児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年05月

今日5月23日は、従来の楽しむための演劇にたいし、劇を通して現実のさまざまな問題を考えてもらおうと 「人形の家」 などたくさんの劇を発表した劇作家イプセンが、1906年に亡くなった日です。

19世紀の終わりころ、世界じゅうに新しい演劇運動が起こりました。それまでの劇が歴史や伝説を中心にしたものであったのをやめて、いま生きている人間の苦しみやよろこびを物語にした劇を盛んにしていこう、という運動でした。その運動の大きなきっかけをつくり、近代劇の父とよばれているのが、ヘンリク・イプセンです。

イプセンは、1828年に、ノルウェー南部のシーエンという小さな町で生まれました。父は商人でした。ところが、イプセンが7歳のときに父が商売に失敗したため、家族は、ちりぢりになってしまいました。

イプセンは、学校教育もあまりうけないまま大きくなり、15歳のときに、薬局に住みこみではたらきにだされました。そして自分で勉強をしながら医科大学をめざしましたが、試験に落第してしまいました。

「人間は、どうして自由に生きられないのだろうか」

しだいに、イプセンは人間の自由をしばりつける社会に不満をもつようになりました。そして、20歳をすぎたころから権力や社会と戦う人間を主人公にした劇を書き始め、やがて、『戦士の塚』 が上演されると、ノルウェー国民劇場の舞台監督に招かれ、演劇人としても活やくしました。

1864年、36歳になったイプセンは、家族をつれて、ドイツへ渡りました。それからの27年間は、ほとんど外国で生活しながら劇の台本を書きました。劇で人間の自由を訴えようとする自分の考えが、ノルウェーの人びとには理解してもらえなかったため、祖国をとびだしたのです。

『ペール・ギュント』 『社会の柱』 『人形の家』 などの劇を発表していくうちに、イプセンは、世界に知られる大文学者になりました。とくに、「妻は夫の人形ではありません。妻も男と同じ人間です」 と、夫も子どもも捨てて家をでて行く目ざめた女を描いた 『人形の家』 は、世界の人びとをおどろかせました。そのころの古い社会では、妻が、自由を求めて家を捨てるというようなことは、とても考えられないことだったからです。イプセンを非難する人も少なくありませんでした。

しかしイプセンは、その後も 『幽霊』 『民衆の敵』 『野鴨』 などの社会問題をとりあげた劇作をつづけ、1906年78歳で、信念をつらぬきとおした生涯をとじました。『人形の家』 の主人公ノラは、いまもなお婦人解放の心のささえとなって生きつづけています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」 の後半に収録されている7名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

私の好きな名画・気になる名画 21

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アンリ・ルソーが近代絵画の歴史に大きな役わりをはたしたのは、次の2点にあります。まず、ルソーがどんな流派にも入らない独自の画風をもったことです。もう1点は、まったく美術教育を受けず、天真らんまんな童心の世界をひらいた点です。

ルソーは1844年フランス西部の田舎町ラバルで金物屋の子として生まれました。18歳のとき兵役に入り、5年後に除隊してからは、パリの通行税を集金するつつましい税関史の役人になって、ひまをみては好きな絵をかいていました。そして、つとめをやめて絵だけに専念しだしたときは、50歳近くになっていました。

この 「自画像」 は、ルソーが1890年の頃に描いた作品で、原題は 「私自身、風景=肖像画」 とあり、これまでの肖像画にはなかった、バックにエッフェル塔のそびえるパリの町、万国旗や気球など、さまざまなルソーの大好きなものを描きこみました。ルソーの人柄はとても善良で、友人の一人は 「あげられるものなら心臓でも人にあげるほどだった」 そうで、60歳をこえても、子どものように澄みきった目をしていたといいます。

ルソーは、目にうつる自然の形をとおりいっぺんに描く画家ではありませんでした。じぶんが心から感動し、体験したもの、あるいは空想したものを、いろいろな形をかりて創りだした画家でした。その子どものようなまごころ、すみきった熱情が、人なみはずれた創意と結びついて色となり形となって、独自の様式を生みだしたのでしょう。

ウーデという親友が、こういっています。「ルソーは40歳から25年間、1日もむだのない年月をおくり、1時間としてむだのない日をおくった。眠るひまも、食べるひまもげずって、絵をかく根気はすさまじかった。たどたどしい絵筆のために、かえっておもしろい形のくずしかたや単純化がでてきたし、1900年ごろになると、たどたどしさをのりこえた技術をつかんで、色どりも複雑なものになっていった。夢のようなパリの景色、物語のかおり立つジャングルのさま、花や静物。それらの作品には、不誠実やいつわりのかけらすら見られない素朴さ、あくまでくもりのない愛情でみたされた心──そうした尊い人間性がひしひしと感じられる」 と。

42歳のときから、ルソーはパリのアンデパンダン展 (審査のない展覧会) に出品するようになりました。いつも彼の絵は人びとから笑われたり、からかわれたり、はずかしめられたりのし通しでした。でも、ピカソやピカソの友人の詩人アポリネールらは、ルソーの芸術の価値を高く評価し、「ルソーじいさんを讃える夕べ」という会を開きました。ピカソ27歳、ルソー64歳の時で、招待されたルソーは感動の涙を流したそうです。こうして、ピカソと仲間たちのおかげで、ルソーは有名になり、絵が売れるようになったことを忘れてはなりません。

美しい精神が息づいているルソーの絵は、原始芸術や土民の芸術とともに、絵画の世界にまじりけのない素朴な新しいジャンルをひらき、絵画史では 「素朴派」 と位置づけられています。

今日5月21日は、黄熱病・梅毒・狂犬病・蛇毒などの細菌の研究に、大きな成果をあげた野口英世が、1928年に亡くなった日です。

恐ろしい細菌が身体に入ると、多くの人は病気になったり、死んだりします。でも、その細菌がどんなものかがわからないと、菌を殺す薬をこしらえたり、殺す方法がわかりません。そんな恐ろしい細菌の研究に生涯をかけたのが野口英世で、特に熱帯地方に多い黄熱病の病原体を発見しながらも、アフリカでその黄熱病に倒れてしまいました。

野口英世の子どもの頃の名前は、清作といいました。清作の家はとても貧しく、6人家族の働き手は母親のシカしかありませんでした。清作が2歳になったとき、シカがうらの畑で仕事をしていると、突然 「ギャーッ!」 という清作の声が聞こえました。びっくりして家にもどると、なんと清作が、火の燃えているいろりに手をつっこんでいるではありませんか。すぐに清作をだきあげましたが、火の中につっこんだ清作の左手は、焼きただれていました。すっかりあわてたシカは、清作のやけどした手に味噌をぬり、その上に包帯をぐるぐる巻きつけました。近くに医者はいない上、いたとしても診てもらうお金がありません。こうして、清作の左手の指は握られたままみんなくっついて、木のこぶのようになってしまったのです。

やがて清作は、小学校へ通うようになりました。何かあるたびに、みんなは清作の手のことを 「てんぼう(丸太ん棒)」 といってからかいます。学校へ行くのがいやになった清作は、ずる休みをするようになりました。(清作をてんぼうにしたのは私だ。私の力で、清作を人に笑われない人間にしてあげなくては) と思ったのでしょう、シカは、ある日清作にいいました。「おまえは、手が使えなくても、頭ならいくらでも使えるはずだよ。悔しかったら、しっかり勉強して、みんなを見返しておやり」 と、励ますのでした。

清作は夢中で勉強をしました。そして、4年生になると学年の代表に選ばれ、低学年の子どもを教えるほどになり、もう 「てんぼう」 とばかにする者はいなくなりました。12歳で高等小学校に入ると、小林栄という先生が、優秀な成績を残すものの、清作の家が相変わらず貧しいのを知り、他の先生に相談して、清作の手の手術するお金を集めてくれました。手術が成功し、指が自由に動かせるようになった清作は、「よし、ぼくは医者になろう。そして、病気の人やケガをした人たちをぼくのように治してあげるんだ」 と、心に誓うのでした。

以上は、野口英世が医師となることを決意した有名なエピソードですが、その後の生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック (「せかい伝記図書館」 を公開中) の 「野口英世」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

今日5月20日は、自らの小説を 「人間喜劇」 と名づけたフランスの小説家バルザックが、1799年に生まれた日です。

「ナポレオンは、ヨーロッパを剣でひとつにしようとした。わたしは、ペンで、同じことをやってみせる」

このように語っていたというバルザックは、いつも、ま夜中から仕事を始めました。パリの人びとが寝しずまったころ、ベッドからぬけだして机に向かいます。ペンが原稿用紙の上をすべりだすと、もう、とまりません。手がつかれ、目がかすんでくると、毎日、何10杯でもコーヒーを飲みながら、10数時間でも1日じゅうでも書きつづけました。

『ゴリオ爺さん』 『谷間の百合』 『従妹ベット』 など91編の小説を、30歳のころからおよそ20年のあいだに書きあげ、それをひとつにして題をつけたのが、有名な 『人間喜劇』 です。小説の舞台はヨーロッパじゅうにおよび、作品の登場人物は2472人にのぼっています。バルザックは、自分のペンひとつで、フランスを中心にしたヨーロッパ社会をえがきだそうとしたのです。小説のほかに戯曲や評論も書きつづけ、そのすさまじい仕事ぶりは、神わざというよりほかはありません。これほどまでに仕事にむちゅうになったのは、借金に追われていたからだ、ともいわれています。

オノレ・ド・バルザックは、フランスのツール市に生まれ、役人をしていた父の転任で、15歳のとき、パリへ移り住みました。そして、両親のすすめで、大学では法律を学びました。しかし、自分の才能は文学に適していることを信じてきたバルザックは、両親を説きふせて町はずれの屋根裏部屋に閉じこもり、小説を書き始めました。ところが、5年の歳月が流れても、小説家への道は開けませんでした。

生活に困りはてたバルザックは、ひと財産つくりあげることを夢見て、印刷業を始めました。でも、大失敗に終わり、2、3年ごに手もとに残ったのは、ばく大な借金だけでした。バルザックは、こんどこそと、命がけでペンをとりなおしました。そして、ついに歴史小説 『みみずく党』 がみとめられ、ま夜中に起きだし、コーヒーをあおって 『人間喜劇』 にいどむようになったのです。

借金に追われたからだとしても、バルザックの残した 『人間喜劇』 は偉大です。人間社会をありのままにえがく写実主義に、小説家のたくましい創造力を加えて、近代文学のきそをきずきあげました。1850年、バルザックはコーヒーで命をちぢめて51歳で世を去りました。「ビアンションをよべ」。死にぎわに叫んだ人の名は、自分が書いた小説のなかの医者でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 9巻「スチーブンソン・シューベルト・アンデルセン」の後半に収録されている7名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

1560年5月19日は、織田信長が、尾張の国桶狭間 (おけはざま・現在の豊明市) で、わずか2千人ほどの兵力で4万5千の軍を率いる今川義元軍を打ち破って、いちやく戦国大名の中でも、一目をおかれる存在になった日です。

織田家は、信長の父のころ、ようやく尾張の国の半分をじぶんのものにしただけの弱小大名にすぎませんでした。北の美濃には斉藤道三、東の三河には松平広忠(徳川家康の父)、さらに今川義元、その北には甲斐の武田信虎(信玄の父) という力のある武将が、地方を統一し、やがて京都に上って、天下を支配したいとねらっていました。

その中でも、駿河・遠江・三河の3国を支配する今川義元は、4万5千もの大軍をひきいて京の都へのぼり、日本の大名たちに号令をかけようと行動に出ました。尾張は、京への通り道です。東海随一の力を誇る義元は、信長がかんたんに服従するものと、信長の力をみくびっていました。

まともな戦いでは、信長に勝ち目はありません。信長は、敵の本陣を奇襲することをきめました。まず300の兵を今川本陣を真正面から攻め入らせました。これは、織田の主力の動きをさとらせないためです。今川軍は、織田軍をさんざんやっつけ、いくつかのとりでも攻め落として勝った気分になり、桶狭間の山のそばにある田楽狭間で、ひといきいれていました。

信長は、山あいや丘のかげを、今川軍にさとられないように、田楽狭間へと進みました。時刻はちょうど正午。にわかに大風がふき、大雨になりました。夕暮れのように暗くなった中に、稲妻が走ります。そんなどしゃぶりの中を、「尾張武士の名を残したい者は、信長に続け!」 と叫んで、信長は今川本陣の中を突き進みました。あまりの速さに、今川軍は戦力を立て直す余裕もなく、弓取り名人といわれた義元も、名もない信長の兵に首をとられてしまいました。こうして、大将のいなくなった今川軍は総崩れとなって、大敗北をきっしたのでした。

いずみ書房のホームページ・オンラインブックでは 「せかい伝記図書館」 を公開中です。約100人の伝記のうちのひとりとして 「織田信長」 の生涯を詳しく紹介していますので、ぜひご覧ください。

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