児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年05月

私の好きな名画・気になる名画 20

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有名な 「泉」 を描いた画家アングルは、1780年フランス南西部モントーバン郊外ムスティエに生まれました。父親も画家・彫刻家で、建築も手がける人でした。音楽にも造詣が深かった父は、アングルが幼い頃からルネサンスやロココの巨匠たちのたくさんの複製画を見せては、デッサンの手ほどきをしたり、バイオリンを教えたりしました。そのため、アングルは12歳でトゥールーズのアカデミーに入学して画業にはげむかたわら、オーケストラの一員となって、小遣いかせぎをするほどの腕前だったそうです。

17歳になったアングルは、パリに出てダビッドの門下生になりました。4年間の修行のかいがあって、1801年には、若い画家の登竜門ともいうべきローマ賞を受賞、ローマに留学できる権利をえました。ところが、国家財政が逼迫していたため、5年後の1806年にようやく念願のローマ留学をはたしました。バチカンでラファエロの部屋に出会い、シスチナ礼拝堂のミケランジェロの大作などに心から感銘するのでした。「これまでの自分はだまされていた」 と友人に語ったといわれています。先生である新古典派の巨匠ダビッドの権威が支配的だった時代、ほんとうの古典を知ったアングルは、4年ではあきたらず、さらに10年もの間ローマにいて、ひどい貧しさと戦いながら、人の肖像画をかいては生活の糧をえ、勉強を続けました。さらにフィレンツェに4年間いて、パリにもどったのは1824年のことでした。

しかし、定評はえていたものの、独自の美の理想を追求しようとするアングルの作品の評判は、必ずしもよいものではありませんでした。1820年ころから、ドラクロアを代表とする 「ロマン派」 が台頭してきて、「新しい時代の思想や感情を表現するためには、新しい表現手段が必要。絵画での新しい手段は、色彩と運動にある」 といって、人々の支持をえはじめていたからです。アングルは、人体も物体も、さらに思想や感情も線による輪郭の中に閉じこめるのに対し、ロマン派は、色彩と運動は解放するものとして、大きな対立をするようになっていたのです。そして、その後、30年ものあいだ、両者はにらみあいを続けました。

アングルは、美しい線を描くために、デッサンを綿密にくりかえし、特に完璧なデッサンから生み出された女性美を描くことに生涯をかけました。「泉」 を描いたのは、1856年、アングルが76歳の時です。古代ギリシアの彫刻のような均整のとれた少女の姿は、息づくような若さとやわらかさに満ちていて、壷から流れ出るすきとおった水は、さわってみたくなるほどです。水の音以外にはきこえない、静けささえただよってきます。まさに、アングルの曲線に対するこだわりがこの作品に開花したではないでしょうか。そして、4年後、さらに女性美を追求した直径1mの円形作品 「トルコ風呂」 を残し、静かにパリの自宅で息をひきとりました。

1932年(昭和7年)5月15日、海軍の若い将校たちが、政党や財閥をたおして、軍を中心にした国家権力の強い国をうちたてることをくわだて、首相を射殺する事件が起こりました。昭和史に残る五・一五事件です。

犬養毅(いぬかい つよし) は、このときの首相です。明治時代が始まる13年まえに備中国(岡山県)で生まれ、13歳のときに父を亡くした毅は、郷里ではたらきながら漢学を学んだのち、20歳の年に、新しい西洋の学問を勉強するこころざしをたてて東京へでました。そして、新聞記者で学費をかせぎながら慶応義塾で学びました。

1882年、大隈重信が民主主義の政治をめざして立憲改進党を結成すると、毅も、この党に加わって政治家の道へ入りました。

明治に入ってからの国の政治は藩閥政治とよばれ、明治維新に力をつくした長州藩や薩摩藩などの出身者を中心にして進められていましたが、毅は新しい政治は藩閥ではなく、同じ考えをもつ新しい政治家たちが集まってつくった政党によっておこなわれなければいけないと考え、政党政治家をめざしたのです。

1890年の第1回衆議院総選挙いらい衆議院議員に17回連続当選をはたした毅は、意志が強く話術にすぐれた政治家として活やくし、43歳のとき、大隈内閣の文部大臣となりました。

1910年には、自分が中心になって立憲国民党をつくり、党の先頭に立って、憲法にもとづく政治を進めるために藩閥打倒をとなえました。また、1922年には、立憲国民党を解散して新たに革新倶楽部を結成し、憲政の神さまといわれた尾崎行雄といっしょに、選挙権の平等を求める普通選挙運動に力をつくしました。

藩閥打倒は1924年の加藤高明を首相とした政党内閣の成立によって、普通選挙運動はその次の年の普通選挙法の公布によって、それぞれ実現しました。しかし、毅は、このとき逓信大臣をつとめることはできましたが、革新倶楽部の力が弱かったため政府内で大きな勢力をもつことができず、1925年に政界をしりぞきました。

ところが、6年のちの1931年、犬養内閣を組織して政界へ返り咲きました。革新倶楽部と1つになっていた政友会の総裁に推され、ふたたび理想の立憲政治をめざしたのです。でも内閣をスタートしてわずか5か月ごに、暗殺されてしまいました。毅は、国民の代表として国民のための政治をきずこうとした政治家でした。青年将校にピストルを向けられたとき 「話せばわかる。話を聞こう」 と将校をさとしたことばは有名です。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日5月14日は、「種痘記念日」 といわれています。1796年イギリスの外科医ジェンナーが、初めて牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとなったためです。

日本では古くから 「はやりやまい」 といって恐れられていたのは、たいてい天然痘のことでした。これが流行しだすと大事件で、7、8割の人がこれにかかり、何万人、何十万人という人々が死んでいきました。外国でも同じで、天然痘が流行しだすと、手の打ちようがありません。この病気になると、膿をもった水ぼうそうのようなものができ、たとえ命をとりとめても、あとが残ったり、顔がでこぼこになったりするのです。

ジェンナーは、イギリスのバークレイという田舎の牧師の子として1749年に生まれ、幼い頃から鳥や植物に興味を持つ子どもでした。やがて、15歳で医学を志し、24歳で故郷で開業しました。ある時、牛からうつる牛痘にかかった人は、天然痘にかかることがないという言い伝えを耳にしました。いろいろ調べているうち、軽い天然痘にかかった人は、ひどい天然痘がはやっても心配ないことがわかってきました。中国の古い本には、天然痘にかかった人のかさぶたを、幼児の身体にくっつけたり、鼻の穴にふきこんだりするとよいと書いてありました。日本には、天然痘の出た家でダンゴを作り、となり近所にくばるといういい伝えがあることも耳にしました。

「長い年月、天然痘に苦しめられてきた人類が、その体験から、軽い天然痘をはやらせる方法を見つけたに違いない」 と考えるようになったジェンナーは、20年ものあいだ、どうすればたくさんの人たちに、安全な方法で軽い天然痘にかける方法を研究し続けました。そして、[牛痘の膿を人間に植えつけるという種痘が決め手になる]と確信するようになりました。

ジェンナーは、自分の考えの正しさを証明するために、近所の人たちに、子どもを実験に使わせてくれるように頼みました。でも、親たちは承知してくれるはずはありません。そんなある日、一人の少年がジェンナーを訪ねてきます……。

いずみ書房のホームページ・オンラインブックでは 「せかい伝記図書館」 を公開中です。約100人の伝記のうちのひとりとして 「ジェンナー」 の生涯を詳しく紹介していますので、ぜひご覧ください。なおWHOは、1980年に 「天然痘の根絶宣言」 を行いました。天然痘は人類が根絶した唯一の伝染病(感染症)です。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 42]

むかしある町の道ばたで、ひとりの男が、荷車にナシを山盛りにして売っていました。みんなが集まってきて、5、6個売れたころへ、そまつななりをしたひとりの老人がやってきました。そして、ナシ売りの前に立っていいました。「のどがかわいて困っています。どうか、ナシをひとつめぐんではくれませんでしょうか」

「ばかなことをいうんじゃないよ。これは売りものだ」 「あなたの車には、山ほどナシがあるじゃないですか。ひとつくらいくれても損にはならないでしょ」 「だめだ、だめ! あっちへいっちまいな」 ナシ売りはこういって、老人を追いはらいました。

これを見ていた人たちは、老人のしょんぼりした様子に同情して、小銭を出しあってナシをひとつ買い、老人にあげました。「どうもありがとうございます」 老人はていねいにみんなにお礼をいうと、おいしそうにナシを食べはじめました。そして、芯の中にあるナシの種を取り出すと、そばの土に穴を掘ってうめました。

「さあ、みなさん。この種に水をまいてくれませんかな」。物ずきな人が、どこからかつぼを持ってきて、つぼの水をかけると、老人は何かおまじないをとなえました。すると、驚いたことに、みんなが見ている前で、地面からすくすくと芽が出てきました。そのうちどんどん大きくなり、たちまちみごとなナシの木になりました。そして、枝につぼみが出たと思ったら、真っ白な花がいっぱい咲きました。「ほーっ、不思議だ、はなさかじいさんだ」 と、みんなは目をまん丸くしました。もっと驚いたのは、花がちってしまうと、そのあとにおいしそうなナシの実がたくさんなったのです。

老人はのっそり立ち上がると、「さあみなさん、先ほどのお礼です。どうぞ、好きなだけ召しあがってください」 老人は、枝にたわわになっているナシの実をもぎとると、見物人に配りました。「ほう、これはうまい」 「こんなおいしいナシは、はじめてだ」 みんな大喜びです。ナシの実がなくなると、老人はナシの木を引きぬき、それを肩にかついでいってしまいました。

ナシ売りは、見物人にまじってこの一部始終を、口をあんぐり見ていましたが、はっと気がついて、道ばたにおいた荷車のところに戻りました。見ると、山盛りいっぱいつんであったナシがひとつもないのです。「ややや…。あのじいさんが、手当たりしだいもいでいたナシは、おれのナシだったんだ。それにかじ棒までなくなっている」

かっとなったナシ売りは、いそいで老人のあとをおいかけました。角をまがったところに、かじ棒が落ちています。「うーん、やられた。あのナシの木とみえたのは、おれのかじ棒だったんだ」 ナシ売りはくやしくてくやしくて、地だんだふみました。でも、いくら探しても老人の姿はどこにも見あたりませんでした。

今日5月12日は、看護師の社会的地位の向上に大きな貢献をし、「愛の天使」 と賞讃されたナイチンゲールが1820年に誕生した日であり、国際的にも 「ナイチンゲール・デー」 と制定されています。1991年から日本でも、「看護の日」 とされました。

ナイチンゲールの両親はイギリスの名門貴族で、ナイチンゲールは両親のイタリア旅行中、フィレンツェに生まれました。大金持ちの家で育てられたため、ナイチンゲールは子どもの頃から、何不自由のない暮らしをしていました。でも、自分より貧しい生活をしている人を見るたびに、世の中にはどうして金持ちと貧乏な人がいるのだろうと、疑問を持ちはじめました。やがて成人すると、両親の反対をおしきって看護婦になりました。当時、看護婦というのは、働くところのない女の人が、しかたなくやる仕事だったからです。看護師の仕事の大切さを深く理解していたナイチンゲールは、夢中で働き続け、ロンドンの病院の看護婦長にまでなりました。

1857年に 「クリミア戦争」 がおこりました。この戦争はロシアと、イギリス・トルコ・フランスの連合国がはじめた戦いでした。はげしい戦争で、たくさんの兵隊が死にました。ケガ人もたくさんいるのに、医者や看護する人もなく、包帯も薬もないために、助かる人もどんどん死んでいくという新聞記事が載りました。これを読んだナイチンゲールは、大臣に手紙を書き、受け入れられて、志願してきた人の中から38人の女性を選んで、戦場におもむきました。粗末な設備の病院で、夜寝る間もおしんで懸命に働くナイチンゲールと看護婦たち。献身的な働きは高く評価されて、ナイチンゲールは 「クリミアの天使」 といってほめたたえられました。

いずみ書房のホームページ・オンラインブックでは 「せかい伝記図書館」 を公開中です。約100人の伝記のうちのひとりとして 「ナイチンゲール」 の生涯を詳しく紹介していますので、ぜひご覧ください。なお、ここでは、ナイチンゲールを看護婦としていますが、今では 「看護師」 という呼び名が使われています。2002年3月以前は、女性の看護師を 「看護婦」、男性看護師を 「看護士」 としていたことをおことわりします。

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