児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年03月

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 76

朝早く家を出ていって、夜遅く帰ってくる父親。子どもと会話を交わすことの少ない父親。こんな父親をもつ家の母と子に、ぜひ奨めたいことがあります。それは、母と子の間で父親を話題にすることです。

母と子で3時のおやつを食べる時、「おいしいね。でも、お父さん食べられなくてかわいそうね。お父さんも、お茶を飲んでるかな。お父さん“今頃、おうちでは、どんなおやつを食べているのかなあ”って思っているかもしれないね」 などと子どもに語りかける。夜、父親の帰りが遅くて母子二人で食事するときは、「お父さん、まだお仕事なのかなあ。たいへんねえ。お父さん、お腹すいてるよ、きっと。早く帰ってこれるといいのにねえ」 「〇〇ちゃんも手伝ってくれて、いっしょうけんめいに作ったごちそう、お父さんも一緒にたべられたらよかったのにね」 などと語りかける。

母親が意図的に、ほんの一言でも、1日1回でも、こんな形で父親のことを話題にして、子どもの心の中に、父親の姿を浮かび上がらせてあげる──これは、子どもの心の中に、父親への思いを形作らせると同時に、もう一つのすばらしい効果もあります。それは、「お母さんは、いつも、こんなにもお父さんのことを思っているのだ」 「お父さんは仕事ばっかりだけど、お父さんとお母さんは、ちゃんと愛しあっているのだ」 ということを、子どもにも共有させることができるということです。

母親の言葉一つで、子どもの心は大きく変わるものです。

今日3月21日は、宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めたバッハが、1685年に生まれた日です。バッハの音楽は、やがてハイドンやモーツァルト、ベートーヘンらに引きつがれていったのです。

バッハは、ドイツのアイゼナハという町に、なん代もつづく音楽家の家に生まれ、幼いころから、自分も音楽の道へ進むことを心に決めていました。

9歳のときに母を亡くし、つぎの年には父も失ってしまいました。でも、幸いなことにオルガン奏者だった兄にひきとられたので、音楽の勉強をつづけることができました。兄は、オルガンのひきかたも、作曲も教えてくれました。ところが、才能のあるバッハは、教えてもらうだけではものたりません。兄がたいせつにしまっている楽譜を夜なかに、こっそり取りだして、窓からさしこむ月の光ですっかりうつしとり、むずかしい曲を自分の力で学びました。

「自由に、もっといろいろな音楽を学びたい」

15歳のとき、兄の家をでて、よその町の教会の聖歌隊員になり、高等学校へかよいながら、広い音楽の世界へとびこんでいきました。音楽会があると聞けば、食事も馬車に乗るのもけんやくして、一日じゅう歩いて遠くの町へでかけました。新しい音楽を学ぶことができれば、腹がすくことや足がいたいのをがまんするくらい、なんでもないことでした。

18歳で、宮廷にバイオリン奏者として招かれ、つづいて教会のオルガン奏者になり、このころから、作曲にも、すぐれた才能をみせるようになりました。そして、23歳になると、こんどはオルガン奏者として、ふたたび宮廷にむかえられて、神へのいのりをこめたオルガン曲をつぎつぎに作り、オルガン奏者バッハ、作曲家バッハの名は、しだいに国じゅうに広まりました。

そのご、宮廷交響楽団の楽長から、やがては大都市ライプチヒの聖トマス教会合唱長になり、そのあいだに、さらに『ブランデンブルク協奏曲』『バイオリン協奏曲』などの合奏曲のほか、十字架にはりつけにされたキリストにささげる受難曲や、教会でうたう声楽曲を、数おおく作曲しました。

バッハは、それまでは神へのいのりのために作られていた教会の音楽を、芸術の香り高い音楽へひきあげました。それはバロック音楽とよばれています。そして、人間の悲しみや喜びを、音楽のなかで表現しました。

バッハは晩年、目が見えなくなってしまい、不自由な生活をつづけて、65歳でこの世を去りました。死後、バッハの音楽はほとんど忘れられてしまいましたが、半世紀もたってふたたびその価値がみとめられました。いまでは西洋音楽の土台を築いた作曲家として音楽の父とたたえられています。 

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

「ジェット機とロケットとどこがちがうの ?」 おもしろ科学質問箱 12

ゴム風船に空気を入れてふくらませたあと、閉じていた口を開けると、ものすごい勢いで風船は、口と反対の方向へ飛んでいきます。この原理は、次の通りです。

風船の口を閉じているときには、あらゆる方向に同じ圧力がかかっていた中の空気は、口が開くと空気が飛び出し圧力が小さくなります。圧力は小さい方から大きい方に進む性質があるため、口と反対の方向へ向かうわけです。この原理は、ニュートン(いずみ書房のホームページ・オンラインブックで「伝記」を公開中) がいいあらわした「あらゆる作用には、それと等しく逆向きの反作用がある」という自然の運動法則によるものです。

ジェット機は、この風船が飛ぶ原理を応用したようなもので、エンジンの「作用」は、燃料を燃やしてガスを後ろに噴きだすことで、これに等しく逆向きの反作用が、ジェット機を前へおし進めるものです。

この反作用を利用する点では、ロケットもジェット機とおなじです。ただ、ジェットエンジンは燃料を燃やすための酸素を大気(空気)からとりこむのに対して、ロケットは酸素も自分の中に積みこんでいます。つまり、ジェット機のタンクは燃料タンクだけなのに、ロケットには2つのタンクがあって、ひとつは燃料タンク、もうひとつは酸素タンクです。そのため、ロケットは前進するのに空気を必要としないし、空気のうすいところでも、空気のまったくない宇宙空間へ飛び出すことができるのです。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 38]

むかし、ごんべぇさんという、貧乏ではありますが、正直でよく働く若者がいました。ある晩のこと、見たこともない美しい娘が、ごんべぇさんの家にやってきて 「道に迷ってしまいました。どうか、一晩とめてもらえないでしょうか」 というのです。

心の優しいごんべぇさんは、「どうぞ、どうぞ」 と気持ちよく家の中へ入れてあげました。見ればみるほど美しい娘です。ごんべぇさんは (こんなきれいな人を嫁さんにできたらなぁ) と、うっとりながめていると、娘は 「あなたは、とっても親切な人です。どうか、私をあなたのお嫁にしてくれないでしょうか」 というではありませんか。ごんべぇさんは飛び上がって喜びました。お嫁さんは、美しいだけでなく、気立てがよい上、働き者でした。

ところがごんべぇさんは、朝から晩まで奥さんの顔ばかり見ていて、仕事をさっぱりしなくなってしまいました。畑に出かけても、お嫁さんのことが気になって、すぐに帰ってきてしまいます。そこでお嫁さんは、絵かきのところへ行って、自分の姿を絵に描いてもらいました。そして、「お前さん、この絵姿を畑に持っていって、これを私だと思って仕事をしてください」 といいました。

ごんべぇさんは 「なんてきれいな絵姿だ。これなら我慢ができそうだ」 と、毎日奥さんの絵姿を持って、畑にでかけました。そして、畑のそばの木に絵姿を立てかけて、仕事の合間に、何度も何度も絵姿を見にもどっては、仕事にはげみました。

ところが、ある日のことです。強風にあおられて、あっという間に絵姿は空へ舞い上がってしまいました。ごんべぇさんは鍬をほうりだして、絵姿を追いかけましたが、凧のように空高く上がっていって、どこかに消えてしまったのです。

空を飛んでいった絵姿は、殿様の屋敷の庭に落ちました。ちょうど、庭を散歩していた殿様は、この絵姿を見ると、うなってしまいました。「何という美人だ。わしの奥方にしたいものだ」 と、家来を呼びつけ、絵姿の女をさがすように命じました。

家来たちは、あちこちをさがしまわって、ごんべぇさんの家にやってきました。「この絵姿は、お前の女房だそうだが、殿様のいいつけで、屋敷へ連れて行く」 と、ごんべぇさんが泣いて頼んでも聞き入れてくれません。奥さんは 「お前さん、年の暮れになったら、殿様のお屋敷へ門松を売りにきておくれ」 とごんべぇさんにいいのこして、家来に連れられていってしまいました。

ごんべぇさんは、仕事も手につかず、泣きながら毎日をくらしていました。やがて、年の暮れがきました。ごんべぇさんは気をとりなおして、奥さんにいわれたとおり、門松をかついで、殿様の屋敷へでむきました。「門松はいらんかなぁ」 と屋敷の前で大声をあげたのです。

この声を聞くと、殿様の屋敷につれてこられてから一度も笑ったことのなかった奥方が、にっこり笑いました。殿様はこれを見ると、(そんなに、門松売りがおもしろいなら、わしが門松売りになって、もっと笑わせたいな) と、ごんべぇさんを屋敷に入れ、自分の着ているものと、とりかえさせました。それから門松をかついで 「えーい、門松はいらんかなぁ」 といいながら、屋敷の中を歩きまわりました。

奥方は大喜びです。調子にのった殿様は、門松をかついだまま屋敷の外へ出ていきました。そのとたん、奥方は家来に命じて屋敷の門をしっかり閉じさせました。しばらくして、殿様が 「おーい、わしじゃ、門を開けろ!」 といいました。でも、門は閉まったままです。あわてた殿様が門を何度もたたいても、きたないかっこうの門松売りなど、誰も相手にしません。それどころか、殿様は門番にたたかれ、追い払われてしまいました。

こうして、ごんべぇさんが殿様になり、奥方といつまでもしあわせにくらしたということです。

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 75

母親が子どものことを 「勉強はあまりできませんが、素直なだけがとりえです」 「親に逆らうようなことのない素直な子です」 などといいます。母親同士の会話の中にも 「素直が一番ですよ」 という言葉を耳にすることが少なくありません。

ところが、そういう会話に耳を傾けていて 「少しおかしいのでは」 と思うことがしばしばあります。それは、母親のいう 「素直さ」 とは、「親に逆らわない」 「人に反抗しない」 「親のいうことは何でもハイハイ聞く」 ということに偏りすぎていると思うからです。

「飾り気がなくありのままであるさま」 「心の正しいさま」──これが 「素直」 という言葉の本来の意味です。したがって、子どもの側からいえば 「自分の思ったこと、考えたことを率直にいう」 「自分の正しいと思うことを率直にいう」 「自分の信じることを自分に正直に行なおうとする」 ということです。つまり、いいたいこともいわず、あるいはいえずに人に従うのは、決して 「素直」 といえるものではありません。一方では親の顔を見、一方では自分を殺して、見せかけの 「素直さ」 をつくろっているにすぎないのですから。

どんなことでも、自分の思ったことをはっきりいう、その上で人のいうことにも素直に耳を傾ける、自分のしたいことをはっきり告げ、人の意見は温かく受け入れながらまっすぐに進んでいく──こういう 「ほんとうの素直さ」 をもった子どもに育てたいものです。

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