児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年03月

今日3月31日は、ソナタ形式の確立者として、モーツァルトやベートーベンに大きな影響力を与え、104もの交響曲を作ったことで知られる古典派初期の作曲家ハイドンが、1732年に生まれた日です。

作曲家ハイドンのふるさとは、オーストリア東部のローラウという村で、むかしから歌や踊りのさかんな地方です。ハイドンは、音楽的な環境にめぐまれて育ちました。本格的に音楽の修行にうちこみはじめたのは、6歳ごろからです。まず、ハインブルクの音楽教師について、2年ほどきびしい指導をうけました。8歳になるとウィーンへでて、シュテファン聖堂の少年合唱団にはいりました。

合唱団員としてのハイドンは、ボーイソプラノで、しばしば独唱者をつとめるなど、人びとの注目をあつめていました。しかし、17歳になると声変わりで歌えなくなり、合唱団を去らなければなりませんでした。

家が貧しかったので帰ることもできず、ハイドンは途方に暮れました。屋根裏を借りて、そこで音楽教師をしたり、流しのバイオリンひきになったり、各地をてんてんとしながら生活をささえました。ハイドンは、そのあいまに作曲をてがけ、かずかずの交響曲や4重奏曲を生みだして、作曲家としての才能をあらわしていきました。

1761年、名門貴族エステルハージ家の管弦楽団副学長になりました。やがて第1指揮者となり、新曲をつくってはエステルハージ公にささげるという生活を、約30年間つづけました。

楽員たちが長時間の演奏につかれてしまったある夜、ハイドンは新しい交響曲の指揮をはじめました。曲は、最後に近づくにつれてゆっくりとなり、楽器の奏者が、一人、また一人、自分のまえのろうそくを消して舞台を去っていくのです。そしてとうとう、1本のろうそくのまえのバイオリン奏者とハイドンだけになり、曲は終わります。それぞれの楽器が、しだいに演奏をやめてしまうめずらしい技法の『告別』という曲です。人びとは盛大な拍手をおくりました。エステルハージ公は、楽員が毎日の演奏につかれはてていることを思いやった意味に気づき、2週間の休みをあたえたということです。

ハイドンは、100以上の交響曲と80曲もの弦楽4重奏曲をのこしました。『天地創造』『四季』などの名曲は、ハイドンの代表作です。古典音楽のうえでソナタ形式をうちたてたことも、ハイドンの功績としてたたえられます。

1809年5月、ハイドンは、ウィーンに攻めいるフランス軍の砲声をききながら、世を去りました。ハイドンが亡くなったことがつたわると、オーストリア軍もフランス軍も、戦いを中断して、偉大な作曲家の死をいたみました。

ハイドンのやや詳しい生涯は、いずみ書房のホームページ・オンラインブックスに最近公開しました「レディバードブックス100点セット」の中の84巻「大作曲家2」に、ヘンデル、シューベルトと共に紹介されていますので、参考にしてください。なお、83巻「大作曲家1」には、バッハ、モーツァルト、ベートーベンが取り上げられています。

今日3月28日は、足尾鉱毒事件を非難したり日露戦争に反対するなど、正義と平和のために生きた思想家・内村鑑三が、1930年に亡くなった日です。

7歳のときに明治時代を迎えた内村鑑三は、12歳から数年、東京で英語を学び、15歳で、札幌農学校へ入学しました。

「少年よ、大志をいだけ」クラーク博士が、このことばを残してアメリカへ帰ったばかりの農学校には、キリスト教の精神がみちあふれていました。

鑑三は、初めは、キリスト教を強くこばみました。しかし、上級生たちのえいきょうで17歳のときに洗礼を受け、やがて仲間と教会を建設するほど、キリスト教を深く信仰するようになっていきました。

優秀な成績で4年間の学業を終えた鑑三は、水産学者になる夢をいだいて、水産物の調査をする役人になりました。ところが、それから3年のちには、わずかなお金をふところに入れて、太平洋を越える船に乗り込んでいました。神の前で永遠に愛しあうことをちかった妻との結婚生活に、半年でやぶれ、神にそむいた罪を背負って、アメリカへ渡ったのです。

鑑三は、4年のあいだ、はたらきながら大学や神学校でキリスト教を学び、罪をつぐなうために神の子として生きることを心に決めて、27歳で日本へ帰ってきました。

1890年、鑑三は第一高等中学校の講師になりました。でも、わずか半年でやめさせられてしまいました。

学校で、明治天皇からくだされた教育勅語をいただく式がおこなわれたときのことです。箱に入った巻物に、教師も学生も頭をさげましたが「わたしがおがむのは、ただひとつ、キリストの神だけだ」と、自分にちかっていた鑑三は、頭をさげませんでした。天皇は生きた神だとされていた時代でしたから「鑑三は国賊だ」と、ののしられ、学校を追われてしまったのです。

そのごの鑑三は、貧しさとたたかいながら、キリスト教と日本文化のむすびつきや、日本人の心について深く考え『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』などを書きつづけました。また各地での講演で、心をたいせつにする正しい人間の生き方と、自分より人を愛するキリスト教の教えを説きつづけました。

日露戦争が起こりそうになったときには「人を殺す戦争は大罪悪だ」と叫び、1904年に戦争が始まると、日本が勝つことよりも、ただひたすらに平和を祈りました。

鑑三は、勇気ある生き方を人びとに示して、昭和の初めに69歳の生涯をとじました。「人間がこの世に残すことのできる最大のものは、金や名誉ではなく、勇ましい高尚な生涯だ」。これは講演「後世への最大遺物」のなかの、鑑三のことばです。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

なお、「青空文庫」には、内村鑑三の9編の論文が公開されています。

私の好きな名画・気になる名画 18

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18世紀後半から19世紀はじめにかけて、数々の名画を残したスペインの巨匠ゴヤは、さまざまな伝説の持ち主です。1746年、スペインのサラゴサ地方にある田舎町で、貧しい職人の家に生まれました。子どもの頃から絵が好きで、父親にいいつけられた仕事をせずに道ばたで一心に豚の絵を描いていると、たまたまそこを通りかかったお坊さんがあんまり上手なのに感心して、両親を説得し、町のアトリエに入れたというエピソードが残っています。

この2枚の絵 「裸のマハ」 「着衣のマハ」 にもさまざまな伝説が残されていて、この絵のモデルはゴヤの愛人だったアルバ公爵夫人だという説があります。ゴヤが愛人のすばらしい裸身を残しておきたいと考えましたが、二人の関係に疑いを持ったアルバ公爵が、急にゴヤのアトリエを訪れたときのために、着衣の絵を用意しておき、実際は裸体を描きながら、表向きは着衣の絵をかいていることにしたため、この2枚が対になっているというものです。

当時のスペインは、カソリックの教えがとても強く、神話の女神以外の裸体画を描くことが禁止されていて、違反者には厳罰が下されました。そんな時代に、なぜゴヤは、この裸体画を描いたのでしょうか。この絵が描かれ年についてはよくわかっていませんが、おそらく1790年~1800年だろうといわれています。ゴヤは1789年、43歳の時に、念願だったカルロス4世の宮廷画家になりました。しかし、まもなく聴覚に異常をきたしはじめ、2、3年後には完全に聾者になってしまいました。孤独と絶望のなか、次第に内向的になり、病的なまでに想像力がふくらんだためか、より人間を深くみつめた作品を描くようになっていきました。

この絵の注文主は、おそらく王室の実権をにぎっていたマニュエル・ゴドイだったといわれています。彼は、カルロス4世の王妃マリア・ルイザの愛人で、王妃の口ぞえで25歳にして総理大臣にまで取り立てられました。ゴドイの依頼を受け、ゴヤはかねてから描きたかった禁断の裸体画を描くことで、封建的な社会に挑戦する覚悟だったのでしょう。完成したこの2点の 「マハ」 (ちなみに、「マハ」というのは、スペイン語で「伊達女」を意味する、意気で陽気なスペイン女性) の絵は、ゴドイの隠し部屋に収められ、鑑賞できたのは、ごく限られた人たちだけでした。ところが、1808年ナポレオンの軍隊がマドリードに進軍し、失脚したゴドイの邸宅も占領されました。この時、2点の 「マハ」 を含むゴドイの膨大なコレクションが発見されました。特に 「裸のマハ」 の発見の衝撃は大きく、1812年、カトリック教会は、禁断の絵を描いた罪でゴヤを取調べましたが、ゴヤは何も語らず、証拠不十分で無罪となったようです。

ゴヤの証言がないためか、この絵のモデルが誰なのか、いまだに謎のままです。最有力なのは、ゴドイの愛人だったペピータ・トゥドウ説です。マドリードのある美術館にその肖像が残されており、ほんのり朱を帯びた肌の輝きが 「マハ」 を思わせるといいます。いずれにせよ、この2枚の絵が、それだけ人々をひきつける魅力に満ちあふれているからなのでしょう。収蔵するプラド美術館では、並べて掲げられているこのゴヤの傑作だけは見逃すまいと、鑑賞する人々でいつもにぎわっています。

「シャックリって、どうして出るの ?」 おもしろ科学質問箱 13

おなかと胸の間に、横隔膜(おうかくまく)という大きな筋肉の膜があります。この膜は呼吸をするときに、上がったり下がったりして、胸が広がったり縮んだりするのを助ける働きをしています。この筋肉の膜は、いつもは規則正しく動いていますが、このリズムが狂ってしまうと、間をおいてピクリピクリとけいれんをします。これがシャックリです。

人間の身体は、たくさんの反射行動をするようにできています。反射行動は、無意識のうちに、ひとりでに作用するもので、たとえば食物が呼吸の通路にはいったりすると、咳をしたり、むせたりして、食物を追いだそうとするなどの反射作用です。

シャックリもその一つで、熱い食べものを急に飲みこんだり、胃や腸の具合が悪くてガスがたまって横隔膜を圧迫したりするときなどによくおこります。でも、どうしてけいれんが起こるのかは、まだよくわかっていません。そのため、どうすればしゃっくりが止まるのかの決定的な方法は見つかっていません。多くの場合は、自然に止まるものです。水を飲んで胃を刺激したり、背中をたたいたり、少しずつ唾をのみこんだり、びっくりさせたりすると止まることもあります。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 39]

昔ある村に、おじいさんとおばあさんがいました。ひどい貧乏で、その日の暮らしがようやくできるほどでした。ある年、村に泥棒がやってきて、あっちの家でもこっちの家でも、お金や食べ物が盗まれました。

それを聞いたおじいさんが 「そいつは大変だ。泥棒に入られたらどうしよう」 というと、おばあさんは 「家には盗まれるようなものは、何にもないじゃないの」 といいました。「いーや、大釜がある。先祖さまが10人以上も使用人をやとってたころ、みんなの食べる飯を一度に炊いてたものだから、価値があるぞ」 「あんなもの、誰が持っていくものですか。でかいばかりで、何の役にもたちません」 「いーや、きっと盗んでいく。今夜から、かわり番に寝ずに見張ることにしよう」

おばあさんはしかたなく、おじいさんのいう通り、交代で大釜の見張り番をすることにしました。ところが3日たっても泥棒はやってきません。おばあさんは 「こんな貧乏な家に泥棒に入るようなまぬけはいません。私はもう見張り番はやめますよ。そんなに心配なら、お前さんが大釜の中に入って寝ればいい」。そいつは名案だと、おじいさんは、その晩から大釜の中へ入って寝ることにしました。大釜に入ってフタをすると、すぐに眠くなり、そのうちぐっすり眠りこんでしまいました。

真夜中のことです。泥棒たちがおじいさんの家にやってきました。「何てひどい家だ。ガラクタばかりで盗むものなんてありゃしない」 とブツクサいいます。でも、引き上げようとしたところ、土間のすみに大釜があるのに気がつきました。「しかたがない、この大釜でも持っていくとするか」 と、泥棒の親分の命令で、子分たちは大釜に縄をかけ、外へ運びだしました。

「それにしても重たい釜だな」 大釜をかついだ子分たちは、あっちによろよろこっちによろよろ、ようやく村はずれまで来て、下ろしました。大釜のフタをとったところ、おじいさんが死んだように眠っています。「やい、じじい、起きろ!」。ところが、前の日から寝ずの番をしていたせいで、おじいさんはいくらゆすられても目をさましません。腹をたてた泥棒たちは、おじいさんの頭を刀でそり上げ、悪態をついて、大釜をそこに置いたまま引き上げていきました。

つるつる頭になったおじいさんは、急に寒くなって目をさましました。すると、大釜のフタもなければ天井もなく、月がこうこうと輝いているではありませんか。おじいさんはもうビックリ。「ばぁさん、大変だぁ。泥棒に家を盗まれた!」

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