児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年06月

今日6月23日は、「武蔵野」 「牛肉と馬鈴薯」 「源叔父」 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した国木田独歩(くにきだ どっぽ) が、1908年に亡くなった日です。

自然文学の名作 『武蔵野』 を書いた国木田独歩は、1871年、明治時代の幕が開いてまもなく千葉県の銚子で生まれました。少年時代のおおくは、裁判所書記官だった父の転勤で、山口、広島、岩国など山陽の各地ですごしました。

小学生のころは、いたずらっ子でした。けんかのとき爪でひっかくので「ガリ亀」という、あだ名がついていました。本名が亀吉だったからです。でも、学校の成績はよく、将来は、大臣か将軍になって、名を世に残すことを考えていました。

17歳で東京へでて、東京専門学校(いまの早稲田大学)へ入学しました。しかし、学校を改革するストライキに参加して4年めに退学、山口へ帰って小さな塾を開きました。文学に強くひかれるようになったのは、このころです。1年のちに、弟の収ニとともにふたたび東京へのぼったときには、イギリスの詩人ワーズワースの詩集を読みふけり、文学の道へ進むことをひそかに心に決めていました。

しかし、文学を学ぶためには、まず、自分の生活をきりひらかなければなりません。独歩は、1年ほど大分県で英語の教師をつとめたのち、東京へもどって国民新聞社へ入社しました。

独歩が新聞社へ入る1か月ほどまえに、中国との戦いが起こっていました。日清戦争です。独歩は、従軍記者として軍艦に乗り込みました。そして、弟への手紙の形で書きつづった 『愛弟通信』 を新聞に連載して、文の美しさで名をあげました。

軍艦を1年でおりると、新聞記者もしりぞいて作家生活を始めました。ところが、悲しい事件が待ち受けていました。ふと知りあった女性とはげしい恋におちいり、女性の親の反対をおしきって、やっとむすばれたと思うと、わずか半年で愛する妻に失そうされてしまったのです。愛にやぶれた独歩はうちひしがれ、内村鑑三になやみをうちあけて、アメリカへ渡ることさえ考えました。このとき独歩は25歳、鑑三は35歳でした。

そのごの独歩は、どのように歳月をへても変わらない自然を愛し、限られた歳月のなかで生きる人間のはかなさを見つめ、『源叔父』 『武蔵野』 『牛肉と馬鈴薯』 『空知川の岸部』 などのすぐれた作品を、ひとつひとつ書き残していきました。

書いても書いても原稿が売れず、出版社を起こすことや、いっそ文学者をあきらめて政治家になることを考えたこともありましたが、けっきょくは、ありのままの人間を語る自然主義文学の道を進み、1908年に36歳の若さで世を去りました。独歩は、だれにでも語りかける、心やさしい小説家でした。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 34巻「夏目漱石・野口英世」の後半に収録されている14名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

なお、ネット図書館「青空文庫」 では、国木田独歩の作品30編を読むことができます。

私の好きな名画・気になる名画 24

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ドガにはたくさんの踊り子を描いた作品がありますが、この代表作 「舞台の踊り子」 には(エトワール)という別称がついています。主席ダンサーという意味で、まさにドガの作品の中でも第1級のできばえのパステル画です。2階のバルコニー席から見おろした舞台には、スポットライトと、左下からフットライトを浴びた踊り子は、華やかに、また軽やかに舞っています。客席からは大きな拍手をあびているにちがいありません。いっぽう、左上の舞台のすそには、出番を待つ踊り子やマネージャーなのか黒い服を着た男の姿があり、絵に光と陰を与えているかのようです。

ドガは、1834年、祖父がイタリアでおこした銀行のパリ支店長だった父と、アメリカに移民した貿易商を父にもつ母との間に生まれ、貴族の家系でした。本当の名はイレーヌ・エドガー・ジェルマン・ド・ガスといいますが、貴族に多い 「ド」 をつけるのをきらい、「ドガ」 と一文字の名を使うようになりました。働かずにいばっている貴族が気に入らなかったからだということです。

11歳でパリの名門中学に入り、2年後に母が亡くなるという悲しいできごとはありましたが、デッサンに興味を持ち、できれば絵描きになりたいと思いました。父親の強い希望で大学の法科に進むものの、絵をあきらめきれず、21歳のときに父親の許しをえて、国立美術学校にかわりました。アングルの弟子ラモットのアトリエにも通うようになり、アングルに強い影響力を受けて、生涯尊敬しつづけたようです。

21歳から24歳にかけて、ドガはイタリアへ行き、各都市をまわって古典的名画の研究したり模写したりしました。その絵は実に正確で、本物の絵の下書きのようなできばえでした。1870年以降、後に印象派の人たちの会合や展覧会にも出品しましたが、ドガ自身は印象派のひとたちとは違った道を歩みました。むしろ、ダビッド、アングルに続く古典の伝統をつぐ者だと信じ、素描家であることを自負していました。まさに、ドガの観察力の鋭さやデッサン力はデッサンには定評のあるアングルをしのぐとさえいわれています。

ドガの新しさは、動きの多いものを画題に選び、その瞬間的な動きを巧みに描くところでしょう。特に踊り子たちの人間模様に興味をひきよせられました。「踊り子たちは、たった1度の舞台に立つために、日々練習にはげんでいる。画家もこうあるべきだ」 と、毎日のように踊り子の稽古場に通い続けました。そして、その動きを注意深く観察し、ノートにぼう大な素描をかきとめました。そんな努力の積み重ねが、ドガの絵には美しく気品があるといわれる由縁なのでしょう。

今日6月19日は、名随筆 「パンセ」 や空気の圧力についての実験により 「パスカルの原理」 などを発見したことで有名なフランスの数学者、物理学者、哲学者パスカルが、1623年に生まれた日です。

パスカルは、科学者として、数かずの業績をのこすとともに、キリスト教の信仰をとおして人間を深くみつめました。

ブレーズ・パスカルは、フランス南部のクレルモン市に生まれました。幼いころ母を失い、父の手で育てられました。父は税務裁判所の所長をつとめた人で、自然科学にもくわしい教養のある人でした。パスカルが8歳のときに、子どもの教育を考えて、父は役所をやめ、一家でパリに移り住みました。

パスカル少年の知能は、なみはずれていました。父が何かを教えようとすると、いつでももっとずっと難しいことを学んでいました。だれからも教わらない幾何学を、パスカルは一人で勉強していたということも伝えられています。たとえば、ユークリッド幾何学の定理を自分の力で発見し、証明してしまいました。「三角形の内角の和は2直角である」 という古代ギリシアの大数学者ユークリッドの解明した定理です。パスカルはこの時まだ12歳でしたから、父はたいへんおどろきました。

その後も数学や物理学の研究をつづけ、わずか17歳で 「パスカルの定理」 という幾何学上の大きな発見をしました。また、計算の仕事に頭を痛めている父親を助けようと、19歳で計算器を発明し、25歳になると 「パスカルの原理」 という物理学の法則を発見するなど、めざましい活やくぶりでした。

パスカルは、若くして偉大な業績をあげました。しかし、自分が幸福だとは少しも思いませんでした。社会に認められ、出世をすればするほど不安がつのります。文学や哲学に救いを求めますが、解答は得られず、心の悩みは増していくばかりでした。そこで、人間の正しい姿を宗教に探そうとしました。熱心な努力をつづけました。するとある夜、パスカルの心に、キリストのために生きようという、不思議な気持ちがわきおこりました。どんなことがあっても、ゆるがない強い気持ちでした。

ロアイヤル修道院に入り、パスカルは、静かな信仰生活を送りました。人間に対して、するどい考えをもつようになり、奥深い思想をはぐくみました。パスカルの 『パンセ』 は、キリスト教信仰の道しるべとして書かれたものですが、洗練されたことばで、人間性を語ったたいへん高度な内容の書物です。

「人間は自然のうちでもっとも弱い、1本の葦にすぎない。しかし、それは、考える葦である」

有名な1節です。人間は悲惨なほどに弱い存在だけれども、同時に、人間は考えることができるから偉大であるといっています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 6巻「ニュートン・フランクリン」 の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日6月18日は、「どん底」 「母」 などの作品を通し、貧しい人々の生活の中にある不安や、社会や政治の不正をあばくなど 「社会主義リアリズム」 という新しい道を切り開いたロシアの作家ゴーリキーが、1936年に亡くなった日です。

マクシム・ゴーリキーは、汗を流してはたらく貧しい人びとのことを考えつづけた、ロシアの作家です。

1868年に、ボルガ川中流の、ニージニー・ノブゴロドという町で生まれました。家具職人の父を4歳のときに亡くし、さらに7年ごには母も失ったため、小学校へもろくに行かないうちに、荒あらしい社会に、ひとりほうり出されてしまいました。

ごみすて場をあさるくず屋。くつ屋のこぞう。製図工の見習い。しばい小屋の下っぱ役者。パン焼き職人。

ゴーリキーは、大人にまじって、毎日ふらふらになるまではたらきました。なれない仕事で大やけどをしたり、主人に、背中がラクダのこぶのようにはれあがるほど、棒でなぐられたりしました。環境の暗さにおしつぶされ、ピストル自殺をくわだてたことさえありました。

しかし、どんなに苦しいときでも、ゴーリキーは読書を欠かさず、勉強をおこたりませんでした。そして、人間らしい生活をもとめて社会と闘う、心の強い労働者に成長していきました。

「苦労したことは宝だ。でも、この宝を、自分ひとりでしまいこんでいるだけではだめだ」

24歳のころから、ゴーリキーは小説を書き始めました。それまでの経験をいかして、自由がどんなにたいせつかを訴えたのです。作品は、まるで聖書のように、手から手へと読みつがれ、若い作家の名とともに広がっていきました。

仕事もなく、最低の毎日をやりすごす人たちの、みじめな運命を描いた 『どん底』 がモスクワ芸術座で上演されたときは、いつまでも拍手が鳴りやみませんでした。

ところが、おおくの労働者から尊敬されればされるほど、ゴーリキーは国にたてつく人間として、政府の役人からにらまれるようになってしまいました。しかし何度とらえられ、ろう獄に入れられても、ときには命を守るために外国へ逃げなければならなくなっても、国の権力にはけっして屈しませんでした。

ひとりの貧しい母親が、革命にめざめていくすがたを描いた 『母』 や、自分の生いたちを見つめた 『幼年時代』 などの作品を通して、はたらく人びとがしあわせにならなければならないことを、さけびつづけました。

1917年、皇帝の支配する政府がたおれて社会主義の国が建設されると、ゴーリキーは、若い作家を指導して新しい文化をつくるために活躍し、1936年に68歳で亡くなりました。古い考えの人たちの手で、殺されてしまったものだとも伝えられています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 15巻「キュリー夫人・ライト兄弟・ガンジー」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 45]

むかし、ある農家で働いている若者がいました。若者はとても正義感の強い働き者で、つらい仕事でもいやな顔ひとつせずに、3年がすぎました。ところが主人はとてもけちな人で、若者に給料をはらいませんでした。そんなある日、若者は 「だんなさま、3年も働いたのですから、少しは給料をくれませんか」 と、思いきっていいました。すると主人は 「わかった。わしは前からたっぷりやりたいと思っていたところだ。さぁ、手をお出し。1年に銅貨を1枚、全部で3枚。大ふんぱつだ」

若者はこれまで、お金をもらったことがなかったので、よろこんで農家をあとにしました。(これだけあれば、あちこち旅ができるぞ) いい気持ちになって歩いていきますと、「えらくごきげんだね」 と、どこからか声がします。すると道ばたから、貧しそうな小人のおじいさんが出てきました。「わしはごらんの通りの年寄りだ。おまけに、お金もぜんぜんない」。気の毒に思った若者は、わたしは元気でまだ若いからと、主人からもらった銅貨を3枚とも、おじいさんにあげてしまいました。

「これはありがたい、その暖かいお気持ちのお礼に、何かさしあげましょう。なんでも結構です、ほしいものを1ついってください」 「一番ほしいもの? そうだな、わたしは歌が大好きだから、バイオリンがほしい。ちょいと弾けば、みんながうかれて踊りだすようなのがいいなぁ」 「よろしい。ではこれを持っていきなされ」。何と不思議、小人のおじいさんは、バイオリンを手にしていました。「ありがとう、ありがとう」 若者は何度もお礼をいうと、バイオリンをひきながら、旅をつづけました。

やがて、遠くに森が見えてきました。(そうだ、あの森で思いきりバイオリン弾いてみよう) と、急いで森に入ると、森の中からコーン、コーンという音が聞えてきます。一人のきこりが、大きな木を切りたおしているところでした。「おいおい、そこの若い衆、ぶらぶらしてるなら、わしの手伝いをしてくれないか。この木を切り倒してくれたら、銀貨を一枚あげるよ」 と、若者によびかけました。銅貨10枚分の価値がある銀貨なら手伝おうと、若者はオノをにぎって力いっぱいたたきはじめると、たちまちズシーンと木は倒れました。ところが、きこりは 「なんだ、そんなに簡単に切り倒せるんだったら、銅貨1枚でいいだろ」 といいました。若者は、それでは約束がちがうと、いきなりバイオリンを弾きはじめました。

すると、きこりは踊りだしたのです。「こりゃ、どうしたんだ、おれは踊りたくなんかないぞ」 きこりは、わめきましたが、そのうち息苦しくなって 「た、た、助けてくれ、目が回るーっ、約束の銀貨はやるからぁー」。こうしてきこりは、銀貨を若者に渡しました。口笛をふきながら、バイオリンをかかえて歩いていく若者を見ると、きこりは腹がたってきました。そして、近道を通って、町のお役所へ訴えでたのです。

「お役人さま、悪い男がこの町へやってきます。この年寄りから銀貨をだましとりました。ほら、口笛をふきながらやってくるバイオリンをかかえたあの男です。どうかつかまえてください」 「おう、さようか。ものども、あの男をひっとらえろ」 と、役人は下役に命じて、若者をつかまえさせました。「何をするのです、私は何も悪いことはしていません、人ちがいでしょ」 「この通りのうそつきです。その証拠にポケット調べてください。私から奪った銀貨が入っています」 役人が調べてみると、たしかに銀貨が出てきました。「なるほど、年寄りをだますとは悪いやつだ。悪者は死刑だ」 役人はこういうと、町の広場へ若者を引っぱっていって、死刑台の上に連れて行きました。これを見た町の人たちは、見物をしようと黒山のように広場へ集まってきました。

若者は、役人に頼みました。「お役人さま、死ぬ前に、この世の思い出に一度だけバイオリンを弾かせてくれませんでしょうか」 「そんなことか、よろしい、許してやろう」。これを聞いたきこりは、「だめ、だめです、大変なことがおきます」 といいましたが、もう遅すぎました。若者はバイオリンを弾きはじめましたからね。

バイオリンの音色を聞いたとたん、役人もきこりも、町の人たちみんなが、踊りだしました。年寄りも、男も女も、子どもも、犬もねこも、みんなが飛びはねだしたのです。はじめのうちは、みんなは面白がっていましたが、そのうちバイオリンの調子が早くなってきました。みんなはくるくる回りはじめました。やめようとしてもやめられません。「おーい、バイオリンをやめてくれ」 みんなは、どなるやら、泣くやら、悲鳴をあげるやら……。

バイオリンを弾きながら若者はいいました。「悪者でない者を悪者だと訴えたやつも、死刑だと命じたやつも、見物をしようとしたやつも、いつまでも踊っていろ!」。これを聞くと、きこりがいいました。「許してください。私がうそをつきました」。役人もいいました 「よく調べもせずに、あなたを死刑にするといって申しわけありません。これからは、しっかり裁判をします」。町の人たちも 「おもしろがって見物しようとしたのは間違いでした」。そこで若者は 「よろしい。それではこれでやめよう。でも、約束をやぶったりしたら、また踊らせますからね」 といって、踊りつかれて腰をぬかしている人たちの間をゆっくり歩き、口笛を吹きながら、旅をつづけていきました。

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