児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年06月

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 82

ある公園で見かけたことです。木陰のベンチで母親同士おしゃべりをしていたお母さんの一人が、向こうでうずくまるようにしているわが子へ声をかけ、それから、次のようなやりとりが始まりました。

「さぁ、帰るわよ、いらっしゃい」 「・・・・・」 「どうしたの? 早くいらっしゃい」 「ママ、ちょっと待って」 「どうしたの? 何やってるの」 「ありんこがいっぱいいるんだ」 「ありんこなんて、いつでも見られるでしょ」 「だって、たくさんつながっていて、おもしろいんだもの」 「だめ、だめ、ママ、ご用があるから帰るの、早くいらっしゃい。あら、ありなんかにさわっちゃだめ」 「さわってないよ、ありんことありんこが、お話してるみたいで、おもしろいんだ」 「だめ、だめ、帰るわよ」

結局、こうしてママは、他のお母さん方には 「それでは、どうも、お先に」 とバカていねいな挨拶をしてベンチを立ち、子どもはしかたなく、なごりおしそうに後からトコトコ。

こんなとき、ママはどうして 「あら、ありさんがたくさんいるの?」 といって子どものそばへ行き、わずか5分でもいいから 「ほんとに、ありさん、お話してるみたいね。どんなこと、お話しているのかな」 と語りかけながら、わが子のそばにうずくまってやらなかったのでしょう。何かに興味を示したとき、何かに夢中になっているとき、子どもは一番成長するということを、このママは、ご存知なかったのでしょうね、きっと。

今日6月27日は、わが国怪奇文学の最高傑作といわれる 「雨月物語」 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が、1809年に亡くなった日です。

丈部左門(はせべ さもん) は、あるとき旅先で病気で苦しんでいる赤穴宗右衛門(あかな そうえもん) を助けました。そして、心がとけあったふたりは、やがて兄弟のちぎりをむすびました。ある日、宗右衛門は、秋の菊の節句には必ずもどると約束して、郷里へ旅立ちました。さて、菊の節句の日、左門が待ちわびていると、夜になって宗右衛門がもどってきました。ところが、宗右衛門は、左門が用意した酒ものまず 「わたしは、もうこの世にはいないのです」 といって、かき消すように見えなくなってしまいました。宗右衛門は郷里にとじこめられてもどれなくなり、自害して幽霊となって、約束を果たしに左門のところへやってきたのでした。

この怪談は、上田秋成が、中国の古い物語をもとにして書いた 『雨月物語』 のなかのひとつです。

秋成は、1734年に摂津(大阪) 曽根崎で生まれました。しかし、父のことは名も顔もわからず、4歳のときには油屋へ養子にもらわれて、母ともはなれてしまいました。そのうえ、5歳のときに重い天然痘にかかって手の数本の指が不自由になり、暗く悲しい気持ちで、人生を歩まなければなりませんでした。

少年時代から文学がすきだった秋成は、20歳をすぎると、とくに、日本の古い文学に親しむようになりました。そして、俳句や和歌を作り、小説を書き、34歳のころには、すでに名作 『雨月物語』 をまとめあげていました。

ところが、37歳のときからとつぜん医学を学んで医者になりました。火事で油屋が焼けて家も財産もなくし、新しく生活していくために医者の道をえらんだのです。そして、しだいに生活が豊かになると、医者のかたわら国学を学び、『万葉集』 『伊勢物語』 などを研究して歴史に残る本を次つぎに著していきました。国学のことで、本居宣長と意見をきそったことは有名です。

1788年、54歳になった秋成は医者をやめました。病人に親切だった秋成は貧しい人びとにしたわれていましたが、ひとりの少年の診察をあやまって死なせてしまい、責任を感じて医者を捨ててしまったのだ、といわれています。

そののちの秋成は不幸でした。京都に住んで、茶道を楽しみ、歌をよみ、小説を書くあいだ、愛していた妻を亡くし、自分は目をわずらい、いつも、心のさみしさと闘いながら生きていかなければなりませんでした。しかし、苦しい生活のなかでも文学を愛することは忘れず、最後に 『春雨物語』 を書き残して、75歳で亡くなりました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 28巻「塙保己一・良寛・葛飾北斎」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

先日、地元の井の頭公園内の片隅にできた 「三鷹の森 ジブリ美術館」 にはじめて出かけました。「となりのトトロ」 「もののけ姫」 「千と千尋の神隠し」 などアニメーション映画の話題作を毎年のように世界的にヒットさせているスタジオ・ジブリ。そのアニメーション制作の仕組みを中心に展示したり、オリジナル短編映画の上映、ミニ遊園地のある楽しい美術館ということで、連日のように親子連れや若い男女でにぎわっていることはよく知っていました。完全予約制のチケットを手に入れるのも至難のわざというのを耳にしていたため、1992年の開館以来、美術館の前はよく通るものの、一度も入場したことはありませんでした。

最近、新聞報道で 「小さなルーヴル美術館展」 が、ジブリ美術館にお目見えしたということを知り、どんなものなのか見てみたいと思っていました。わずか80平米の狭い室内に、世界最大といわれる 「ルーブル美術館」 をどのように見せるのだろうかという点に最大の興味がありました。

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「小さなルーヴル展」 に入るとすぐに、上半身裸の二人の美女がいて、右の女性が左の女性の乳首をつまんでいる絵(フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」)が飾られていたのに、まずびっくりさせられました。たしかに、ルーブル美術館を代表する絵に違いありませんが、子どもたちがたくさん出入りする場所に? と思ったからです。でも、その疑問はすぐに払拭しました。

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メインの部屋に入ると、原寸を半分以下にした複製画がぎっしり三方の壁面に目白押しに飾られています。中心は、裸体を含む美しい女性たちです。新古典派のダビッド(「レカミエ夫人」 「サビーニーの女たち」 など) とその弟子のアングル(「グランドオダリスク」 「トルコ風呂」 「バルパンソンの浴女」 など)、アングルと長い間対立していたロマン派のドラクロア(「サルダナパールの死」 「アルジェの女たち」 など) の作品群です。19世紀半ばごろに対立した2派が、とてもよく調和しているのを改めて感じました。

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ある母子の会話が聞えました。「どうして裸の人が多いの?」 「絵かきさんって、きれいだなと思ったものを絵にするのね。女の人の裸ってきれいだな、絵にしておきたいなって思ったんでしょうね。どう、きれいでしょ?」 「うん、どれもきれいだね」

そうなのです。感受性の豊かな、物事をありのままに受け入れる幼児・児童期に名画に慣れ親しみ、とりわけ印象深い裸体をふくむさまざまな女性たちが描かれた作品群にふれるうち、きれいなもの、美しいものを素直に受け入れる感性を、豊かに育くんでくれるにちがいありません。

そのほか、子どもたちを惹きつける工夫はあちこちにありました。壁面のいくつかにのぞき窓があって、ひとつをのぞくと、小さな部屋が見え、そこにはレンブラント(「テシバの沐浴」など) やコロー(「真珠の女」) らの名品がところせましと飾られていました。もうひとつの窓をのぞくと、セーヌの流れや遠くにノートルダム寺院が臨まれ、まさにルーブル美術館の窓からみえる風景をミニチュア化していました。

ルーブル美術館の1番人気の 「モナリザ」 は、原寸大で小さな一室に収められていました。防弾ガラスでおおわれた、人々の肩越しから本物を見るより、こちらのほうがよく鑑賞できそうです。その隣には、「モナリザ」 の背景にとり入れられている、スフマート(空気遠近法) といわれるダ・ビンチ独自の画法のしくみが、何の解説もなく展示されているのも興味深いものでした。そのほかエジプト王のお棺の部屋、ルーブルの目玉となる2つの彫刻、勝利の女神 「サモトラケのニケ」、愛の女神 「ミロのビーナス」 のミニチュアもあって、この狭い空間に、よくぞ 「ルーブルのさわり」 を表現したものだと、企画者の意図に感銘しました。そして、こういう複製画であっても、子どもたちに名画の数々にふれさせる場所があちこちにあってほしいものという思いを、再確認したものでした。

なお、 「ジブリ美術館」 の一般展示の内容、チケットの入手方法などは、ホームページに詳しく載っています。

今日6月25日は、幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真(すがわら みちざね)が、845年に生まれた日です。

名高い学者の家に生まれた菅原道真は、すでに10歳のころから漢詩を作り、自分も一流の学者になることを心に決めて成長しました。少年時代は、友だちと語る時間も惜しんで、勉強にはげんだということです。18歳で、漢詩や歴史を学ぶ文章生という学生になり、25歳で、役人になるための最高の試験に合格して、役人をつとめながら学問の道を進むようになりました。

32歳のとき、朝廷の人事をつかさどる式部省の次官に任命され、学者としても、最高の文章博士になりました。ところが、あまりにも早い出世を、おおくの学者たちにねたまれ、つらい思いをしなければなりませんでした。また、朝廷で勢力をのばしてきた藤原氏の権力におされて、政治家としても、いろいろ苦労がたえませんでした。

866年、道真は讃岐守に任じられて四国へわたりました。都で育った道真には、地方の生活はさみしくてしかたがありません。詩や歌を作って心をなぐさめながら、毎日をすごしました。

4年ののち京都へもどってくると、まもなく、わがままな藤原氏をにくんでいた宇多天皇から、大臣の位につぐ参議にとりたてられました。道真が藤原氏に負けない政治の力をふるってくれることを、期待されたのです。894年には、それまで260年もつづいてきた遣唐使が道真の意見で中止されるほど、道真は天皇に深く信用されていました。

899年、54歳の道真は、2年まえに天皇の位を醍醐天皇にゆずっていた宇多上皇の力で、右大臣の位にまでのぼりつめました。学者が大臣になったのは、奈良時代の貴族だった吉備真備いらい、133年ぶりのことでした。しかし、道真の運命は、右大臣になったことで、かえってかたむいてしまいました。

道真をにくんでいた左大臣の藤原時平が、醍醐天皇に 「道真は自分の血すじのものを天皇の位につけようとしています」 と、告げたからです。道真が、そんなことを考えていたかどうか、事実はわかりません。でも、天皇に疑われた道真は、右大臣から地方の役人に位をさげられ、九州の大宰府へ行くことを命じられてしまいました。罪人が島流しにされたのと同じです。

大宰府での道真は、都をしのんで悲しい歌をよむうちに、からだも弱り、2年ごの903年に58歳の生涯を閉じてしまいました。

朝廷は、のちに道真の罪をゆるし、京都の北野に天満宮を建てて、その霊をなぐさめました。これが、学問の神として信仰されるようになった、天満宮のおこりです。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 20巻「藤原道長・紫式部」 の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日6月24日は、江戸時代の中ごろ、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった田沼意次(たぬま おきつぐ) が、1788年に亡くなった日です。

田沼意次は、江戸時代中ごろの、幕府の政治家です。父は足軽から身を起こした、あまり身分の高くない武士でしたが、第9代将軍徳川家重と第10代将軍家治につかえた意次は、将軍のそばで雑用をする小姓から、将軍の命令を老中へ伝える御側用人へ、さらに幕府最高職の老中へと、おどろくほどの大出世をしました。

幕府の中心で活躍するようになった意次は、将軍さえもあやつるほどの権力をふるい、思いきった政治を、次つぎに実行していきました。しかし、それは民衆のための政治ではなく、すべて、幕府を豊かにするためのものでした。

まず、海産物の加工を盛んにしてオランダや中国へ輸出し、かわりに金や銀を輸入するようにしました。次に、銅、鉄、真ちゅう、菜種油、生糸、朝鮮人参、石灰、硫黄などを幕府がすべてとりしまる制度をつくり、一部の商人に生産や売り買いの許可をあたえるかわりに、その商人には高い税をおさめさせて、幕府がうるおうようにしました。また、新しい貨へいを造ることや、鉱山を新しく開くことに力を入れたほか、下総国(千葉県)印旛沼を干しあげて農地を広げることや、蝦夷(北海道)を開拓することなども計画しました。

外国との貿易や蝦夷の開拓に目を向けた意次は、たいへん進んだ考えをもっていたのです。ところが、幕府のことを中心に考えた政治は、やがて、みにくいことをさらけだすようになっていきました。それは、特別な商人にだけ商売の権利をあたえたことにより、幕府の武士や役人と商人のあいだで、わいろがやりとりされるようになったことです。そして、お金の力で政治がゆがめられるようになってしまいました。

いっぽう、大ききん(天明の飢饉)が広がっているというのに、貧しい人びとを救う政治はおこなわれず、そのため都市の町民は米屋や質屋をおそい、農民は一揆を起こして領主をおそい、世の中はすっかり乱れてしまいました。

こうなると、意次の政治へのひはんが強まるのはとうぜんです。1784年に、意次の長男の意知が、江戸城で殺される事件が起こると、2年ごには、意次も老中職を追われてしまいました。政治の権力をにぎっていたあいだ、意次の家には、わいろの金銀が山をなしていたといわれています。しかし、この話は、事実かどうかわかりません。意次は暗い心のまま69歳で亡くなりましたが、この時代に、学問や芸術はたいへん栄えました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 28巻「塙保己一・良寛・葛飾北斎」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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