児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年02月

「人間は、大むかしおサルさんだったってホント ?」 おもしろ科学質問箱 8

生物が地球上に生まれてから、20億~30億年という、とほうもない時間が過ぎました。この生物の歴史の中で、人類が加わるようになったのは、ほんの何百万年というほどの単位でしかありません。生物の長い長い歴史の最後の1ページに、私たちの祖先がおそるおそる地上におりてきたといってもよいでしょう。

人間に近い仲間にサルがいますが、人間はサルと先祖は共通してはいても、のちにサルとなった一族とは分かれて独自の発達をしてきました。サルとの一番大きな違いは、人間が2本足で直立して歩くことからはじまったようです。

それは、いつからはじまったのでしょう。サルの生活は、基本的には樹上でのくらしです。人間の祖先もまた、長い樹上生活があったに違いありません。でも、人間の祖先はやがて、気候による食料の不足からか、草原に進出してきました。木からおりてきたサルの仲間であった祖先、これが驚異的な進化のはじまりでもありました。つまり、2本足で立つことが他の動物たちと人間との分かれ目であり、立って歩いて手の自由を得て、さらに道具を使うことによって人類の祖先が誕生したのでしょう。しかし、生活に適したものが生き残り、複雑で精密な頭脳を持つようになる進化の過程には、さらに長い時間が必要でした。

人間はどこからやってきたのか、この問いに答えてくれるものは、世界各地で発見される骨の化石です。つい最近までは、南アフリカで発見された200万年以上前の化石アウストラロピテクスが最古の人類と考えられていました。しかし現在では、人類の祖先はおよそ700~800万年前までさかのぼることができます。それがラマピテクスやサヘラントロプスなどで、人類とサルとの分かれ目にいた最古の人類と考えられています。自由になった両手で、ごく簡単な道具くらいは使っていたと思われますが、まだサルに近い姿をしているので猿人とよばれています。

その後に地上に現われた人類は、原人とよばれるジャワ原人やペキン原人たちです。その名の通り、ジャワや北京郊外で発見された化石は、今から20~50万年前と推定されています。

その次に現われたのが、より人間に近いネアンデルタール人です。今から15~5万年前のヨーロッパに住んでいたこの人々は、はじめて死者のための葬式やその他の儀式的なことも行なっていたようです。でも、このネアンデルタール人も、猿人や原人たちと同様に、絶滅してしまいました。

そして、起源はまだ不明ですが、現人類の直系の祖先というクロマニョン人が、3万5千年ほど前にヨーロッパに現われました。彼らはラスコーやアルタミラの洞窟に見られるような芸術的な絵画を残し、さらに住居を作ったり、さまざまな優れた文化を生み出していました。

人類の歴史のほとんどは、石器時代であり、人類はまさに、石器時代の人々の気の遠くなるような長い間の自然との闘いに生き残り、築きあげられた生活なくしては成立しえなかったことを、私たちは忘れてはなりません。

今日2月14日は、キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、さまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家ジェームズ・クックが、1779年に亡くなった日です。

クックは、1728年、イギリスのヨークシャーに生まれました。父は、農場にやとわれている労務者でした。家庭はいつも貧しく、農場の費用でようやく村の学校に通うことができました。生活のために早くから働かねばならず、雑貨屋で仕事をしていました。そのうち海にあこがれるようになり、思い切って海運業者のもとへ徒弟奉公にあがりました。数学と航海術をみっちりと学んだうえ、荒れる海を数限りなく経験して、クックは一人前のたくましい船乗りに成長しました。

クックは、すでに幅広い知識をもっていたので、それだけで十分社会に通用しました。しかし、よりいっそう新しい体験を求めて海軍に志願しました。ちょうどイギリスがフランスと戦争を始めたころです。戦艦ペンブルック号に乗りこみ、測量や製図などの方面で大いに活やくしました。地理上の調査にも腕をふるい、その力はおおくの人に注目されました。数学、天文学、測量術などの研究にうちこみ、評判は高まるばかりです。

そのころ、王立学会が南太平洋に遠征観測隊をおくって、金星の動きを観測してくることになり、司令官にクックが選ばれました。大西洋を南にむかった船は、1か月以上もかけてアメリカ大陸の南端を通過し、太平洋にでました。やがて、緑の島タヒチにたどりつき、観測に成功しました。クックの一行は、すぐには帰国しないで、そのまま南太平洋の探検をつづけました。海図にもでていない南方大陸を調べることが、もう1つの任務だったからです。そして大陸の一部と思われていたニュージーランドが南北につらなる2つの島であることをつきとめ、さらに西へ進み、オーストラリア大陸に達しました。クックが、大陸のようすをくわしく調査したのち、イギリスはオーストラリアを自分の領土にすることを宣言しました。

クックは、この大航海につづいて、さらに2回の大航海をなしとげました。南極へむかった航海では、ニューカレドニアやフィジーなど未知の島を多数確認しながら、新しい航路を開拓しました。たいへんな偉業でした。

ところが、最後の航海でアラスカ半島を回った時、北極海の厚い氷にはばまれて、それ以上進めなくなりました。しかたなく戻って、ハワイで過そうとしましたが、原住民と争って、海岸で殺されてしまいました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 33]

ある冬の夕方のこと。お寺の墓掘りの家では、おかみさんと大きな年とった黒ねこのトムが、だんろにあたりながら、墓掘りの帰りを待っていました。でも、なかなか帰ってきません。

やっと帰ってきた墓掘りは、家へとびこんでくるなり、「トミー・トルドルムって知ってるか?」といいました。おかみさんも、トムもびっくりして墓掘りをみつめました。

「あらっ、いったい何のこと?」 とおかみさん。「さっき、大変なことに出あったのよ。死んだじいさんの墓を掘ってて、ちょっと疲れたんでついウトウトしちゃったのさ。それから、ニャーオってねこがなくんで、目がさめた」 すると、「ニャーオ」 と、トムがなきました。「そう、トムみたいにな。お墓のむこうを見たら、9ひきの黒ねこがいるじゃないか。なんと、8ぴきが小さな棺おけをかついで、1ぴきの大きなヤツが、いばりくさって先頭に立ってくるんだ。ねこどもは、3歩歩いちゃ、ニャーオってなくんだ」 「ニャーオ」 トムがまたなきました。「うん、ちょうどそれとそっくりだ」 「いいの、年よりトムのことなんか」

「だんだんオレに近づいてきて、大きなヤツがじいさんの墓の前でとまった。おれはこっち、やつらはあっちで、ねこどもがオレのことをじっと見てるんだよ。おや、トムを見てみろ! ねこがしたみたいにオレを見てる!」 「いやだよ、トムなんかほっときな」

「どこまで話したっけかな? そう、一番でっかいヤツが、オレを見ながらいったんだ。間違いなくいった。キーキー声で、トミー・トルドルムに 『チム・トラドルムが死んだ』 と伝えてくれとな。それで、お前に聞いたわけよ、トミー・トルドルムって、誰か知ってるかって。トミー・トルドルムがわからなくちゃ、『チム・トラドルムが死んだ』 っておしえてやれないだろ」

「トムをごらんよ、トムを!」 と、おかみさんが金切り声をあげました。トムがみるみるふくれだして、しわがれ声をあげました。「何っ! チムが死んだ? それじゃ、オレがねこの王様だ」 そういうと、トムはだんろのけむり穴に飛び上がると、それっきりいなくなりました。

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 70

ほとんど毎日のように顔を合わせる近くの家の子なのに、そして、こちらの顔は十分に知っているはずなのに、外で会った時、何の挨拶もしない。こちらが、わざと大きな声で 「おはよう」 「こんにちは」 といっても、仕方なしに小さな声でぶつぶつと、挨拶らしいことばをもらすだけで、はっきりこたえようとしない。

今、こんな子どもが多すぎます。しかし、そんな子どもでも、子どもを憎む気にはなれません。その子が悪いのではなく、人に気持ちのいい挨拶をさせないようにしてしまった親に大半の責任があるからです。

挨拶もできない子は限って、何かを聞くと、無言か「別に──」 という返事がかえってきます。「学校はおもしろい?」 「遠足は楽しかった?」 と声をかけても、ただ「別に──」 と一言。これは、なんと悲しいことでしょうか。

わが子に 「よその人に挨拶なんかしなくてもいいのよ」 なんて教えている親はいないはずです。ところが、“親のふり” に学んでいるうちに 「挨拶のできない子」 が育ち、それが人への気くばりや思いやりの心をもむしばんでいって、せっかくこちらがやさしい心でなにか声をかけても、それに応えようとはせず、ただ自分の気持ちだけで 「別に──」 となってしまうのでしょう。

挨拶のできないこと、挨拶をしないことが何をもたらすのか、考え直してみる必要があるようです。

私の好きな名画・気になる名画 13

%83%8B%83m%83A%81%5B%83%8B%20%81u%8D%BF%82%E9%83W%83%87%83%8B%83W%83F%83b%83g%81E%83V%83%83%83%8B%83p%83%93%83e%83B%83G%8F%EC%81v.jpg

先週の「セザンヌ自画像」に続き、ブリヂストン美術館所蔵作品、印象派の巨匠ルノアールの「坐るジョルジェット・シャンパンティエ嬢」をとりあげてみましょう。

ルノアールは、19世紀の後半にフランスで花開いた「印象派」の画家の一人で、やはり光と色彩の画家でした。でも、モネやピサロ、シスレーといった人たちが、主に風景を描いていたのに対し、ルノアールは人物を中心に描きました。子どもも大人も光に包まれているかのようで、とくに女性の美しさは格別なものがあります。そして、見る人たちを楽しい気分にさせるせいでしょう。日本人ばかりでなく、世界の人たちを魅了しつづけています。

ルノアールは、1841年に中部フランスの陶器の町リモージュに、仕立職人の家で7人兄弟の6番目に生まれました。3、4歳の頃一家はパリに移りましたが、貧しかったために13歳のときから陶器工場で皿に絵をかいて働くようになりました。ところが、機械による大量生産商品の増大にともない、仕事がなくなってしまいました。そのため、扇子に絵をかく仕事にかわり、家の暮らしを助けながら、少しずつ絵の勉強をつづけました。

1862年、21歳の時に官立美術学校へ通う一方、グレールという画家のアトリエに顔をだしました。そこでモネやシスレーと知り合うことにより、「目に見えた物を、ただ正確に美しく描くのではなく、見た瞬間に感じたことや印象に残ったことを絵にしていく」といった印象派の考え方に共鳴して、絵を描きつづけました。1864年には、当時の画家の登竜門ともいうべきサロンに入選、その後もときどき入選しましたが、明るい色の多い絵を描くようになると、サロンに落選するほうが多くなったため、印象派の人たちの催す展覧会に出品するようになりました。その頃になっても、ルノアールはいつも貧乏で、肖像画でやっと生活をささえるほどでした。でも、絵の上では、そんな生活の苦しみからくる影は少しもなく、師であるグレールが「君はまるで楽しむために絵を描いているようだ」と咎めたのに対し「楽しくなければ絵など描きません」と答えたという逸話が残されています。

そんなルノアールが、高い評価を受けるようになったのは、出版業を営むシャルパンティエ夫妻がルノアールの絵を気に入り、1875年に3点の作品を買い上げてくれたこと、シャルパンティエ夫人の文芸サロンに、出入りを許されたことがきっかけだったといわれています。富豪家系の出である夫人が、各界の名士たちを招くこの文芸サロンは、当時のパリでもっとも華やかなもののひとつで、ルノアールはここで有名な画家や俳優、文士たちと親しく交わることができるようになったのです。

その夫妻の長女ジョルジェットを描いたこの絵は、ルノアールの思い入れのこもった作品といえるでしょう。バラ色に輝く顔の表情、とくにつぶらな瞳がこちらをじっと見つめる、なんとも愛らしい少女。足を組んだおしゃまなポーズも絵にインパクトを与え、従来の肖像画の描き方へ挑戦しているかのようです。少女の姿ばかりでなく、日本風の居間に敷かれた豊かなじゅうたんの模様、いすの豪華な飾りなどが織りなす色彩の調和も見事です。

ところで、皿や扇子に絵をかいていたころから、絵は自分の感ずるままに楽しんでかくのだと信じてきたルノアールは、40歳をすぎると印象派の人びととはなれ、自分だけの絵をかきつづけるようになります。とくにおおく描いたのは、あどけない少女や、自然のままの女性のすがたでした。なかでも、女性の裸体画は、豊かな色で、やわらかく、あたたかく描くことをどこまでも追究して、たくさんの名画を残しました。59歳のときには、すばらしい芸術がみとめられて、フランス最高のレジオン・ドヌール勲章がおくられました。ところが、このころから、関節がいたみ始め、リューマチに苦しめられるようになりました。

しかし、ルノアールは、絵をかくことをやめません。車いすを使い、開かない手に絵筆をしばりつけて制作にはげみ、78歳で世を去るまで、絵を描き、楽しむことを忘れませんでした。そして生涯に、3000点以上の絵を描いたということです。

↑このページのトップヘ