児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年02月

「どうして2月は、28日の年と29日の年があるの ?」 おもしろ科学質問箱 10

よく知られているように、2月29日のある年は閏年(うるうどし)といって、4年に1度あります。では、どうして閏年ができたのでしょう。

私たちがふだん使っているカレンダーは、太陽暦といって、太陽の動きをもとにして作られた暦です。地球が太陽のまわりを一回りする長さを1年とする考え方です。初めて1年の長さをかなり正確に計ったのは、6000年も昔の古代エジプト人でした。他の民族の人たちはたいてい、月の満ち欠けを基本に考える太陰暦をつかいましたが、季節にうまく合う便利な暦は、エジプトで考えられた太陽暦だといってよいでしょう。

1年を365日とするエジプトの暦では、1か月30日を12の月に分け、あまった5日を12月に入れて35日としたようです。でも、長い間この暦を使っているうちに日付と季節にずれがでてきました。このずれを清算したのが、古代ローマの皇帝ユリウス・シーザーでした。シーザーは、紀元前46年を445日とさせ、その後は4年に1度、366日にすることにしました。これは、シーザーの名をとってユリウス暦と呼ばれています。

ところが、年がたつにつれて、これでもまだ日付と季節がずれてしまいます。正確な1年は365.2422日であることがわかって、法王グレゴリウス13世は、1582年を10日間減らして355日とし、その後は各世紀の終わりの年は400で割れる年を除いて、閏年にしないことに決めました。つまり、1700年、1800年、1900年は閏年でなく、2000年は閏年となります。現在ほとんどの国で使われているこの暦は、グレゴリウスの名にちなんで、グレゴリオ暦とよばれています。

ところで、2月29日生まれの人は誕生日が4年に1度だから、歳をとらないと思われるかもしれません。でも、日本の法律では閏年ではない年は、2月28日に歳をとると決められています。

なお、日本では江戸時代まで太陰暦が使われていました。そのため、2月にも30日があり、芭蕉の弟子だった其角という俳人や、徳川家康から家光まで3代の将軍に仕えた大久保彦左衛門がなくなったのは、2月30日となっています。ちょっと面くらってしまいますね。

今日2月28日は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた千利休(せんの りきゅう)が、1591年、秀吉の怒りにふれて切腹を申し渡され、いさぎよく自害した日です。

天下統一をなしとげ、ごうまんな権力をどこまでもおし通そうとする秀吉と、たとえ命をおとしても、誇り高い芸術家として茶の湯を守ろうとした利休との闘いは、利休の死で終わりをつげました。利休は69歳でした。

利休の父の田中与兵衛は、和泉国(大阪府)の堺で倉庫業や魚問屋をいとなみ、屋号を千と名のっていました。そのころの堺は貿易港として栄え、商人たちのあいだでは茶の湯がさかんでした。本名を与四郎といった利休も、家業を手伝うかたわら、茶の湯に心ひかれながら育ちました。

利休は、10数歳の少年時代に、すでに北向道陳(どうちん)という先生から茶の湯を学んだといわれます。そして18歳のころには、名高い武野紹鴎(じょうおう)のもとへ弟子入りして、奥深い茶の湯の作法と心を少しずつきわめていきました。

紹鴎の茶は 「わび茶」 とよばれ、かざりけのないことと、落ちついたさびしさのなかの深い味わいを、たいせつにするものでした。利休は、さらにその中に禅の世界をとり入れることを考え、京都の大徳寺に入って禅の修行にはげみました。このとき髪をそり、与四郎の名を宗易(そうえき)とあらためています。

50歳をすぎたころ、利休は、茶の湯を教える茶頭として織田信長に仕え、信長の死ごは、豊臣秀吉の茶頭となりました。そして天下統一へ突き進む秀吉に、まるで影のようにつきそい、戦場に茶の湯の席をもうけて、秀吉や大名たちをねぎらうことも、めずらしくありませんでした。

1585年、秀吉が宮中で正親町(おおぎまち)天皇に茶を献じたとき、利休は、その茶会をりっぱにとりしきって晴れの舞台をかざり、天下一の茶の湯の宗匠とたたえられるようになりました。こののち、大名、武士、貴族、僧、町人たちが先を争って、利休のもとへ弟子入りしたと伝えられています。

ところが、この天下一が、最後にはわざわいのもとになってしまいます。秀吉のそば近くに仕えているうちに、いつのまにか政治さえ動かすほどの力をもち、それが、天下をとった自信にあふれる秀吉に、利休をにくむ心をめばえさせたのです。

腹を切ったときの利休のすがたは、どんな武士よりもりっぱだったといわれています。利休が、静かに死に立ちむかうことができたのは、茶の湯をとおして、芸術家として大成していたからです。利休によって芸術として高められた茶の湯は、そのご、日本人の生活文化として、ますます栄えていきました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)24巻「武田信玄・織田信長・豊臣秀吉」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 35]

ある山奥に一つの村があり、その村の裏山に大きな虎がすんでいました。雪がたくさんふってきたため、虎の食べものが何もなくなってしまいました。

ある冬の夜、虎は、食べものをもとめて、のそりと村のほうへ下りてきました。ある家に近づくと、中から子どもの泣き声が聞えます。いったい、何を怖がっているのだろうと、虎は窓の下にかがんでじっと耳をすませました。

「もう泣くのはおやめ。だまらないと、恐ろしい山猫がくるよ!」 と、母親がいいました。でも、泣きやみません。するとこんどは、「大蛇がくるよ!」 といいました。ところが、子どもは前よりもっと大きな声で泣いています。虎は、(何とまぁ強い子どもだろう、山猫も大蛇もこわがらないで泣いている) と、感心してしまいました。

その時、母親が 「もう泣くのはおやめ、虎が窓の下に来ているよ! 」 と、こわい声でいいます。虎は見つかったかとギクリとして、もっと身体を小さくつぼめました。でも、子どもはまだまだ泣き続けています。(この強いワシさえ怖がらないとは、いったいどんな子なんだろう) と、虎は少し不安になりました。

「さぁ、もう泣きやみなさい、干し柿ですよ」 という母親の声がすると、今度は、子どもが泣きやんだのです。

虎はもうビックリ。もう、家の中をのぞくどころではありません。(虎より強い干し柿というヤツは、ワシよりずっと強いに違いない) と、すり足、さし足、しのび足で、こっそり山へ逃げ帰りました。

今から72年前の1936年2月26日、大雪の日の東京は、恐怖と不安に包まれた日となりました。若い青年将校たち20余名は1400名もの兵士を率い、「昭和維新を実現させよう」と、国会議事堂を中心とする日本の政治の重要個所を占領してしまったのです。この事件は、2月26日に行なわれたため、2・26事件とよばれています。

この事件がおこる5年ほど前の1931年、柳条湖事件をきっかけに満州事変がおこり、日本は満州全土を制圧。そして溥儀を執政とする満州国を建国しました。これに中国が抗議して満州を中国に返すべきと国際連盟に提訴、これが受け入れられたことから日本は1933年に国際連盟を脱退しました。(正式脱退は1935年) こうして、日本は国際的に孤立の道を歩みはじめていったのです。

そのころ、日本の政治を動かしていたのは、軍部や新しく大きくなった新興財閥といわれる人たちで、新興財閥は、中国を侵略して利益をあげようと思っていました。第1次世界大戦後の激動する世界情勢に直面して、高度の国防国家を作り上げなくてはならないという使命感にかられていた軍部内では、皇道派と統制派の二つの勢力にわかれていました。皇道派ははやく侵略をすすめ、軍部独裁による国防国家をつくろうとする考え方をする人たち。統制派は、それを合法的に少しずつ変えていこうとする人たちのグループでした。

2・26事件は、皇道派の若い将校が中心となっておこした事件で、皇道派の荒木・真崎両陸軍大将をおしたてようと、統制派の中心人物の渡辺教育総監をはじめ斉藤内大臣や高橋大蔵大臣ら、政府の要人を暗殺したり重傷を負わせたのです。

軍部は、この事件をどう扱うかでもめにもめました。結局、青年将校たちは「反乱軍」とみとめられ、討伐軍となった陸軍部隊が反乱軍をとりかこみ、降伏するようによびかけがおこなわれ、4日後の29日に反乱軍は降伏しました。

事件をおこした青年将校たちは、のちに死刑になったり重い処分をされましたが、皮肉なことにそののちの日本は、皇道派が握ることになり、軍部の力で国を動かし、中国を侵略し、太平洋戦争へとまっしぐらに進んでいってしまったのです。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 72

以前、電車に乗っていた若い母親が次で降りるのに気づき、座席にあがって窓の外をみていたふたりの子どもを 「さあ、降りるのよ」 「早く靴をはきなさい」 「なにをぐずぐずしているの」 と叱りつけながら、子どもを引きずるようにして電車を降りていった話を、このブログに書いたことがあります。

ところが、先日、これとは全く逆の光景を目にして感銘しました。座席にあがって窓の外の風景を楽しんでいる3歳と5歳ぐらいの子ども。そして、社内の 「まもなく……」 というアナウンスで次の駅で降りることに気づいた母親。ここまでは、前の母親と同じです。ところが、その後のすばらしかったこと。

「今度降りるわよ、さあ、早く靴はいて」 といった母親が思い直し、次のように言ったのです。「ママがぼんやりしていて悪かったわ。あわてると危ないから、もうひとつ先の駅まで行って、戻ってきましょう。そうすれば、電車にもっとたくさん乗れるからうれしいでしょ。でも、少ししたら、靴をはいてね」

自分がぼんやりしていたのを棚にあげて、子どもたちを叱りつけた母親と、自分がぼんやりしていたことを子どもに詫びて、もうひとつ先の駅まで乗っていった母親。子どもへの対し方のあまりにも大きな違い、それが子どもたちの心へどのように影響を与えたかと思うと、母親の心のありようの大切さを痛感させられたという訳です。

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