児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年03月

私の好きな名画・気になる名画 17

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この絵 「フォリー・ベルジェールのバー」 を描いたマネは、モネやルノアールらとともに、印象派を代表する画家といわれます。でも、マネは彼らと同時代に新しい絵画を創造していましたが、印象派展には一度も出品したことはなく、印象派の画家たちに行くべき道を示した先駆者といってよいかもしれません。

マネは、1832年に裁判官の子としてパリに生まれました。16歳のころ、画家になる決心をしましたが、法律を勉強させたい父親は許してくれません。やけになったモネは、南アメリカに行く船の水夫になりました。苦労をすれば世間のつらさもわかって、自分のいうことを聞くようになるだろうと父親は甘くみました。でも航海から帰ってからもマネの決心は変わらず、父親もついに画家になることを許してくれました。

マネはクーチュールという画家の弟子になりましたが、師の教えにあきたりなくなって、ルーブル美術館に通っては、イタリアのベネチア派のティツィアーノ、スペインのベラスケスやゴヤ、オランダのフランス・ハルスらに夢中になり、模写したりして熱心に勉強をしました。さらに、画家たちの故郷であるイタリア、オランダ、スペインを旅行をするほど彼らに傾倒しました。

マネの絵の新しさは、「明るく、もっと明るく」 と従来の暗い絵に挑戦して絵を明るくしたことと、人々の暮らしをいきいきと描いたことにありそうですが、それがあまりに革新的でした。1863年、マネは大作 「草の上の昼食」 をサロンという官展に出品しましたが落選しました。しかし、その年の選び方に問題があるとして、ナポレオン3世は落選展を開きました。でも、「服を着た男たちの間に全裸の女がいるとはけしからん」 と非難されてしまいました。さらに、1865年には 「オランピア」 が出品されると 「全裸でねている女と黒人の下女と黒ネコとは、何という無作法」 と世評はますます悪くなりました。

一方、そんな世相とは反対に、これまでの誰もが考えなかったマネの大胆で斬新な絵を高く評価する人たちが現われました。詩人のボードレール、小説家のゾラらはマネをかばい、後に印象派とよばれる若い画家のピサロ、モネ、シスレー、ルノアール、ドガたちは、マネのもとに集まっては、芸術論に花を咲かせました。

そんなマネの最後の傑作といわれるのが 「フォリー・ベルジェールのバー」 です。亡くなる1年前、50歳の時の作品で、このころのマネは、ステッキなしでは、立つこともできないほど足が弱っていたそうです。フォリー・ベルジュールは、歌やショーが楽しめるパリでも人気のカフェ・コンセールでした。まさに、世界でも有数の華やかな劇場で、マネもここによく通い、青春を謳歌していたのでしょう。この作品が最後の大作になるだろうと考えたマネは、その舞台にでかけて、すばやく描いたスケッチをもとに、アトリエの中で最終的な構図を決定したようです。

真ん中に立っているのは、幕間などに飲み物や軽食を客に提供するウェイトレスで、何か物思いにふけるようなメランコリックな表情をみせています。鏡に映っている後姿を見ると、山高帽をかぶったヒゲの男客の注文を受けているようにみえますが、どう見てもこの位置関係には矛盾があり、意図的にこのような構図にしたマネの真意は謎につつまれたままです。しかし、きらびやかな照明、何百人という着飾った人々、左上に空中ブランコ乗りの足などが映し出された鏡の中のぼんやりした映像と、手前のビュッフェの上の色とりどりのビン、果物鉢の中のオレンジ、コップの2輪のバラなどの色と形のはっきりした前景との対比が、実にみごとに表現されています。愛してやまなかったパリの生活への思い出、死を前にした孤独感や喪失感、ウェイトレスの表情は、そんなマネの複雑な心境をあらわしているのではないでしょうか。

「キリンの首やゾウの鼻は、どうして長いの ?」 おもしろ科学質問箱 11

ヨーロッパには、古くから自然界の成り立ちを詳しく調べる 「博物学」 という学問が発達していました。古代ギリシアのアリストテレスは哲学者として有名ですが、さまざまな生きものの形態や生態について、詳しい観察と記述をしたため、博物学の祖ともいわれています。

でも、ヨーロッパではキリスト教を信仰している人たちが多く、聖書に 「すべての生きものは、神様がこの世のはじまりの時、7日間のうちに作り上げた」 ことになっています。博物学も、キリスト教の枠の中で発達した学問なので、生きものは、それぞれ神様によって作られ、作られたときから何も変化していないと考えられてきました。

こうした考え方に疑問をなげかけ、いっさい変化しないのでなく、少しずつ変化してきたという進化の考え方をはっきり打ち出す人が現われました。フランスの博物学者ラマルク(1744-1829)で、自分の考えを1809年 「動物哲学」 という本に記述しました。

「たとえば、キリンの祖先は、首が短く、低い枝についている葉をたべていた。ところが、低いところの葉を食べつくしてしまったため、もっと高いところの葉を食べなくてはならない。そこで、一生懸命首を伸ばして食べていたところ、首が長くなった。ゾウの鼻が長いのも同じで、高い木の枝の果物などを鼻で取るうちに、だんだん伸びてきた」 というものです。この考えかたは、「用不用説」 といって、長い間これを支持する学者がたくさんいましたが、現在は間違いだとされています。

続いて、進化論に新しい学説をとなえたのが、イギリスの博物学者ダーウィン(1809-1882)です。1859年 「種の起源」 という書に記した 「自然淘汰説」 で、「キリンの首もゾウの鼻も、最初は長いものも短いものもあった。しかし、結果的には生存競争に勝ち残り、自然条件に適応できて生きのびてきたのが首の長いキリンや、鼻の長いゾウだった」 ということになります。

どのようにして、ダーウィンがこの説を打ち出すことになったかにつきましては、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」第10巻に収録している 「ダーウィン」 に詳しく記されていますので、ぜひご覧ください。

なお現在は、ダーウィン説が有力ではありますが、進化論をもう少し総合的に考える時代になってきています。ダーウィンの時代は遺伝のしくみが解明されていませんでしたし、自然淘汰以外の進化のメカニズムを説明する 「分子進化中立説」 など、たくさんのことがわかってきたからです。

今日3月12日は、「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている孫文(そんぶん)が、1925年に亡くなった日です。

中国の革命に一生をささげた孫文は、1866年、広東省香山県(いまの中山県)の農家に生まれました。

12歳のとき、兄のいるハワイへ渡って教育を受け、外国の進んだ文化に目をみはりました。やがて帰国して医学を学び、27歳の年に、医者としてはたらき始めました。

このころ満州民族の清朝に支配されていた中国には、正しい法律もなく、人びとは、権力をふりまわす王朝に、いつもおさえつけられていました。ところが、そんな清朝も、外国に対する力は弱く、1894年に起こった日清戦争では、日本に負けてしまいました。

「このままだと、中国人はみじめになるばかりだ。早く清朝をたおして、新しい中国をつくり、政治を変えなければだめだ」

孫文は、同じ考えの人びとと手を結んで立ちあがりました。しかし1895年、広州で革命ののろしをあげようとしたとき、ひそかに進めていた計画がばれてしまいました。

故国をのがれ、いくつもの国ぐにを渡った孫文は、おおぜいの外国人や、外国にいる中国人によびかけて、革命を成功させるために協力を頼みました。1905年には、東京に中国革命同盟会をつくり、革命の旗じるしとして、民族・民権・民生の三民主義を高くかかげました。

「中国内のすべての民族は平等でなければならない。国の政治に対する国民の権利は平等でなければならない。国民ひとりひとりの生活の豊かさは平等でなければならない。」

国民みんなの力で、国民みんながしあわせになれる中国を建設しようという孫文の考えは、しだいに実を結び始めました。やがて、同盟会の人びとは次つぎに中国へ帰り、大陸の各地で、国の権力をうちやぶる戦いを始めました。1912年、ついに清朝を倒し、中華民国をうちたてました。これは辛亥(しんがい)革命とよばれています。そして、臨時の大総統にえらばれたのが、16年ぶりに祖国へ帰った孫文でした。
 
しかし、新しい中国の建設は、ほんとうに成功したわけではありませんでした。まもなく、孫文にかわって軍人の袁世凱(えんせいがい)が大総統になると、むかしの権力国家へもどり始めたのです。

孫文は、中国国民党をつくって、またもや立ちあがりました。しかし、1925年、国民会議を開こうという計画をいだいたままガンにたおれ、58歳の生涯を閉じてしまいました。孫文は、新しい中国を見ることはできませんでしたが、その第一歩をふみだしたことで、いまも革命の父としてたたえられています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 37]

昔あるところに、ジョンという、頭のちょっと弱い男の子がいました。

ある日ジョンの母親が、町まででかける用事ができたため、ジョンにいいました。「町まで行ってくるから、どろぼうに入られないように、しっかり表の戸を見張っているんだよ」 「わかった、しっかり見張っているよ」

ジョンは家の前に立つと、戸をじっと見ていました。でも、いつまでたっても母親が帰ってきません。(どうしたんだろ、何かあったのかなぁ) 心配になったジョンは、母親をむかえにいくことにしました。でも、ジョンが出かけてしまうと、表の戸を見張る者がいなくなってしまいます。「しかたがない。戸を持っていこう」 ジョンは、表の戸をはずすと、肩にかつぎました。すると、むこうから7人の人相の悪い男たちがやってきました。肩に重そうな袋をかついでいる男もいます。

(ひょっとすると、どろぼうかも知れない。この戸をとられないようにしなくちゃ) と、ジョンは戸をかついだまま、目の前の大きな木に登っていきました。うまく木の葉のかげに隠れた時、男たちはその木の下に、輪になってすわりました。

「さぁここで、盗んだ金貨の分け前をすることにしよう」 と、親分みたいな男が、袋から金貨をとりだすと、1枚ずつ子分たちに渡しはじめました。これを見ていたジョンは、(やっぱりどろぼうだ。戸を持ってきてよかったな) と思いましたが、そのうち自分も金貨が欲しくなってきました。それで、「ぼくにも一枚!」 といってしまったのです。

「誰だ!」 びっくりした親分は、あたりを見回しましたが、誰もいません。「何だ、気のせいか」 というと、また残りを分けはじめました。ところがジョンは、だんだん自分が仲間になったような気になりだして、「早くこっちにも渡せ!」 と叫んでしまったのです。

「誰だぁ! 出てこい!」 親分は木の上を見上げると、どなりました。そのとたん、ジョンは真っ青になり、戸を押さえていた手が震えて、ドサッ! 戸を、どろぼうたちの上に落としてしまったのです。「ヒャーッ!」 今度はどろぼうたちがビックリ、震えだしました。そして、「ワシらを捕まえにきたんだぁ」 と、われ先に逃げだしたのです。

木からおりてきたジョンは、金貨を1枚残らず袋の中に入れ、かついだ戸の上にのせました。「どうしてみんなくれたのかなぁ。ぼくは1枚だけでよかったのに」 といいながら、家へ帰りました。とっくにもどっていた母親は、「何だねそのかっこうは?」 「母さんは、表の戸を見張ってろっていったろ。だから、戸がとられないように持っていったんだ」

ジョンがおろした戸の上に、金貨の袋がのっています。「どうしたの、このお金は?」 ジョンがわけを話すと、母親はニコニコ。「まぁ、ジョンたら、何ておりこうなんでしょ」 といいました。

 

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 74

子どもの手を引いて買い物に行く。こんな時、たいていは行きも帰りも同じ道です。子どもが違う道に行こうとすると 「そっちじゃない、こっちでしょ」 などと声をかけながら。

これはよく考えてみると、子どもの気持ちを無視した親の都合です。これを思いきって、子ども中心に考えなおしてみたらどうでしょう。子どもがいつもと違う道に行こうとしたら 「あら、そっちへ行ってみたいの? じゃ、行ってみようか。何か、おもしろいことがあるかもしれないね」 と声をかけながら、子どもの行こうとする道に入ってみる。

また、時には親の方から 「きょうは、こっちの道へいってみようか」 と声をかけて、積極的に新しい道に入ってみる。花の咲いている道、小学校の見える道、小川の流れている道、珍しい家や店のある道へ……。

「早くおいで」 「何してるの?」 「もう、おいていくわよ」 「ほら、危ないでしょ」 などと、小言めいたことばかりいいながら、買い物の道をただ往復するよりも、昨日とは違う道を母と子で、新しい発見を楽しみながら語って歩けたら、どんなにすてきなことでしょう。

「きょうは、少ししかお花が咲いていなかったけど、こんどまたいっぱい咲いているときに、あの道へ行ってみようね、楽しみだね」 買い物の道から、家へもどって、子どもにこんな声をかけてやったら、もうそれだけで、再び胸をふくらませるはずです。

子育ての主役は 「子ども」 であることを、常に忘れないようにしたいものです。

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