディケンズは、1812年にイギリスの港町ポーツマス近くで生まれました。父親は海軍の下級書記でしたが、お人よしで不運な人でした。ディケンズは9歳の時、父の転勤により、ロンドンに移り住みましたが、身体が弱くひっこみじあんで、小さな牧師の学校に通いながらも、静かに読書をするのが好きな子どもだったようです。12歳の時、借金がもとで父親は刑務所に入れられました。そのため、ディケンズは靴ずみ工場で、レッテルはりの仕事をしなくてはなりませんでした。やがて、法律事務所に勤めながら、速記の勉強をし、19歳で新聞記者になりました。

21歳のとき、ボズという名である雑誌に載せていたエッセーが、挿絵といっしょに人気が出て、3年後に 「ボズのスケッチ」 というタイトルで出版されると、たちまち人気作家になりました。以来、「オリバー・ツイスト」(みなし子オリバーを中心にあわれな浮浪児たちを描いた作品)、「骨董店」(少女ネルと骨董店主とのさすらいの旅)、「デイビット・カッパーフィールド」(自伝的小説)、「二都物語」(フランス革命を題材に、パリとロンドンを舞台として、親たちがかたき同士となった恋人たちを主人公にした歴史小説) など、次々と発表していきました。とくに 「クリスマスブック」 は有名です。1843年に発表した「クリスマスキャロル」(金持ちでよくばりの老人が、友人のゆうれいの忠告で生まれ変わる名作) にはじまり、毎年のように心暖まる作品を発表し続けました。いまも、このシリーズは、欧米のクリスマスシーズンには欠かせない読み物として定着しています。

ディケンズは、小説や劇、エッセーを刊行するほか、4つの雑誌編集にもかかわり、著書と同様にすばらしい売れ行きをみせました。さらに、外国に自作の朗読旅行にでかけたりもしました。こうして、人間わざとは思えないほどのむりがたたって、1870年、58歳で亡くなりました。

なお、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック 「レディバード100点セット」 には、ディケンズの3作品、55巻「二都物語」、 61巻「クリスマスキャロル」、 67巻「オリバー・ツイスト」 の日本語参考訳を収録しています。ぜひ目を通すことをお勧めします。

今日6月6日は、明治・大正期に活躍した日本の児童文学の草分けとなった作家 巌谷小波(いわや さざなみ) が、1870年に生まれた日です。

小波の父親巌谷一六は、近江藩医の家系、明治政府の高級官僚から貴族院議員にまでなった人で、書家としても著名でした。小波の少年時代は、何の不自由のない裕福な家庭でそだてられました。でも、父親は小波を医者にしたいと考えていましたが、中学、高校と進むうち、文学の道にすすみたいと考えるようになりました。そして、20歳になると、周囲の反対を押しきって、硯友社という尾崎紅葉らの文学結社の同人になりました。

大人向の作品を書きましたが、やがて子ども向けの作品を書くようになり、1891年に発表した 「黄金(こがね)丸」 が大評判になりました。ストーリーは次のようなものです。

黄金丸という小犬がいました。お父さんはトラとキツネに殺され、お母さんも、悲しみのうちに死んでしまいました。小犬ではあっも、黄金丸は、親のかたきをうとうと決心しました。さまざまな苦心の上、ある猟犬の助けをうけて、ついにトラとキツネを退治しました……。

小波は、この作品で作家的な地位を確立し、さらに 「きのこ太夫」 などつぎつぎと作品を発表していきました。博文館という出版社に入った小波は、雑誌 「少年世界」 「少女世界」 「幼年画報」 などの主筆となって、「日本昔噺」(24巻)、「世界昔噺」(100巻) ほか、再話や翻案を含むぼう大な著作を残しました。有名な 「桃太郎」 や 「花咲爺」 などの民話の多くが、小波によって再生されたといってもよいほどです。今日の視点から見ると、少しどろくささが残る感がありますが、そのスケールの大きさは比類がなく、日本の児童文学の開拓者といっても過言ではありません。

小波は、今でも歌われることのある文部省唱歌 「はなさかじじい」 や 「金太郎」 などの作詞をしたことでも知られています。

私の好きな名画・気になる名画 23

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髪をぼうぼうと長く伸ばし、あごのまわりに濃いひげをはやした若い男が、パイプをくわえてこちらを見おろしています。顔はゆううつそうですが、自信にみなぎっている感じがします。これは、「写実主義」 (英雄や貴族が活躍するような歴史画、天使など想像する宗教画などを描くのでなく、自分が生きている時代の現実を、理想化せずにありのままに描く) という画風を標ぼうしたクールベが、28歳の時に描いた自画像です。クールベは自画像をいくつも描いているため、この絵は 「パイプの男」 と呼ばれています。

クールベは、1819年にフランス東部にある農村オルナンに生まれました。父は豊かな地主、母は代々法律家の家系でした。近くの町にある王立の中学に入り、勉学のかたわら、幼い頃から絵が好きで、地元の画家に師事したりしていました。やがて、21歳のとき、両親の勧める法律を学ぶためにパリにやってきました。でも、絵画への関心があまりにも強く、いつのまにか本格的な画家になろうと決心、ルーブル美術館で名画の模写をしたりしました。特に心酔した画家は、ティツィアーノ、ベラスケス、ルーベンス、レンブラントらだったようです。

そして23歳で、画家の登竜門ともいうべき官展(サロン) に出品した 「黒い犬を連れたクールベ」 が入選すると、オランダを旅しました。そこで目にしたレンブラントやフェルメールらの絵にいたく感銘、刺激されて、故郷のオルナンの石切人、埋葬にむかう村人など、当時フランスではあまり描かれることのなかった、ふつうの市民や村人たちを数多く描くようになりました。

1855年、パリで万国博覧会が開かれることになり、クールベは 「オルナンの葬式」 「画室のアトリエ」 という自信の大作2点を出品したところ、拒否されてしまいました。腹を立てたクールベは、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、「写実主義・クールベ展」 という大看板をかかげた個人展覧会を開きました。これが大評判になり、その名は海外にまで広まりました。

クールベには、生来の闘争的な反骨精神を発揮することが多く、1871年にパリに創られた世界最初の労働者政権である 「パリコミューン」 にも参加しました。しかし、コミューンが倒れて新政府が誕生すると、クールベは逮捕されてスイスに亡命、5年後の1877年の大晦日、フランスに帰ることなくその地で亡くなってしまいました。

しかし、クールベの掲げた 「写実主義」 は、現実そのものがもっている力強さや美しさを表現したことで、次の時代の印象派の画家たちに影響力をあたえ、近代絵画の道筋をしっかり示したと高く評価されています。

今日6月4日は、桓武天皇が都を平安京に移し 「平安時代」 のはじまったころ、比叡山に天台宗を開き、奈良の旧仏教に対し大乗仏教を主張して、真言宗を開いた空海とともに、日本仏教の建設に務めた最澄(さいちょう) が、822年に亡くなった日です。

都へつづく国分寺の前の道を、さまざまな人が通ります。家来をつれた人や、きれいに着飾った人にまじって、やせほそったからだに重い荷を背負った貧しい農民がいます。つかれはてて道ばたにうずくまる人もいます。病人もいます。

「人間は、どうしてこんなに不平等なんだろう」

国分寺で修行しながら、その光景を見て、いつも心を痛めている若い僧がいました。この僧が、のちに、比叡山の延暦寺に天台宗をひらいた最澄です。

最澄は、767年に、近江国(滋賀県)で生まれました。父の三津首百枝(みつのおびと ももえ) は、中国から日本へやってきた渡来人の子孫でした。百枝は、自分の家を寺にかえてしまうほど、仏教を深く信仰していました。そのため、最澄もしぜんに僧への道を進み、11歳のときに髪をそって国分寺へ入ったのです。

最澄は、18歳のときに東大寺で、一人前の僧になりました。ところが、だれもが、大きな寺へ入って早く地位の高い僧になろうとするのに、最澄は比叡山にこもって、修行を始めました。国分寺の前の道で見た光景が忘れられず、そのうえ、自分のためだけに祈ろうとする僧たちのすがたが、疑問でしかたがなかったからです。それから、およそ10年、最澄は草ぶきの小さな堂で一心に仏の道をさぐり、794年に桓武天皇が都を平安京に移したころには、最澄の名は朝廷でも知られるようになりました。

804年、空海とともに、朝廷がさしむける遣唐船に乗って唐へわたりました。そして天台宗を学び、1年ののちにたくさんの経文をかかえて帰国した最澄は、桓武天皇に願いでて、ふたたび比叡山へ入り、ここに日本の天台宗を開きました。このとき最澄は39歳でした。

「仏教を心から信仰すれば、だれでも平等に仏になれます」

最澄は、この教えをかかげて、天台宗を広め始めました。ところが、最澄に理解が深かった桓武天皇が亡くなると、生きているあいだ仏につかえて、死ご、自分だけが仏になることを考えている僧たちに、反対されるようになりました。

「仏教にたいせつなのは、仏につかえる形式ではない。心だ」
 
最澄は、このように叫んで、古い考えの僧たちと論争をつづけました。しかし論争が終わらないうちに、55歳で亡くなってしまいました。死のまぎわ、弟子たちに 「自分の利益のために仏につかえてはならぬ」 と遺言したということです。死ご44年すぎた866年に、朝廷から伝教大師の号がおくられました。

なおこの文は、いずみ書房 「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 20巻「藤原道長・紫式部」 の後半に収録されている14名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 44]

むかし、化けるのがじょうずなタヌキとキツネがいました。二人はいつも 「日本一の化け上手は、ほくだ」 といばっていました。そこである日、キツネはタヌキにいいました。「今日こそ、どちらが日本一か決めようじゃないか」 というと、どんどん走っていって、道ばたのお地蔵様に化けて、タヌキを待ちました。

まもなくタヌキがやってきて、お地蔵様の前でお弁当を広げ、おいしそうにおにぎりを食べはじめました。お地蔵様に気づいたタヌキは、お供えにおにぎりを置いておじぎをしたところ、おにぎりが消えています。ふしぎに思ったタヌキは、もうひとつあげておじぎをしたところ、お地蔵様の手におにぎりが半分乗っかっています。(さては、キツネだな) と、お地蔵様の手をたたいたところ、キツネは笑いながら、「ごちそうさま、ぼくの勝ちだな」 といいました。

さて、こんどはタヌキの化ける番です。「ぼくは、殿様に化けるよ。あしたのお昼ごろ、りっぱな殿様になって、お供をたくさん連れてここを通るから、よーく見ておいてね」 と、タヌキはキツネにいって別れました。

よく朝のこと、キツネは道ばたのかげから、タヌキの殿様の行列がくるのを待ちました。でも、なかなか来ないので、ウトウト眠ってしまいました。やがて 「お殿様のお通り」 という声に目をさましたキツネは、びっくりしました。りっぱな殿様の行列が、ゆっくりゆっくりやってくるではありませんか。

「やぁ、タヌキくん、うまく化けたな。負けた、負けたよ」 と、キツネはお殿様の前へ出て行くと、大声で叫びながら手をたたきました。ところが、それは本物のお殿様の行列だったのです。「無礼者、何とふらちなキツネか」 お殿様の家来たちが飛び出して、キツネを何度もたたきました。「ヒャー! 」 キツネは、悲鳴をあげながら逃げていきました。

タヌキは、殿様の行列が来るのを知っていたのにちがいありません。さあ、どちらが化け上手だったかな?

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