児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年05月

今日5月30日は、「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが 「魔女」 の汚名をきせられ、1431年に処刑された日です。

14世紀から15世紀にかけて、イギリスとフランスは、長い戦争をくりかえしていました。これを 「百年戦争」 といいます。当時のフランスは、まだまとまった国になっておらず、イギリス王はフランスに広い領地を持っていて、いつかフランスを併合しようとたくらんでいました。そして、フランスのシャルル6世の妃が、イギリス王と結んでイギリス兵を国内に入れ、反対派を倒して、王冠をイギリス王にやってしまったのです。これがきっかけとなって、イギリスは首都パリを占領、フランスの北部はイギリスの手に落ちていきました。いっぽう反対派は、後にシャルル7世となる皇太子を立てて、どこまでもイギリスと対抗していました。

その頃、北フランスのドンレミといういなかの村に、ジャンヌ・ダルクという13歳の少女がいました。ジャンヌは 「フランスを救え」 という神のお告げを何度も聞きました。それから4年、イギリス軍はさらに南下していきました。そして1428年の秋、イギリス軍はオルレアンの町を攻撃します。オルレアンは、フランス西南部を守る重要なとりでです。「オルレアンを守りなさい」 というお告げを聞いたジャンヌは、髪を短く切って男装し、よろいを着て白い馬にまたがりました。人々はまさに神の使いと思ったにちがいありません。ジャンヌは、シャルル皇太子にあい、激戦中のオルレアンに進みました。フランス兵の士気はいちどに盛り上がり、その勢いに、イギリス兵はあわてて逃げ出しました。こうしてジャンヌは、オルレアンをとりもどし、国を救ったのです。

でも、ジャンヌの名声をねたむ者が、ジャンヌをイギリスに売り渡し、宗教裁判にかけられました。やがて判決が下され、ジャンヌは 「魔女」 として十字架にはりつけにされてしまいました。わずか19歳の命でした。しかし、1920年になって、ローマ法王は、ジャンヌを 「聖女」 の位につけ、フランスを救った英雄として讃えました。

なお、いずみ書房のホームページ・オンラインブックでは 「せかい伝記図書館」 を公開中です。約100人の伝記のうちのひとりとして 「ジャンヌダルク」 の生涯を詳しく紹介していますので、ぜひご覧ください。また、おなじオンラインブックにある 「レディバード100点セット」 には、「ジャンヌダルク」 の日本語参考訳を収録しています。あわせて目を通すことをお勧めします。

 

私の好きな名画・気になる名画 22

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ローランサンは、1883年、私生児としてパリに生まれました。母は裁縫の仕事をしながらローランサンを育てました。子どもの頃から絵を描くのが好きだったローランサンは、やがてデッサンの勉強をはじめましたが、母と娘だけの狭い世界での時間が長く、本格的に絵の勉強をはじめたのは、20歳をすぎた頃のことでした。

時代は20世紀に入り、画家たちは新しい絵画の表現を求めて模索をしていました。フォービズム(野獣派)という絵画を発表したマチスに対し、ピカソやブラックは、キュービズム(立体派)という造形美術に挑戦していました。その活動の中心はピカソのアトリエで、「洗濯船」という名がついていました。たくさんの若い芸術家の中に、ローランサンもまじっていました。当時の画家は、ほとんどが男性で、女性がプロになるのは、ひと一倍努力しなくてはならなかったことでしょう。ある日ローランサンは、ピカソから、新進の詩人として注目を集めていたアポリネールを紹介されました。

ローランサンの描く絵は、ほとんどが女性の絵です。そして、独特のスタイルをしています。あごのとがった細い顔、大きな瞳をした切れ長の眼、長くてまっすぐな鼻、両すみが少し上がった唇、まっすぐに伸びた細くて長い手足。おしゃれな洋服は単純化されて描かれています。色彩はピンクとコバルトブルー、緑とグレーで、それに白がまじっていかにも女性の絵を感じさせます。

こんなローランサンの絵が気に入ったアポリネールは、雑誌の評論でローランサンの絵の革新性を絶賛したことで、二人は急速に接近していきました。「洗濯船」で仲間たちと芸術論たたかわすことからはなれ、やがてセーヌ川にかかる「ミラボー橋」で、愛を交わす間がらになりました。

しかし、6年後に破局が訪れました。アポリネールが、ローランサンとの別れのせつなさつづった詩「ミラボー橋」は有名です。「ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ、我らの恋が流れる。月日は流れ、私は残る……」と。後にこの歌は、シャンソンとなって大ヒットしました。

1914年にはじまった第1次世界大戦の前に、ローランサンはドイツ人と結婚したために、戦争中はスペインに亡命せざるをえませんでした。戦争が終わるとローランサンは、アルコール中毒の夫と離婚、かつての恋人アポリネールは、戦争の傷が原因で亡くなっていました。

第1次大戦後のローランサンは、より幻想的な絵を描くようになりますが、絵ばかりでなく、詩や本の挿絵をかいたり、バレーなどの舞台美術や衣装も手がけるなど、女性が社会的に多彩な仕事をするようになったリーダー的な存在としても、高く評価されています。

この「3人の女」は、60歳になった頃から描きはじめ、1956年に亡くなる少し前に完成させたローランサンの代表作です。左上にある橋は、セーヌ川にかかる思い出の「ミラボー橋」なのでしょう。最後の情熱をこの絵にこめたものと思われます。なお、この絵は長野県の茅野市にある、世界で唯一のローランサンの専門美術館「マリー・ローランサン美術館」に飾られています。1983年に100点ほどの展示物から開館し、いまでは学生時代のデッサンや版画など、あらゆる年代のローランサンの代表作500点を収納しています。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 43]

むかし、お母さんと二人でくらしているハンスという少年がいました。お母さんに頼まれて、納屋から小麦粉を持って階段をおりてくると、ピューッと北風が吹いてきて、粉を吹きとばしてしまいました。しかたなく、ハンスはもう一度納屋へもどって粉を持ってきましたが、階段のところへくると、またもや北風が粉を吹きとばしました。腹を立てたハンスは、「粉を返せ!」と叫びながら、北風を追いかけました。でも、追っても追っても北風は逃げていって、なかなかつかまりません。ようやく、雪の野原に氷の家が建っていて、北風の家のようです。

「おーい、北風さーん、中にいる?」 とハンスが叫ぶと、北風が顔を出しました。「坊やか、何か用かい?」 「おじさん、ぼくの粉をさらっていったでしょ。だから、ぼく、粉を返してもらおうと思って、追いかけてきたんだ。だって、ぼくたちは貧乏で、おじさんに粉をさらわれたら、飢え死にするほかないもん」 「わしは、お前の粉なんか取りはしないよ。でも、よくもこんな遠くへきたもんだな。よし、お前たちがそんなに困っているのなら、特別のテーブルかけをあげよう。『テーブルかけ、おいしいごちそうを出してくれ』 っていうと、その通りになるんだ」

不思議なテーブルかけをもらったハンスは、北風にお礼をいうと、家へ帰りはじめました。途中で夜になったため、ハンスは宿屋に泊まって、さっそく試してみました。「テーブルかけ、おいしいごちそうを出してくれ」 といったとたん、おいしそうなごちそうがテーブルの上に並びました。ドアのすき間からのぞいていた宿屋の主人は、ごちそうを見ると、テーブルかけがほしくてたまらなくなりました。そこで、夜中にハンスの部屋に忍びこむと、テーブルかけを、ただのテーブルかけとすりかえてしまいました。

家に帰ったハンスは、お母さんにごちそうを出してあげようとしましたが、パンの1枚も出てきません。ハンスはもう一度北風のところへ走りました。「北風さん、テーブルかけは返すから、粉を返してよ」 「弱ったな、それじゃ、このヒツジをあげよう。『ヒツジ、ヒツジ、お金を出しておくれ』 っていうと、金貨を出すんだ。帰り道、ハンスはやはりこの前の宿屋に泊まって、試してみました。するとヒツジは、ほしいだけ金貨を吐き出します。ドアのすきまから見ていた宿屋の主人は、また夜中に忍びこんで、ただのヒツジと取りかえてしまいました。

ハンスはお母さんに金貨を出してあげようとしましたが、また何も出てきません。そこで、もう一度北風のところへ出かけました。「弱ったな。わしにはもう、あそこにある古いステッキしか、お前にやるものはない。『ステッキ、ステッキ、悪いやつをぶちのめせ!』 というと 『ステッキ、もうおやめ!』 というまで、たたき続けるんだ」

その夜も、ハンスはあの宿屋に泊まりました。つえをしっかり抱いてベッドに入ると、いびきをかいて眠ったふりをしました。このステッキも魔法のステッキと思った宿屋の主人は、またすりかえようとしました。そのとき、ハンスは叫びました。『ステッキ、ステッキ、悪いやつをぶちのめせ!』 といったからたまりません。ステッキは主人に飛びかかって、ビシビシたたきはじめました。主人は悲鳴をあげながら 「お願いです。どうかステッキを止めてください。テーブルかけも、ヒツジもお返しします」

『ステッキ、もうおやめ!』 とハンスはいうと、宿屋の主人からテーブルかけを受けとり、ヒツジをひっぱりながら家に帰りました。こうしてハンスは、北風からもらった不思議なテーブルかけと、ヒツジのおかげで、お母さんと幸せに暮らしたということです。

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 79

母親が1日に、1回でも2回でも、わが子に 「お母さん、うれしいわ」 「ママ、うれしいわ」 と声をかけてやることの素晴らしさ。1年ほど前から、これを実践されたお母さんと話をする機会がありました。お聞きしたその内容のポイントを記してみましょう。

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はじめは、子どもが手伝いをしてくれたり、素直にいうことを聞いてくれたり、成績がよかったりしたときに 「うれしいね」 と声をかけていました。これが習慣のようになって、いつのまにか、子どもが自分の考えをはっきりいったり時や、自分の気持ちを素直に伝えてくれたような時にも 「ちゃんと自分で考えたのね、うれしいわ」 「隠さないできちんと話してくれたわね、うれしいわ」 と声をかけるようになりました。「うれしいわ」 と声をかけた時の、子どもの笑顔が私にはたまらなくて、それが、私にますます 「うれしいわ」 をいわせるようになっていったようです。おかげで子どもは、ごく自然に主体的に物事を考えたり、考えを表現するようになってくれました。子どもは子どもで、私が喜ぶのがうれしくなったのでしょう。気がついてみると、いつのまにか子どもへの小言が少なくなったのも、思いがけない収穫です。これまではガミガミ小言ばかりいっていたのが、ほんとにウソのよう。「うれしいわ」 と声をかけることの素晴らしさに、どうしてもっと早く気がつかなかったかと思う毎日です。

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「うれしいわ」 という言葉を通して、母親と子どもの信頼関係が深まったのですね。ぜひみなさまのご家庭でも、実践されることをお勧めします。

今日5月26日は、幕末から明治にかけた波乱の時代に生き、西郷隆盛・大久保利通とともに、明治維新の大功労者のひとりとして活躍した木戸孝允(きど たかよし) が、1877年に亡くなった日です。

長州藩(山口県) の藩士だった孝允は、薩摩藩(鹿児島県) の西郷隆盛や大久保利通とならんで 「維新の3傑」 といわれています。高杉晋作なきあとの長州藩の軍隊をひきいた孝允が、西郷や大久保たちの薩摩藩と力をあわせ、江戸幕府から政権をとりもどす大事業をなしとげたからです。

1833年、孝允は藩医の長男に生まれましたが、7歳で桂家の養子になったため、若いころの孝允は桂小五郎の名で知られています。早くから秀才とうたわれましたが、はじめてほんとうの学問を知り、武士としてどのように生きるべきかを教えられたのは、16歳のとき吉田松陰の松下村塾に学んでからだといわれています。松蔭は、いま日本の若者が何をしたらよいかを、諸外国の実情を話しながら講義しました。その年月はそれほど長くはありませんでしたが、強い影響をうけました。

19歳で江戸(東京) に出た孝允は、江戸一流といわれた斉藤弥九郎の道場で剣の修行にはげみ、たちまち 「斉藤道場の小てんぐ」 とはやされるほど上達しました。また孝允は、江川太郎左衛門に西洋の砲術をまなび、海岸のまもりをかためる方法をしらべるなどの努力もおしみませんでした。

1859年 「安政の大獄」 で恩師の吉田松陰が死罪になると、孝允は、尊皇攘夷に考えをかため、幕府を早くたおさないと、日本は外国の食いものになると説いたのです。そして、この運動をおしすすめるためには、他の藩の同志と手をにぎらねばならないと考えました。京都に出た孝允は、長州藩を中心に幕府をうちたおす計画をすすめました。そのあいだにも、幕府の役人や新撰組にねらわれるなど危険な毎日でした。

しかし、1866年土佐(高知県) の浪人坂本龍馬のなかだちで孝允と西郷隆盛があい、敵対していた長州と薩摩の両藩が手をにぎる密約ができました。これをきっかけに討幕運動はいっきょに高まり、まもなく江戸幕府は倒れて明治維新をむかえました。

明治の新政府ができると、孝允は長州の代表として政府の指導者になりました。孝允は、藩主毛利敬親を説得して、土地と人民を朝廷にさしださせて版籍奉還を実行しました。そして廃藩置県に努力するなど近代国家としての新しい政治のしくみをつくりました。岩倉具視の副使節として欧米視察の旅からかえると、西郷の征韓論に反対し、また大久保の台湾出兵にも反対して政府の役人をやめました。のちに復帰して、立法、行政、司法の三権分立を確立させましたが、1877年西南戦争のさいちゅうに西郷の身を案じながら病死しました。

なおこの文は、いずみ書房 「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 31巻 「福沢諭吉・坂本龍馬・西郷隆盛」 の後半に収録されている7名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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