児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年05月

今日5月9日は、児童文学の不朽の名作 「ピーターパン」 を創作したイギリスの作家・劇作家のジェームス・バリーが、1860年に生まれた日です。

「ピーターパン」 は、イギリスの首都ロンドンにあるケンジントン公園で、乳母車から落ちて迷子となったことから年をとらなくなり、異世界ネバーランドに移り住み、妖精のティンカーベルと共に日々を送る永遠の少年。ネバーランドにはピーターと同じように親とはぐれて、年をとらなくなった子どもたち (ロストボーイ) がいて、ピーターは彼らのリーダー的存在です。

子どものようでも人間ではない、妖精でもなく、空を飛ぶのに鳥ではないピーター。でもピーターはときおり、人間の生活がなつかしくなって、ケンジントン公園へやってきます。そして、公園の近くに住むウェンディ、マイケル、ジョンというダーリング家の3人の子どもたちを、ネバーランドに連れていくところから物語は始まります。

ピーターパン、海賊フック船長、ウェンディ、妖精ティンカーベルらが繰り広げるファンタジックな冒険物語は、子どもたちを夢中にさせる要素がいっぱいです。

いずみ書房のホームページにあるオンラインブック 「レディバード100点セット」 には、ジョアン・コリンズ再話による 「ピーターパン」 の日本語参考訳を収録しています。ぜひ目を通してみることをお勧めします。

今日5月8日は、スイスの社会事業家で、戦争で傷ついた兵士を救うための団体をつくることを提唱し、国際赤十字の創設に結びつけたデュナンが、1828年に生まれた日であり、1864年国際赤十字が誕生した日でもあります。

北イタリアを占領していたオーストリア軍。その北イタリアを取りもどそうとする、サルディニア軍とナポレオン3世がひきいるフランス軍との連合軍。1859年6月24日、両軍あわせて32万の兵隊が、ソルフェリノの丘で死にものぐるいの戦いをくりひろげました。そして、15時間つづいた戦いが終わったとき、丘は、およそ4万人もの死傷者でうまっていました。

ところが、銃声がやんでまもなくのことです。軍人でもないひとりの男が現れ、近くにいた婦人や子どもを集めて、死傷者の収容と看護を始めました。

「敵も味方もない。みんな同じ人間だ。みんなを助けるのだ」

男は、こう叫ぶと、すべての死傷者に、あたたかい手をさしのべました。スイスからナポレオンに会いにきて、この戦いにでくわし、あまりのむごたらしさに、いきどおりをおさえきれず、血にそまった丘にとびだしたのです。

この男は、30歳の若い実業家アンリ・デュナンでした。

「戦争で傷ついた人を、敵も味方も区別なく看護する救護隊を、ふだんからつくっておかなければだめだ」

デュナンは、スイスへもどると 『ソルフェリノの思い出』 という本を書き、救護隊のたいせつなことを世界に訴えました。すると、ヨーロッパの国ぐにの皇帝、大臣、文学者から、賛成の手紙が寄せられました。クリミア戦争で看護婦として活やくしたナイチンゲールからも、はげましの声がとどきました。

1863年、デュナンの叫びは実をむすびました。

「それぞれの国に救護隊をつくる。救護隊は、どこの国の傷病者でも手当てをする。救護にあたる人や病院は、つねに中立であり、そのしるしとして、赤い十字を使おう」

ヨーロッパの国ぐにの代表がジュネーブに集まって、このようなことを決めたのです。そして、つぎの年にジュネーブ条約がむすばれ、国際赤十字が誕生しました。

スイスのジュネーブに生まれ、信仰ぶかい母に育てられたデュナンは、若いときから、不幸な人や貧しい人に手をさしのべる、やさしい心をもっていました。

国際赤十字をつくってからも、自分のすべての財産を投げだして慈善事業に力をつくしました。また、人種差別に反対して黒人どれいの解放も叫びつづけ、1901年に、世界最初のノーベル平和賞を受賞しました。白地に赤十字のしるしは、デュナンの名誉をたたえて、スイス国旗の赤地に白十字の色を逆にしたものです。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)12巻「ファーブル・トルストイ・ロダン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 78

ある駅で見かけた30代半ばと思われる母親と、5~6歳の男の子と3歳くらいの女の子。この3人の母子が電車に、ホームにはおばあちゃん。おそらく、おばあちゃんの家へ遊びに行っていた母子が、おばあちゃんに送られて家へ帰るところです。電車に乗りこむ前からシクシク泣いていた男の子が、やがて電車が走り出すと、さらに激しくなきだしました。おばあちゃんとの別れが悲しくてたまらなかったのでしょう。

女の子に 「お兄ちゃん、男の子のくせに、泣くのおかしいわよ」 といわれても、声を殺すように泣き続ける男の子。すると、母親がいいました。「いいのよ、こんな時は泣いてもいいの。お兄ちゃんはやさしいから、泣きたくなったのよね。泣いてもいいわよ。お母さん、弱虫で泣くのは大きらい。でも、やさしくて泣くのはいいの。お母さんだって、おばあちゃんと別れるのは悲しくて、本当は泣きたいんだから。だって、おばあちゃん、また、ひとりぼっちでしょ。おばあちゃんのさみしい気持ちを思うと、たまらないわね」

これを聞いて、下の女の子も涙ぐみながら、じっと窓外を見つめたままでした。男の子が泣きやんだのはそれから10分もたってからでしょうか。こんな時、「いつまでも、めそめそ泣くんじゃありません」 と叱る多くの母親を見てきただけに、何となく暖かいものを感じたものでした。

今回の 「スペイン・ポルトガル旅行」 わがベスト10・その2 「マドリッド3大美術館を制覇」 について記したいと思います。

マドリッドにある美術館といえば、まず 「プラド美術館」 があげられます。世界3大美術館の一つとして、パリのルーブル美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリーと並び、絵画の収録点数は世界一の規模を誇ります。基礎になるのは、スペイン王室が所蔵していた大コレクションで、王家が宮廷画家たちに描かせた作品が多く、ベラスケス、ゴヤ、グレコ、ムリーリョらがその代表です。

「プラド美術館」 訪問は3度目でしたが、私自身の美術鑑賞に対する思い入れが深くなってきたせいか、以前に出会った作品を見ても、その奥が見えるようになったためか、興味が倍加するのを感じました。今回は、たまたま 「ゴヤ特別展」 が催されていて、120点所蔵しているというゴヤの作品のほとんどを3部に分類展示していました。第1部は宮廷画家になる前に描いていたタペストリーの下絵の数々。竹馬、シーソー、人形遊びなど、子どもの遊びが楽しく描かれていたせいか、幼稚園児や小学下級生たちが先生に引率されて静かに鑑賞しているシーンがあちこちに見られたのは、とてもほほえましい光景でした。第2部は宮廷画家として活躍していた頃に描いた 「カルロス4世の家族」 「裸のマヤ」 などの代表作。第3部は、黒い絵といわれる作品群で、「わが子を食うサトルヌス」 など、革命と動乱の時代に遭遇し、全聾という晩年のゴヤのやりきれない心情のほとばしりが感じられました。

午後はフリータイムを利用し、兄猛夫夫妻と3人で、ピカソの大作 「ゲルニカ」(3.5m×7.8m) があることで有名な 「ソフィア王妃芸術センター」 を訪れました。ゲルニカとは、スペイン北部の海岸にある小都市の名前です。1936年、スペインに内乱がおこり、人民戦線とフランコ率いる国民戦線に分かれて戦っていました。そして翌1937年4月、フランコの同意を得たナチス空軍は、史上はじめてゲルニカに無差別爆撃し、町を壊滅させました。7000人の人口のうち2000人以上が死亡したといいます。当時パリにいて万国博覧会のスペイン館壁画の準備していたピカソは、この大事件を耳にして計画を変更、戦争の悲惨さをこの絵にこめたといいます。この美術館には、ゲルニカを制作するにあたって描いた数十枚にもおよぶ習作やデッサンなどを展示して、いかにピカソが試行錯誤しながら、この大作に取り組んだことがよくわかりました。その他 「泣く女」 など、当時ピカソが描いたキュービズムの代表作も展示されていました。

3つ目の美術館は、「ティッセン・ボルネミッサ美術館」。ラッキーだったのは、イタイアに生まれ、第1次大戦後にパリのモンマルトルとモンパルナスを中心におこった新しい時代の芸術運動 [エコールドパリ] の代表的画家 「モディリアニ展」 が開かれていたことです。ヨーロッパ中のさまざまな美術館からモディリアニの代表作が集められていたばかりでなく、初期に大きな影響を受けたセザンヌの 「赤いチョッキの少年」 と対比したり、絵画より彫刻家をめざしていたモディリアニがアフリカやオセアニアの原始的な彫刻からヒントを得て細長い顔と首の作品を制作したこと、やがてそれを絵画に応用して、一度見たら忘れられない肖像画の傑作をいくつも描くようになる過程がとてもよく整理されていました。特に35歳で亡くなる2、3年前に描かれたユニークな 「裸婦」 の数々はまさに圧巻でした。

こうして、大満足のうちに、マドリッドの3大美術館を制覇しました。そして、その合間を利用して、3つの美術館の西側にある 「レティロ公園」 をのぞいてみました。40万坪という桁違いの公園で、歩いても歩いても果てしないほど。ボートが浮かぶ人工池や噴水があるというので、地図を手に15分ほど歩いて見ましたが、まだまだ先のようです。こんな大公園が都会のど真ん中にあって、市民にいこいの場所を提供しているのはうらやましいほどで、新緑の美しさが特に印象的でした。

ロンドンのホテルに到着するまでの、悪夢のような苦闘物語の後は、まさに旅の楽しさ、醍醐味を満喫しました。

3日目のレディバード社の訪問 (2006年2月27日ブログ参照) では、マルコム・ケリー社長以下重役陣の暖かい出迎えを受け、いかにもイングランドらしい落ち着いた雰囲気の小都市ラフボローの郊外に、3000坪という大規模な敷地に、ゆったりとたたずむ本社オフィス、印刷工場、製本工場などをじっくり見学させてもらいました。午後は、おとぎ話に出てきそうな、由緒ある中世のお城を改造したすばらしいレストランで大歓待を受けたのは、先に記した通りです。

その後、ローマ市内にあるバチカン市国の世界最大の教会 「サンピエトロ寺院」 に度肝をぬかれ、バチカン美術館の1キロも続く美の回廊や、ミケランジェロの大作のあるシスチナの礼拝堂の天井画や壁画に圧倒されました。マドリッドの 「プラド美術館」 では、ベラスケスやゴヤらの大作の数々に心打たれ、古都トレドの大聖堂ではスペインの大航海時代の宝玉殿や、トメ教会にあるグレコの代表作にも感銘しました。

そして最終日の夜、マドリッドの王宮の近くにあるタブラオで、本場の 「フラメンコ」 に出あったのでした。目の前の舞台で演じる迫力ある踊り、タップをはるかに越えたすさまじい勢いで床をたたきつける足技、何ともエキゾチックな歌とギターのコンビネーション……。2時間ほどがあっというまに過ぎ、全員大満足で帰国したものでした。

あの日に出あったフラメンコには、その後も日本でたびたび見る機会がありましたが、レベルの違いなのか、あれほど感動するものではありませんでした。2003年のスペイン旅行でも、グラナダのショーはそれなりに楽しめたものの、200人以上も入る劇場化した規模とマイクを通した歌声には多少違和感を持ちました。今回も、グラナダには 「洞窟フラメンコショー」 があるというので出かけてみましたが、うなぎの寝床のような穴倉に100人ほどすし詰め状態の中で観るショーは、いかにも観光地化しすぎているようで、なじめませんでした。

今回のマドリッドでも、最終日の前日にオプショナルで 「フラメンコショー」 があるというので申し込みました。もちろん、あのフラメンコの店だったらラッキーだし、もし不満足だったら、最終日の夜に、ガイドブックで目星をつけたあの店に行ってみようと思っていました。それが、まさにラッキー。20年前の店 「トレス・ベルメハス」 だったのです。アルファンブラ宮殿を擬した室内装飾を見たとたん、20年前の記憶がすぐによみがえってきました。そして、華やかで情熱的なショーは、あの日を彷彿とさせるもので、今回も参加者全員大満足だったことが、拍手や歓声そして表情から読みとれました。

マドリッドには、フラメンコを鑑賞できる店 (タブラオ) は、ピンからキリまで20~30個所もあるようです。中でも 「トレス・ベルメハス」 は必見、今回は現地ガイドに連れられて大型バスで案内してもらいましたが、最寄の地下鉄駅は 「ソル」、有名なデパート 「プエルタ・デル・ソル」 の裏手にあるようです。

なお、日本にあって本場のフラメンコを鑑賞できる 「タブラオ」 をご存知でしょうか。東京・新宿の伊勢丹会館6階にある 「エル・フラメンコ」 は、1967年創業以来、毎晩2回のショーが行われています。半年ごとに出演者全員が変わるようで、すでに1000名を越える人たちが来日しているそうです。うまくすると、本場以上の舞台が観られるかもしれません。

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