児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年02月

私の好きな名画・気になる名画 14  

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ゴッホやセザンヌと並び、後期印象派の代表的な画家として評価の高いフランスの画家ゴーガンは、はじめは「日曜画家」でした。24、5歳から34、5歳の頃までは、パリで株式の仲買人として働き、おもに休日に好きな絵をかいていたのです。でもその頃から、サロンや印象派の展覧会にも入選し、一部の画家たちから認められてはいました。

そして、1882年35歳の時、突然会社をやめて画家になる決意をします。そのころ、子どもが5人もいたため生活が急に苦しくなりました。ゴーガンが画家になるのを激しく反対したデンマーク人の奥さんは、子どもを連れて故郷に帰ってしまいました。

その後数年間、ゴーガンは北西部のブルターニュでひどい暮らしをしながら黙々と絵を描き、やがてルーアンやポンタベンなどフランス各地を歩いたり、中南米へでかけたり絵の修行をつづけました。一時は印象派的な絵に刺激を受けましたが、これにあきたらず平面的な彩色で装飾的な絵に変わってきました。1888年には、ゴッホの弟テオの援助で、南フランスのアルルでゴッホと共同生活をしましたが、お互いの頑固な性格がわざわいして、わずか2か月で終局をむかえてしまいました。

ゴッホと別れてブルターニュにもどったころから、ゴーガンは都会の文化的な世界や社交をきらい、素朴な未開人の生活にあこがれるようになりました。もともとゴーガンの母方の祖母は南米のペルー人で、ゴーガンも6歳までペルーで心優しい親戚の乳母たちと暮らしていたために、原始的な生活をなつかしむようになっていたのでしょう。1891年、絵の競売で得たわずかのお金をふところに、南太平洋に浮かぶタヒチ島に渡りました。そして、現地に住む人々をモデルに、たくさんの絵を描きました。ここでの生活のありさまは「ノア・ノア」(かぐわしき香り)という本や多くの手紙に残されています。

この「イア・オラナ・マリア」(タヒチ語で「アベ・マリア」の意味)も、タヒチでの暮らしをはじめて数か月後に描いた作品です。さまざまな色彩に満ちあふれた、なんと華やかな絵なのでしょう。ゴーガンは、この絵について、友人にこんな手紙を送っています。「黄色い翼をしたひとりの天使(画面左奥の翼のある人)が、二人のタヒチ人の女に、やはりタヒチ人のマリアとイエスを指し示しているところを描いたものだ。やはり、マリアもイエスもタヒチ人。彼らはみな裸の上にパレオをまとっている。パレオというのは、花もようのついた布のことで、それを腰のところに巻きつける。背景はきわめて暗い山と花咲く木々、濃い紫の道と、前景はエメラルドグリーンで、左手前にバナナがある。私は、この作品を割りと気にいっている」と書いているので、ゴーガンにとっても会心の作品だったのでしょう。

ゴーガンははっきり意識して、タヒチ人のマリアとキリストを描きました。文明に毒されない未開の島の人々をかきこむことにより、残してきた妻子や友人たちの暮らすヨーロッパ世界との別離を意味しているのかもしれません。さらに、マリアとキリストに手を合わせて礼拝している二人の女性は、仏教のお祈りの姿(ジャワ島のボロブドール寺院にある、仏陀にあいさつをする僧の彫刻をモデルにしています)で、「総合主義の美学」といわれるゴーガンの真骨頂を示している絵でもあるようです。

しかし、ゴーガンにとってタヒチでの暮らしは必ずしも快適なものではありませんでした。すでにフランスの植民地として文明化されつつあり、より原始的な生活を求めてもっと奥地の小屋に住んで、原住民と全く同じような暮らしをしながら、土地の風景や人々の絵を描き続けました。そのうちお金がなくなり、伯父の遺産を受け取るために1893年にパリへもどり、タヒチ展を開いたりしましたが、絵はほとんど売れませんでした。失意のうちに2年後、またタヒチに戻って、また原始的な暮らしを続けました。

しかし、タヒチでの生活にもあきたゴーガンは、1901年、さらに未開の離れ小島に移り住みましたが、孤独と生活の苦労と病気に悩みながら、1903年ひとりぽっちで息を引き取りました。

一部の人たちに評価をされてはいたものの、ゴーガンの未開人の姿や生活とともに描かれたたくさんの絵が、洗練された文明人であるパリの多くの人たちを驚かせ、感銘を与えるようになるのは、死後何年もたってからのことでした。

「電気冷蔵庫は、なぜ冷えるの ?」 おもしろ科学質問箱 9

物を冷たくするには、物から熱をうばいとらなくてはなりません。冷蔵庫というのは、冷やしたものから熱をうばって、その熱を外にすてる必要があります。液体が気体にかわるとき(蒸発するとき)に、まわりから熱をうばうために、冷たくなります。注射する前にアルコール消毒すると、スーと涼しく感じるのも、アルコールが蒸発して、皮膚から熱をうばったためです。夏など、道に水をまくと涼しくなるのも同じ理由で、まいた水が蒸発し、地面の熱をうばったためです。

昔から、たくさんの科学者や発明家が、この蒸発するときに物が冷えるという原理を使って物を冷やす機械をこしらえる努力をしてきました。でも、なかなか実用化できる考え方がみつかりませんでした。1823年、「電気学の父」とたたえられるイギリスのファラディという科学者は、大きな発見をしました。アンモニアガスを圧縮したところ、液体に変わったこと。そして、液体のアンモニアを蒸発させたところ、熱をうばって冷えたこと。この2つの変化を電気の力で活用したのが、電気冷蔵庫の原理です。

現在の電気冷蔵庫の多くは、熱をはきだしたりすいとったりして、ものを冷やす物質(これを冷媒といいます)に、アンモニアではなく、フロン(フレオン)を使ってきました。この仕組みは、次の通りです。

冷蔵庫の心臓の役割をになうのが、コンプレッサー(圧縮機)で、自転車の空気入れのように、外から空気を入れてポンプで空気を押しちぢめてフロンガスを圧縮すると、フロンの熱は外へ出され、温度をさげて液体にかわります。液体フロンは、次に蒸発機(冷凍庫はここにあります)で蒸発させてフロンガスに変え、熱をうばわれた冷凍庫が冷えていくのです。気体→液体→気体という循環を電気でおこなうのが電気冷蔵庫の仕組みといってよいでしょう。

最近は、電気冷蔵庫の冷媒にイソブタンなどが使われるようになりました。フロンが、オゾン層という太陽の紫外線を吸収して地球上の生物が紫外線を浴びすぎない役割をする層を、破壊するということがわかってきたためです。

なお、クーラーも、電気冷蔵庫とまったく同じ原理を利用しています。

今日2月20日は、江戸時代の初期、日本の伝統芸能である歌舞伎の基礎をきずいた芸能者・出雲の阿国 (おくに) が、1607年初めて江戸で歌舞伎おどりを披露した日です。

天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった1600年ころのことです。賀茂川(京都府)のほとりの四条河原で、かね、太鼓を打ち鳴らし、念仏をとなえながら踊る一座が、人気を集めていました。

人気のまとになっているのは、すがたが美しく、声がきれいで踊りのじょうずな、出雲の阿国とよばれた女の芸人でした。

武士中心の社会では、女は男よりも身分が低いものとされ、女が人前で舞台に立つことなどありませんでしたから、人びとはよけいに、女芸人がめずらしくてしかたがなかったのです。

阿国は、幼いころから、旅芸人として踊っていたといわれます。また、出雲大社(島根県)の巫女として神につかえ、大社を修理する費用を集めるために京都へ踊りにきたとも伝えられています。しかし、はっきりしたことは、わかっていません。

1603年ころ、阿国は、男の衣装を身にまとい、腰には刀をさし、武士が茶屋女とたわむれる舞台を演じました。武家社会のようすを、おもしろおかしく皮肉った軽い劇です。また、狂言師を相手に、流行していた歌や遊び、話題になっていた事がらなどをたくみにとり入れて、歌ったり踊ったりしてみせました。

いつのまにか、阿国一座の舞台は、かぶき踊りとよばれるようになりました。たいへん風変わりな踊りだったからでしょう。かぶきというのは、奇妙なふるまいや、すがたをさす言葉でした。世の中からはみだした人間を、かぶき者とよんだほどです。

人びとの目には、阿国の芸が、それまでの芸能の世界からはみだしたものにうつったわけです。しかし、男のすがたをした阿国の踊りは、奇妙であればあるほど評判になり、遊女を中心に、まねをする女たちが次つぎに現われました。そして、その芸を女かぶきとよぶようになりました。

やがて東へ向かった阿国は、江戸でも、大評判になりました。仮面をつけて静かに動くことを主にした能楽の舞いに対して、仮面をつけずに、とんだりはねたりする踊りが、江戸のはなやいだふんいきに、とけ込んでいったからです。1607年には、幕府の第2代将軍徳川秀忠の前でも踊ったと伝えられています。

阿国のかぶき踊りは、おおくの女かぶきの一座によって全国へ広まっていきました。しかし、風紀の乱れを心配した幕府は、1629年に、女の芸人が人びとの前で舞台に立つことを禁止してしまいました。その後、かぶきは歌舞伎と字が当てられ、男だけが演じる時代をむかえます。

阿国は、こうして、歌舞伎のもとをきずいた芸能者として歴史に名を残しました。でも晩年のことは、やはりわかりません。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 34]

ある国に、70歳になると、男も女も捨てるならわしがありました。70歳の老人を、家の人が国ざかいまで送り、そのまま引き返してくるのです。

さて、この国の大臣にも、70歳の母親がありました。大臣は母を捨てるなどしのびなく、ある決心をしました。家の召使いたちにも隠して、地下に隠れ部屋をこしらえて、よその人たちには、母を捨てたといいふらしたのです。

それから何年かしたある日、となりの国から大臣の国の王様へ2頭の馬が送られてきました。「この2頭の馬のうち、どちらが親でどちらが子か返事をもらいたい。できなければ、大軍をさしむけて滅ぼす」 とあります。王様に呼び出された大臣でしたが、もちろん答えられません。いったん家に帰り、よく考えてから返事をするとことわって、その場をのがれました。

大臣は母に聞いてみよう、と隠れ部屋をたずねました。すると 「そんなことは簡単なこと。2頭の間に草をおきなさい。すぐに食べるのが子馬で、残った草を食べるのが親馬」 と答えました。お城にもどった大臣は、さも自分が考えついたように王様に話し、王様は 「親馬」 「子馬」 と書いたふだをつけて、となりの国王あてに送り返しました。

ところがしばらくすると、1本の材木が送られてきました。先も元も同じ太さに削られた材木で、どちらが先でどちらが元かという問いです。どうみてもまったく同じです。また、大臣が呼ばれましたが、もちろんわかりません。よくよく考えてみますと急いで家に帰り、母親にわけを話しました。

「それはごく簡単なこと。水に浮かべて、沈んだ方が元です」。池にその材木を浮かべてみると、たしかに一方が少し沈みます。王様は沈んだほうを元と書きつけて、隣の国へとどけさせました。

もう2度といってくることがないだろうと安心していたところへ、今度は大きな象が1頭送られてきて、この象の重さをはかってよこせというのです。王様の顔面は蒼白になり、大臣を呼びました。こんな大きな象がはかれるような秤なんかありません。こんどこそ、もうだめだとあきらめながら、母親にわけを話しました。でも母親はすぐに、大臣に計り方を教えてあげました。

お城にもどった大臣は、王様にこういいました。 「良い考えが浮かびました。まず、象を船に乗せて、水に浮かべます。船が沈んだところに印をつけて、象を船からおろします。今度は石をひとつひとつ船に積みます。象が乗ったときにつけた印のところまで船が沈みましたら、石を船からおろして、おろした石の重さをはかって、目方を合計すれば象の重さになります」 「うーむ、さすがじゃ」 と王様。

さっそく王様は、大臣のいった通り象の重さを計り、となりの国王に返事をしました。隣の国王は、これは答えられまいと、戦争のしたくをはじめていましたが、今度もみごとに正解です。[こんな難問を解くことができるとは、かしこい人間が多い国だ。こんな国にせめいっては、どんな目にあうかわからない] と思ったのでしょう。仲良くしようという手紙が来ました。

この手紙を受け取った国王は、心から喜びました。「大臣、難問を解いてくれてありがとう。ところでこんな難しい問題を、どのように解いたのじゃ」 「申しわけございません。私には、70歳をこえた母がございます。この母を捨てることができずに、家の中に隠しておりました。この母がすべての答えを教えてくれたのです…」 と、声をつまらせました。

これを聞くと王様がいいました。「この国に、どんなわけがあって老人を捨てるならわしがあったのだろう。そうだ大臣、すぐにおふれを出しなさい。今日からこの国は老人を捨てる国から、老人を敬う国にするとな」

こうしてこの国に、悪いならわしがなくなり、平和な国になったということです。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 71

作文教室の先生から伺った話です。

はじめて教室に来るようになった小学一年生の女の子が、わずか一時間のうちに5回も、「ありがとう」 をいいました。わからない字や文の続けかたを教えてやった時、「ありがとうございました」。横の同じ一年生の子に、机から落とした鉛筆を拾ってもらった時 「ありがとう」。学年が上の4年生の子が 「その字、ちょっと違うよ、ほら、こう書くんだよ」 と教えてくれた時 「ありがとうございました」。そして、一時間が終わって帰る時、「ありがとうございました」。──これが、まったく嫌味がないのです。

そこで、それから2、3回後の教室のとき、たまたま、その子と一緒に来られたお母さんに、たいへん感心したことを話しました。すると、そのお母さんから返ってきた言葉は次のようなことでした。

「私は、祖母から くありがとう> という言葉のすばらしさを教わり、家のなかで夫に対して、何かあれば自然に <ありがとう> というのが習慣になってしまいました。これを夫に強要した事は一度もありませんが、それでも、いつの間にか くありがとう> をよく口にするようになりました。そして、あの子が生まれ、2歳、3歳になった頃から、あの子がちょっとでも何かしてくれれば <ありがとう> と言っているうちに、あの子も、いつの間にやら <ありがとう> と言うようになりました。だだ、それだけのことです」

この話を聞いた後、思わず胸のうちで (ありがとうございました) と言ってしまったほどでした。話の最後に 「ありがとうってすばらしい言葉だと思います」 と言われた時の、このお母さんのお顔がほんとうにきれいでした。

こう語る、作文の先生の笑顔もまた印象的でした。

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