児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年06月

今日6月16日は、江戸の大火事の際、木曾の材木を買い占めて巨富を得、事業家として成功した河村瑞賢(かわむら ずいけん) が、1699年に亡くなった日です。

江戸時代の初めに、才智と努力で大実業家になった河村瑞賢は、1618年に、伊勢国(三重県)の東宮村で生まれました。父母は、朝から晩まで泥まみれではたらく、貧しい農民でした。

瑞賢は、12歳のとき父のいいつけで、自分の力で身をたてるために江戸へでて、荷車引きになりました。しかし、20歳をすぎても一人前になることができず、こんどは上方(関西)へ行く決心をしました。ところが、小田原まできたとき、旅の僧に 「江戸でだめだったから上方へ行くという甘い考えはどうかな?」 と、さとされ、西へむかうのをやめました。そして、品川までもどってきたときのことです。

瑞賢は、海べに浮かんでいる、たくさんのナスやウリを見て思わず叫びました。

「お盆で仏さまに供えてあったものだな。そうだ、これを集めて、塩づけのつけ物にして売ればいいじゃないか」

つけ物売りは成功しました。そして、それからの瑞賢は、一歩一歩、大商人への階段を登り始めました。

1657年、江戸の町に、明暦の大火とよばれる、大火事が起こりました。するとこのとき、材木商人をしていた瑞賢は、自分の家も焼けたのもかまわずに木曾へ行き、たくさんの材木を買い集めました。焼け野原の江戸で材木はとぶように売れ、瑞賢は大金持ちになったばかりか、幕府の御用商人になることができました。

1670年、52歳の瑞賢は、幕府から、奥羽(東北地方)でとれた米を、安全に、しかも早く江戸にはこぶ仕事を命じられました。ほかの商人がはこぶと、船のそう難や、とちゅうの事故がおおく、それに月日がかかりすぎたからです。瑞賢は、安全な航路や、港や、天候をしらべました。しっかりした船を作り、うでのよい船乗りも集めました。そして、太平洋側の東まわりと日本海側の西まわりの、ふたつの航路で、ぶじに、山のような米をはこんでみせました。よく準備をして、よく考えた瑞賢の仕事は、たった1回のそう難もなく、大成功でした。

大商人になった瑞賢は、そののちは川や港の工事、鉱山の開発などにも力をつくして、ついには幕府から旗本にとりたてられ、1699年に、81歳でこの世を去りました。

商人として、また事業家として生きた瑞賢は、いっぽうでは学問をこのみ、たくわえたお金で、おおくの学者のせわをしました。朱子学者新井白石も、せわを受けたひとりでした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 26巻「新井白石・徳川吉宗・平賀源内」 の後半に収録されている7名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

今日6月13日は、「人間失格」 「走れメロス」 「斜陽」 などを著した作家であり、当社 「いずみ書房」 のある三鷹市と縁の深かった作家 太宰治(だざい おさむ) が、1948年に亡くなった日です。

『晩年』 『斜陽』 『人間失格』 などの作品で知られる太宰治は、雪のふかい青森県北津軽郡の出身です。1909年(明治42年)6月19日、大地主で、県会議員でもある父のもとに6男として生まれた太宰治(本名津島修治)は、使用人が10数人もいる、大きな家に住み、めぐまれた少年時代を送りました。

「私は散りかけている花弁(はなびら)であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんなささいなさげすみを受けても死なんかなともだえた」(『思ひ出』)

ほこり高く、しかし、傷つきやすい心をいだいた少年でした。自分の進む道は文学以外にないと決心したのは、中学3年の16歳のときです。弘前高等学校から東京帝国大学(東京大学)仏文科に進んだ太宰は、前から尊敬していた作家の井伏鱒二と会い、小説を書きはじめました。やがて、作品は第1回の芥川賞候補にもなり、新進作家として認められはじめましたが、やさしく繊細で、人一倍はずかしさを感じやすい太宰にとって、生きることすべてが苦痛に思われました。

「私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです。人と顔を合わせて、おかわりありませんか、寒くなりました、などと言いたくもないあいさつを、いいかげんに言っていると、なんだか、自分ほどのうそつきが世界中にいないような苦しい気持ちになって、死にたくなります」(『待つ』)

太宰の文章のなかには、よく 「死」 という言葉がでてきます。実際、30歳になるまでに、睡眠薬を飲んだりして、4回も自殺をはかっています。とくに21歳のとき、女性と鎌倉の海で心中をはかり、女の人は死に、自分だけ助かったことは、太宰にとって大きな衝撃でした。そして罪を犯したという意識に苦しみつづけます。太宰の小説はこうした生きることの苦しみが土台になっています。でも、深刻にかくことは太宰にはできません。悲しい素顔をかくして、人を笑わせるピエロのように、少しおどけてみせるのです。

1939年、妻を迎えた太宰は、次つぎに作品を発表し、戦後は、ぼつ落していく貴族をえがいた 『斜陽』 がとくに評判となりました。しかし 「死」 はつきまとって離れませんでした。1948年6月、太宰は、ふと知りあった女性、山崎富栄と玉川上水に身を投じました。毎年、死体の発見された6月19日 には、墓のある東京三鷹の禅林寺で、太宰をしのぶ 「桜桃忌」 が開かれ、若い人たちもたくさん集まります。太宰の作品の純粋な心が、人びとをひきつけるためでしょう。

この文は、いずみ書房 「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

さて、今年は太宰治の没後60年に当たります。6月19日の 「桜桃忌」(誕生日でもあります) には、例年にまさる太宰ファンが墓前へ訪れることでしょう。三鷹市では、市内のあちこちに太宰の記念碑や、かつての仕事場があった場所、なじみの店の跡など10か所に案内板を設置したり、「三鷹太宰治マップ」 をこしらえて、散策を楽しめるような工夫をこらしています。「太宰治文学サロン」 では、Tシャツや一筆箋など太宰グッズの販売をしたり、筑摩書房では「太宰治賞」を毎年のように募集していて、その人気のほどが推察できます。なお、ネット文学館「青空文庫」 では、太宰治の212作品の原文を読むことができます。

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 81

その日、その日の気分次第で、子どもへの対応の仕方が変わる母親 「ひがわりママ」 をよく見かけます。母親自身にうれしいことや、うきうきすることがあった日は、いつもは 「いけません」 というのに、今日だけはいわない。反対に、自分自身が何かイライラしている時には、いつも子どもがうたっている歌でも、急に 「そんな変な歌、うたっちゃいけません」 といったり。

もしこんな時、子どもが 「昨日までは、そんなこといわなかったじゃないか」 と、かみつけば 「昨日まではよかったけど、今日からはいけないの」 と、訳のわからないことをいいだす。これは、子どもにとって迷惑な話です。でも、これもだんだん慣れてくると、子どもは子どもなりの対応をするようになります。ところが、怖いのは、このことから起こってくる問題です。

第1に 「ぼくがこうすれば、お母さんはこうする」 という期待感がいつもくずれるのですから、子どもの心は少しずつ不安定になってきます。第2に 「お母さんがどうでてくるかわからない」 ので、いつも、母親の顔色をうかがいながら、おそるおそるものをいうようになってきます。第3に 「お母さんに何をいわれるかわからない」 ので、必要以上のことはしゃべらないようになります。そして第4に、いつのまにか子ども自身も、人に対して、その時の気分にまかせてものをいうようになります。

母親のちょっとした言動が、こんな恐ろしいことにつながることを、ぜひ自覚してもらいたいのです。

今日6月11日は、「伊豆の踊り子」 「雪国」 など、生の悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづり、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家 川端康成が、1899年に生まれた日です。

川端康成は、1899年(明治32年)6月14日、大阪市に生まれました。父は医師でしたが、康成が2歳のときに亡くなり、つづいて母も3歳のときに死に、幼くして孤児となりました。それからは祖父とふたりだけの生活でしたが、その祖父も、康成が15歳のとき、亡くなりました。人の世のむなしさ、はかなさは、するどい感受性をもった少年の心に、深くしみとおりました。

第一高等学校、東京帝国大学(東京大学)へと進み、国文科に学んだ康成は、作家をこころざします。22歳のとき 『招魂祭一景』 を書き、菊池寛に認められ、新進作家としての第一歩をふみ出しました。

新しい感覚にあふれた初期の作品のうちでも、とくに人びとに親しまれているのは『伊豆の踊子』です。

「20歳の私は自分の性質が孤児根性でゆがんでいるときびしい反省を重ね、その息苦しいゆううつにたえきれないんで……」

伊豆の旅に出てきた高校生は、天城峠で旅芸人の一行と会います。そのなかのかれんな踊り子とのあわい心の交流。

「いい人ね」 「それはそう、いい人らしい」 「ほんとにいい人ね。いい人はいい人ね」

そう踊り子たちに言われるだけで、高校生の心は青い空に解き放たれるようなうれしさを感ずるのでした。でも、ふたりは下田の港に来たところで別れねばなりません。短編ですが、この小説は人びとに愛されて、くりかえし映画化もされています。

康成の名作といわれるものには 『浅草紅団』 『雪国』 『千羽鶴』 『古都』 『山の音』 など数おおくの作品があります。とくにはなばなしい物語があるわけではありませんが、日本人の細やかな感情、あふれる心の動きを、つめたくすんだ眼でみつめて、静かな美しい世界に人びとを引きこみます。

1968年、ノーベル文学賞が康成に贈られました。文学賞は、日本人としては初めて、アジア人としては2番めの受賞です。『雪国』 や 『古都』 は、英語やフランス語にほん訳され、ヨーロッパでも評判をよびました。ストックホルムの授賞式に羽織はかまで出席した康成がおこなった講演の題は 「美しい日本の私」 です。古い昔から受けつがれてきた日本の美について、語ったのでした。

1972年4月16日、康成は、神奈川県逗子市の仕事部屋でガス自殺をとげて、人びとをおどろかせました。遺書もなく、その直接の原因については知ることはできませんでした。栄光のなかにあっても、孤独とむなしさを感じつづけていたのでしょうか。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」 の後半に収録されている14名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

今日6月10日は、大阪に適塾を開き、福沢諭吉や大村益次郎らを育てた蘭医・教育者として大きな功績を残した緒方洪庵(おがた こうあん) が、1863年に亡くなった日です。

緒方洪庵は、日本の西洋医学の基礎を築いたばかりでなく、橋本佐内、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、福沢諭吉ら、近代日本の夜明けに偉大な足跡を残した人たちを育てた、大きな功績があります。洪庵が、松下村塾をひらいた吉田松陰とならび称されるのはそのためです。

洪庵は、1810年、備中国(岡山県)足守藩という小さな藩の武士の家に生まれました。15歳のとき、父が藩の用事で大坂(大阪) におもむいたとき、いっしょに旅をして、洪庵だけそのまま大坂にとどまりました。小さいころからからだが弱く、武芸の道にすすむより医者になることが、自分を生かす道だと考えたからです。そして、蘭方医として評判の高かった中環(なか たまき) に弟子入りしました。

勉強家の洪庵は、環のところにいた4年間に蘭学のほん訳書をほとんど読みつくしました。まだほん訳されていないオランダ語の原書がたくさんあることを知った洪庵は、20歳のとき、環のすすめもあって江戸へ出て、蘭学医の大家である坪井信道や宇田川榛斎(うだがわ しんさい) の教えを受けました。その間数さつのほん訳書を著わすまでになりましたが、それでもまだ満足できない洪庵は、さらに長崎へ行き、ニーマンというオランダ医について、医学や語学の教えを受けました。

28歳になって大坂に戻った洪庵は、開業医となりました。そして、日本ではじめて種とうをおこなったり、コレラの対策に力をそそいだり、日本最初の病理学書 『病学通論』 や、たくさんのほん訳書を著わすなど西洋医学の普及につくしました。

また、医者としてのかたわら、蘭学を学ぶ学校、適塾(適々斎塾) もひらきました。塾の名は、「他人の干しょうを受けないで、自分の適とすることを適とする」 という意味をもっており、はっきりと自分を主張することを大切にしました。適塾の自由な学風と、洪庵のすぐれた学者としての名声をしたって、全国からたくさんの弟子たちが集まりました。その数はおよそ25年間に3000人におよんだといわれています。

こうして洪庵の誠実な仕事ぶりがみとめられるにつれ、将軍の侍医に推せんしようという運動がおこりました。洪庵はなんども辞退しましたが、ついにことわりきれず、1862年に江戸にのぼりました。将軍の侍医として仕えるかたわら、医学所頭取として西洋医学を教えました。しかし、上京したよく年6月、大坂にのこしてきた家族をなつかしみながら、52歳で亡くなりました。
 
なおこの文は、いずみ書房 「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」 の後半に収録されている7名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

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