児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年04月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 41]

昔、イギリスのノーフォークという県のスオファムといういなか町に、貧しい行商人が住んでいました。愛犬を連れて、一日中荷物をかついで売り歩いても、その日の食べものにありつけるのがやっとというほどでした。

この男の人がある日、夢を見ました。絵でしか見たことのないロンドン橋があらわれ、「ここへ行けば良いことがあるぞ」という声が聞こえます。この夢が一晩だけでしたら、忘れてしまったことでしょう。でも、次の夜も、また次の夜もというように、毎晩続くのです。

(こりゃ、ためしに行ってみるか) という気になった男は、愛犬といっしょに長い長い道のりを何日も歩いて、やっとロンドンにたどりつきました。その頃、ロンドン橋の上にはきれいな店が立ちならび、川には大きな船が行きかっています。男の人は、生まれてはじめてみる都のようすに、うっとりしながら、橋の上をうろうろしていました。でも、夢に聞えてきた「良いこと」は、おこってくれません。

いつまでたっても何もおこらないので、男の人はあきらめて帰ろうとしたところ、橋の上で店を開いている一人の主人によびとめられました。「お前さん、何の用があって毎日毎日、橋の上を行ったり来たりしてるんだね」「いえ、ここへ来ると良いことがあるっていう夢をみたんですよ」。男が答えると、店の主人は、腹をかかえて笑いだしました。

「まったくあんたもいなか者だな。そんなばかげたことでロンドン橋へ来たっていうのかい。おれもちょくちょく夢を見るんだが、ゆうべ見た夢では、おれはスオファムといういなか町にいたのよ。貧しい行商人の家の裏庭にある樫の木の根元を掘ると、たいした宝物がでてくるというお告げがあったんだ。だがな、いくらなんでも、わざわざそんないなかへいくほど、わしゃ、ばかじゃないね」

これを聞くと、男はうれしくなって、家へとんで帰りました。すぐに家の裏庭の樫の木の根元を掘りおこしました。すると、店の主人のいったことは、うそではありませんでした。宝物がたくさん出てきたのです。

男はこうして大金持ちになりましたが、お金を大切にすることを忘れずに、町に教会を建てたということです。そして、町の人はこの男の死後、教会に男の像をこしらえました。今も、愛犬を連れて荷物をかついだ行商人の銅像が残っているそうですよ。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 77

テレビに「はじめてのおつかい」という単発の長寿番組があります。母親が4、5歳の子どもにお使いを頼み、まわりの者をハラハラ、ドキドキさせながら、子どもが自分の力でお使いをはたすのを見守るというものです。

この番組を見ていつも思うのは、子どもに 「主体的に物事に取り組ませる」 ことの素晴らしさです。親の権威だけで子どもにいうことを聞かせるのではなく、あくまで子どもの主体性を大事にして、子ども自身に判断をゆだね、自分の力で何かをやろうとするものを充分残して導いていくところに、多くの人が共感するのでしょう。

水たまりの一角に、指先ででも一本の「みぞ」をつくってやれば、水たまりの水は自分の力で流れ出していきます。親の思い一つでひきずっていかれる多くの子どもは、自分の力で「みぞ」を流れていくことの喜びを味わえないままでいます。それにひきかえ、「はじめてのおつかい」では、お使いという「みぞ」へ自分の力で流れ出していくことで、自分の力で何かを知り、自分の力で一つのことを達成させながら、ほんとうの喜びをあじわいとっていきます。

子どものしつけというものは、本来、こうあるべきではないでしょうか。

今日4月7日は、流れ作業による自動車の大量生産を成功させ、世界一の自動車会社を創立したフォードが、1947年に亡くなった日です。

「蒸気は、とじこめられてしまうと、どうなるのだろう」

少年は、土びんに水を入れてふたをしばりつけ、口にはしっかりせんをして、火にかけました。まもなく、水がふっとうしたと思うと、大きな音とともに土びんがはれつして、蒸気がふきだしました。少年は、頭にけがをしてしまいましたが、蒸気には強い力があることを、自分の目で確かめました。この少年こそ、のちにアメリカの自動車王といわれるようになった、ヘンリー・フォードです。

1863年にアメリカのミシガン州の農家に生まれたフォードは、少年時代から機械いじりが大すきでした。失敗をくりかえしながら、さまざまな実験をかさね、13歳のころには、町じゅうのこわれた時計をなおしてしまったほどでした。

「どんなことがあっても、ぼくは機械技術者になりたい」

16歳のとき、こっそり家を出てデトロイトの町へ行き、エンジン工場ではたらき始めました。ところが5年ご、父が病気でたおれてしまいました。家にもどったフォードは、畑ではたらくことになりました。しかし、どうしてもエンジンのことが忘れられません。やがて、畑を耕す車に蒸気エンジンをつけた「馬のない馬車」を考えたりして、実験にとりくむようになりました。

「やっぱり、わたしが生きるところは、デトロイトしかない」

28歳になったフォードは、農場を人に貸して、ふたたび家をとびだしました。そして、エジソンの電燈会社に勤めながら、ガソリン自動車の研究に没頭し、3年ごには、ひとりでつくった「馬のない馬車」を、ヨタヨタと走らせるのに成功しました。

やがて自分の工場を建てたフォードは、できるだけ安く、たくさんの車を生産しようと考えました。そして1913年に開始したのが、5000以上もの部品をコンベアにのせて流しながら、ずらりとならんだ労働者が、じゅんじゅんに自動車をくみたてていく、という方法でした。

「大成功だ。これで自動車が町にあふれるようになるぞ」

限られたわずかな人たちの乗り物だった自動車は、大量生産することによって、たくさんの人が手軽に手に入れられるようになったのです。

自動車の生産で名をあげ、たちまち大事業家となったフォードは、1947年、自動車王とよばれた輝かしい生涯を閉じました。若者たちに残した「将来にむかって生きよ」という言葉は、フォード自身が、終生つらぬいた信念ともいえます。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

私の好きな名画・気になる名画 19

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パリにある 「ルーブル美術館」 で、いちばん人だかりがしているのはレオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」。この絵の前には世界中から来ている観光客のさまざまな言語が飛びかいます。もうひとつの人だかりは、ダビッドの代表作 「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」。この絵の前にいるのはフランス人が多数を占めるようです。それは、フランスの英雄ナポレオンのもっとも誇り高い瞬間が描かれているからに違いありません。ナポレオンは、1796年にイタリア遠征軍最高司令官に任命されて成果をあげてから、1815年に追放されるまでの20年間が栄光に満ち時代であり、1804年12月2日に「ノートルダム大聖堂」で行なわれた皇帝ナポレオン即位の儀式を描いたのがこの作品なのです。

当時ダビッドは、ナポレオンから「主席画家」の称号を受けていました。そして、その名誉にかけて、歴史の目撃者として、また記録者として、あらゆる能力を駆使してこの戴冠式を描きました。はじめダビッドは、ナポレオンが教皇(ピウス7世・絵の中でナポレオンの後ろでいすに座っている) から冠を授かるのではなく、誇らしげに自ら冠をかむるところを描くつもりだったようです。でも、ナポレオンの動作が周囲と関係なく完結してしまうこと、傲慢な印象を与えるおそれがあること、構図としても面白さがかけるために、その冠をひざまずくジョゼフィーヌの頭上にかざすようにしたといいます。

およそ3年の歳月をかけて制作した、たて621cm、横976cmというこの巨大な絵を見たとき、ナポレオンは思わず 「これは絵ではない。まるで画面の中に入っていけるようだ」 と感嘆の声をあげたそうです。大聖堂の内部の空間、特に高さを実際の半分ぼどに縮小して臨場感あふれる演出をしたり、人物はほぼ原寸大で、総勢200人にもおよぶ人々が誰であるかを認識できる価値ある肖像画、威厳にみちた歴史画をめざしたのでしょう。中央の貴賓席には、実際に出席してはいなかったナポレオンの母親が描かれ、その上にはスケッチする自画像も描き入れているのも、自身の代表作となることを強く意識したに違いありません。

ダビッドは、1748年に鉄材を扱う商人の家に生まれました。父親はまもなく商人から徴税請負人に転進しますが、ダビッドが9歳の時、父は決闘に敗れて死亡。ダビットは、建築家である母方の叔父に引き取られました。やがて、絵の才能が認められ美術学校へ入学して、絵の修行にはげみました。でも、22歳から25歳まで毎年、若い画家の登竜門というべき「ローマ賞」に応募しますが、なかなか評価してもらえません。そして1774年、5度目の挑戦でめでたく受賞、1775年にローマ留学をはたすことになりました。出発前はイタリア美術にたいした期待はしていませんでしたが、たちまちその素晴らしさに圧倒されてしまいました。

その後、サロンという官展に「ホラティウス兄弟の誓い」という絵が出品されると、一大センセーショナルを巻き起こし、そこに描かれた兄弟愛や団結心が人々への共感をもたらし、これが1789年のフランス革命への呼び水になったとさえいわれています。生来の熱血漢だったダビッドは、革命の理想に共鳴して、美術界の行政にも力をふるいました。しかし、友人だったロベスピエールが失脚すると、ダビッドも逮捕されてしまいます。そんな彼に救いの手をさしのべたのが、英雄ナポレオンでした。ダビッドの才能と実力を高く評価していたナポレオンは、画家を主席画家に任命して、この戴冠式の絵を描かせたことは、はじめに記した通りです。

このように、ダビッドは、彼が生きた時代と同じように大波乱の人生でした。ナポレオンの失脚後は、逮捕をのがれるためにスイスに逃亡、さらにベルギーのブリュッセルで亡命生活を送リ、1825年その地で生涯を終えました。しかし、ダビッドはアングルら多くの弟子たちを育て、「新古典主義」という新しい画風をこしらえたと高く評価されています。

なお、この絵とほぼ同一の作品が、パリ郊外にあるベルサイユ宮殿にもあります。ダビッドは、会心の作品が焼却破棄されることを恐れて、亡命先のブリュッセルで描いたものです。左端に描かれた5人の女性のうち、ナポレオンが最も愛したといわれる妹フォーリンクの衣装だけを白からピンクに変えてあります。

「どうして氷の入ったコップは汗をかくの?」 おもしろ科学質問箱 14

空気は、いつでも水蒸気をふくんでいます。でも、空気が水蒸気をふくむ量には限りがあって、暖かい空気は水蒸気をたくさん含むことができますが、冷たい空気は少ししか含むことができません。そのため、空気がだんだん冷えてある温度より下がってしまうと、空気がこれまでもっていた水蒸気をもっていられなくなって、水に変わります。このように、水に変わる温度を露点といいます。湿度というのは、空気中の水蒸気の量を示しているので、湿度100%が露点ということになります。

氷の入った冷たいコップがあせをかく(水滴になる)のは、コップの表面の温度が露点以下になったからです。自然にできる露も同じで、水蒸気をふくんだ暖かい空気が、露点よりひくい温度になって、冷たい表面に水滴になってつくためです。ただ、朝方に葉っぱなどにつく露はそれだけでなく、植物そのものが根っこからすいあげた水もふくまれています。昼間は温度が高いため、根からすいあげた水は蒸発してしまうのに、夜は温度が低いため、蒸発しないためです。

以上のようなことがわかったのは、それほど古いことではなく、古代ギリシアのアリストテレスの時代から250年ほど前までは 「露は雨のように降ってくる」 と信じられていたそうです。

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