児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年01月

「どうして日に焼けると黒くなるの ?」 おもしろ科学質問箱 4

日焼けをすると、皮膚の中にあるチロシンというのが、メラニンとよばれる茶色のつぶつぶに変わります。そのため、日に焼けると黒くなるのです。でも、黒くなるのは、1日か2日たってからで、はじめは、赤くなります。それは、強い日光が身体の中に入ると、血管が広がって、やけどをしたようになってしまいます。やけどしては大変なので、メラニン色素というのが増えて、日光が身体の中に入るのを防ごうとするのです。ちょうど、カーテンで日ざしを防ぐのに似ています。

日光は、次のように、私たちの身体によい効果をもたらせてくれます。
(1) 皮膚に住みついている細菌を殺します。
(2) 身体の中で病原菌とたたかう細胞を刺激して、活動をさかんにします。
(3) 日光の働きで、筋肉や神経が元気になります。
(4) 日光の中の紫外線が、皮膚の中で化学変化をおこして、骨や歯をつくるのに大切なビタミンDを作り出します。

でも、薬を飲みすぎると身体によくないように、日焼けしすぎることに注意しなくてはなりません。将来、シミやソバカスが増えたり、皮膚ガンの要因になったりすることがよくあるからです。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 29]

あるところに、少しばかり土地を持った小ウサギがいました。ある日、袋いっぱいのトウモロコシと豆をとり入れました。小ウサギは、これでひと儲けができないかと、悪知恵を思いつきました。

翌朝早く起きた小ウサギは、メンドリの家へ行ってこういいました。「トウモロコシと豆をひと袋ずつとり入れたので、売ってあげてもいいと思って、まずお宅にうかがいました。どう、たったの1000円でいいですよ。あなたが買わなけりゃ、他の人に話します」 「わかりました。これは、いい買物ですね。どうすればいいですか」 「明日の朝早く、荷車を引いて、私の家へ来てください」
メンドリは安い値段でトウモロコシと豆が買えると喜んで、小ウサギにコーヒーとケーキをごちそうしました。

小ウサギはメンドリにお礼をいうと、キツネの家にむかいました。メンドリにいったのと同じように、トウモロコシと豆を1000円で買わないかといいました。キツネも、こんな安い買物はないと、すぐにこの話にのってきました。そこで、小ウサギは 「それでは、明日の朝8時に、荷車を引いて、私の家へきてください」 といいました。キツネも喜んで、出来たばかりのチーズを小ウサギにあげました。

次に小ウサギがむかったのはオオカミの家です。オオカミも1000円で買う約束をして、明日の朝9時に、荷車を引いて小ウサギの家に行くことになりました。それから小ウサギは、狩人の家に行きました。狩人にも同じ話を持ちかけると、狩人もすぐに買う約束をして、朝10時に小ウサギの家へいくことになりました。

さて、翌朝早く、メンドリが荷車を引いて小ウサギの家にやってきました。小ウサギは 「トウモロコシも豆も家の裏にありますから、荷車を置いていらっしゃい。それが済んだら、ひと休みしてください」 といいました。メンドリはいわれた通り、荷車を裏において、1000円の代金を払うと、小ウサギのすすめられるままに、お茶をごちそうになっていました。
突然、小ウサギがさけびました。「大変だ、キツネがこっちへやってきます!」 メンドリは真っ青になって震えだしました。小ウサギはすぐに、暖炉の中にメンドリを隠してあげました。

小ウサギは、キツネにも裏に荷車を置いてひと休みするようにいって、1000円の代金をもらい、お茶をごちそうしていました。
すると、小ウサギはさけびました。「あっ、オオカミが来た!」 キツネはびっくりして、どこか隠れるところはないかといいます。小ウサギはニワトリのいる暖炉に隠れるようにいいました。キツネは、中にいたニワトリをひとのみにしてしまいました。

オオカミも荷車を裏に置いて、小ウサギに1000円の代金を払うと、小ウサギのすすめる葉巻をふかしながら休んでいました。
すると、小ウサギは 「あっ、狩人が鉄砲を持って来ました!」 という叫びにビックリ。小ウサギはキツネのいる暖炉へ隠してあげると、オオカミは、中にいたキツネをひと飲みにしてしまいました。

狩人が、小ウサギに1000円の代金を払って帰ろうとすると、小ウサギはいいました。「狩人さん、あなたはオオカミがおきらいでしょ」 といいながら、暖炉のほうへ目くばせしました。狩人はすぐに、オオカミがいるのに気がつき、暖炉にねらいをさだめてズドーンと一発打ちました。

こうして、狩人だけが小ウサギの取り入れたトウモロコシと豆を買ったことになります。悪知恵を働かせた小ウサギは、代金4000円と荷車を3台も手に入れたのです。

世の中には、こんな小ウサギのような人間がたくさんいるので、よく気をつけましょうね。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 66

ある団地で目撃した、あまり気分のよくないできごとです。

3、4歳くらいの男の子が、もう10分近くも泣き続けています。母親に帰ろうといわれても、その男の子は、砂場と木馬でもっと遊びたいらしく、母親の手をふりきって、まだ遊ぼうとします。

すると、母親が、いきなり強硬手段にでました。子どものえり首のところをつかむや、泣きさけぶ子を引きずりはじめました。それも、5メートルや10メートルではなく、30メートルも50メートルも。首をつられたかっこうになりながら、そして、ずるずると足を引きずられながら、ますます、泣きさけぶ子。子どもに見向きもせず、まるで、撃ち殺した獲物を引きずって帰るようにして、無言で歩いて行く母親。この光景を目にして、唖然としたのは私だけではなかったようです。

この母親はきっと、いつも叱るか、きびしくいいつけるか、命令するかで、子どものしつけをやりつづけているのでしょう。母親の方から子どもに寄りそっていくことも、母親の方から子どもの声に耳をかたむけることも、まして、子どもの主体性を尊重することもなく、母親である自分好みの子どもをつくりあげることに陥ってしまっているかのようです。

しつけの主体は、あくまでも子どもであることを、よく考えてほしいものです。

「セーターをぬぐとき、どうしてパチパチするの ?」  おもしろ科学質問箱 3

どんな物(物質)も「原子」とよばれる小さな粒からできています。一つ一つの原子も、もっと小さな粒からできていて、その中にはプラスの電気をもった粒子(陽子)と、マイナスをもった粒子(電子)がたくさんあります。ほおっておくと、それらが平均してまじっているため、電気がないようにみえます。

ところが、毛糸のセーターの下に化学せんいの下着をきていると、それをぬぐとき、くっついてパチパチ音がします。こういう現象を科学では、セーターと下着が「帯電した」といいます。電気を帯びたという意味です。セルロイドの下敷きをわきの下に入れて引っぱったり、はっぽうスチロールを毛皮や絹の布などでこすったりしても、同じことがおきます。こんなふうに、ある物質を別の物質でこすったりしたときにできる電気のことを、静電気とか、マサツ電気といいます。

ふだんセーターは、陽子と電子を同じ数だけ持っているため、プラスとマイナスの電気がつりあっています。セーターをぬぐと、セーターの電子の一部が下着のほうに移るため、セーターの陽子が余ってしまいます。そのためセーターは、プラスの電気を帯びて、下着を引きつけます。それがセーターをぬぐことで、空気中に電気が無理やり通るために(これを「放電」といいます) 熱が出て、その熱が空気をふくらませて、パチパチ音がするのです。これを暗いところでやってみると、パチパチ光るのがわかります。静電気(マサツ電気)は火花だからです。

カミナリも、セーターにくっついた下着を無理やり引き離したときに起きる放電の規模を、とてつもなく大きくしたようなものです。雲と雲や、雲と地面の間で帯電する現象で、放電の光が稲妻(イナビカリ)で、パチパチする音がカミナリのゴロゴロです。

なお、静電気というのは、文字通り静止している電気です。針金を通してつたわる電気は動いている電気で、これは「電流」といって区別しています。

幼い子からの表記の疑問に対する回答は、「マサツ電気というのがおきたの」 という程度でよいのではないでしょうか。

今日1月10日は、明治時代に参議・外相・首相などを歴任した政治家であり、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設させた大隈重信が、1922年に亡くなった日です。

時代が明治になってまもないころ、長崎でキリスト教徒が、政府から迫害を受ける事件がおこりました。するとさっそく、イギリス公使のパークスが、政府に抗議をしてきました。このとき 「日本の内政問題に口を出すな」 と、つっぱねて、一歩もひけをとらずに論戦したのが、若い外交官、大隈重信です。

大隈は、1838年、肥前国(佐賀県)の藩士の家に生まれました。幼いころはたいへん泣き虫でしたが、藩校の弘道館に入学してからは、活発な少年に成長しました。その後、蘭学や英語を学び、早くから西洋に対する目を開いてきました。そして、幕府を倒す運動に加わり、明治政府ができると、外交官として活躍を始めました。パークスとの交渉が評判となった大隈は、外国官副知事に出世して、日本政治の中央舞台へ踊りでました。

政府の中で大隈は、日本がひとつになって国づくりを進めるためには、鉄道の建設や電信の設置などが必要なことを説き、産業を発展させる基礎を固めることに力を注ぎました。しかし、国会開設を求める板垣退助らの運動が高まりをみせると、これに賛成して、伊藤博文らと対立し、政府をとび出してしまいます。そしてよく年、1882年(明治15年)には、立憲改進党を結成して、政党による内閣をつくることを考えました。

また、同じ年に東京専門学校(早稲田大学)を創立しています。学問の独立によって自由な精神を育てることを目ざして、教育の場をつくったのです。

1888年、政府にもどった大隈は、外務大臣として江戸幕府が結んだ外国との不平等な条約の改正交渉に乗り出しました。大隈はあせらずに少しずつ改正しようとする方針です。ところが、一気に対等な条約になることを信じていた人びとは怒り、ひとりの男に爆弾を投げつけられて、右足を失ってしまいました。

条約改正のための努力は実らず、傷心のうちにしばらく政界をしりぞきましたが、1898年、大隈は自由党の板垣と手を結び、憲政党をつくりました。それは、日本で最初の政党内閣でした。この内閣は、大隈が総理大臣をつとめ、板垣が内務大臣となったため、隈板内閣とよばれています。しかし、党内に対立がおこり、わずか4か月で分裂してしまいました。

その後、早稲田大学の総長に就任し、おおくの本を書き、教だんに立った大隈は、77歳のとき、ふたたび総理大臣をつとめました。民衆政治家とよばれ、いつも青年のような情熱をもちつづけた生涯は、1922年、84歳で終わりをつげました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「伊藤博文・田中正造・北里柴三郎」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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