児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年01月

先週の土曜日、たまたま近くの古本屋で 「セザンヌとブリヂストン美術館」(1982年・朝日新聞社刊) という本を見つけ、購入しました。この本は今はもちろん絶版、購入したいと思っているうち買いそびれてしまったものでした。

ブリヂストン美術館は、東京駅から徒歩5分ほどのところにあるので、いつでもいけると思っていたために、気になりながらも一度も訪れたことがありませんでした。この美術館は、自動車タイヤでは日本を代表する大企業「ブリヂストン」の創業者・石橋正二郎が1952年に建設した社屋の一角に、戦前からこつこつ収集してきた美術品を一堂に公開したのがはじまりです。[ちなみに、社名のブリヂストンというのは、石橋の英語読みで、ブリッジ(橋)とストーン(石)をいっしょにしたことは有名です]

当初から、フランス近代絵画や日本の近代洋画の秀作をそろえた美術館として知られていましたが、この本でセザンヌ「自画像」「サント・ビクトワール山とシャトー・ノワール」、マネ「自画像」、モネ「ベニスの黄昏」「睡蓮」、ピカソ「腕を組んですわる軽業師」、コロー「森の中の若い女」といった、著名な画家たちの代表作を収集していることがわかり、翌日の午後に出かけてみました。

率直な感想は 「これはスゴイ! よくぞここまで集めたものだ」 というものです。そして、1982年以降に購入したのでしょう。ルノアールの 「坐るジョルジェット・シャンパンティエ嬢」 が燦然と輝いています。(この少女は、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある「シャルパンティエ夫人と子どもたち」というルノアールの代表作の中で、大きな犬に座っている少女と同一人物、父親はモーパッサンやゾラなどの小説を刊行する出版社のオーナーであることもわかりました)。さらに、マリー・ローランサンの「二人の少女」など、今も少しずつ名画の収集を続けているのがわかります。

入場料は大人700円、65歳以上のシニアは600円。日本では、著名な絵を集めた特別展が頻繁に行なわれ、報道や宣伝もしっかり行なわれるためか、人が多すぎて鑑賞どころではないことを何度も体験したり、話に聞いています。でも、こんなにもたくさんの名画中の名画を集め、ゆっくりと鑑賞できる常設展が身近にあるのです。「灯台もと暗し」、世界の著名な美術館と比べても遜色のない美術館との出会いに、心豊かになった感じがしました。

今日1月23日は、明治の初期、教育者・宗教家として活躍した新島襄(にいじま じょう)が、1890年に47歳で亡くなった日です。

新島襄は、文明開化のためにはキリスト教精神を広めることが大切であると、同志社を設立して、徳富蘇峰、安部磯雄らたくさんの人材を育てた教育者として知られています。

襄は1843年、上野国(群馬県)安中藩の江戸屋敷で、武士の子として生まれ、幼名を七五三太(しめた)といいました。(襄が生まれたとき、祖父がうれしさのあまり 「しめた、しめた」 と叫んだのでこのおめでたい名がついたということです。というのも、新島家には4人の子がいましたが、みんな女の子ばかりで、男の子は襄がはじめてだったからです)

祖父は時代の流れをしっかりみきわめる進歩的な考えの人でした。その祖父のえいきょうをうけて、少年のころは蘭学を学びましたが、開国をきっかけにして、洋学の主流は英学になっているのを感じとり、英学に転じました。そして、函館に出て英語を学ぶうち、西洋文明を自分の目で確かめたいと思い始めました。

1864年、21歳の襄は、いだきつづけた海外渡航の夢をふくらませて、友人の手引と船長の理解でアメリカ船ベルリン号にのりこみました。

日本は開国はしていたものの、海外への渡航は禁じていたので、なかば死を覚悟の密出国でした。まず上海に渡り、ワイルド・ロバート号へのりかえて翌年ボストンへ着きました。襄は船の中で親しみをこめてジョーと呼ばれたため、それから自分の名に襄という字をあてたということです。

ボストンでの襄は、船主のハーディ夫妻のたすけをうけ、学校へ通って聖書の研究に熱中しました。やがてキリスト教の洗礼を受け、キリスト教に自分の一生をささげる決意をしました。

アメリカに渡って3年目、襄は日本が明治の時代になったことを知りました。26歳でした。それから数年ご、明治新政府の役人たちが外国の進んだ政治や文化を学ぶためにアメリカにもやってきました。案内役をたのまれた襄は、ヨーロッパ諸国をまわりましたが、このとき木戸孝允や田中不二麿ら政府の要人に人物の優秀さを見こまれました。

1874年襄は、3000人のアメリカ伝道協会の会衆の前で、日本にキリスト教の大学を設立するための協力をうったえ、多くの寄付を集めました。そして、その年の秋、襄は10年ぶりに日本の土をふみしめました。

帰国当初、襄の考えはうけ入れてもらえませんでした。特に寺や神社からは、強い反発がありました。それでも襄の熱意と、木戸孝允や田中不二麿らの助力もあって、帰国後1年で 「同志社英学校」 をたてることができました。

やがて、キリスト教精神と自由主義を学んだ卒業生は、社会の各方面で活躍し、同志社の名は広く知れわたりました。襄は、47歳で亡くなる直前まで、教育と伝道に情熱をかたむけつづけました。同志社が大学となったのは、死後21年目でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「伊藤博文・田中正造・北里柴三郎」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 30]

むかし、一人の旅人が森をとぼとぼと歩いていました。村になかなかたどりつかないので、今夜はどこですごそうかと心配になりだしました。すると、木の間に明かりが見え、一軒の小屋がみつかりました。小屋には暖炉の火が燃えています。旅人は、あの火にぬくもって少しでも食べ物にありつけたらと、小屋の戸をたたきました。「こんばんは。一晩泊めていただけないでしょうか」

おばあさんが出てきて 「ここは宿屋じゃないよ。家の者はいないし、よそをおさがし」 と、けんもほろろです。でも、旅人はそんなことで引き下がる人ではありませんでした。何度も何度もたのんで、とうとう 「床の上なら寝てもよい」 といわせました。そのうち旅人は、おばあさんが、少しケチのガミガミ屋なだけで、そんなにいじわるな人ではないことがわかってきました。そこで、何か食べさせてもらえないかとたのんでみました。

「とんでもない。あたしゃ、丸一日パンのひとかけらも食べていないんだよ」 「そりゃいけない。ごいっしょに、何かめしあがっていただきましょう」 「あんたは、何ももっていないようだけど……」 「なーに、私はあちこちわたり歩いているもんで、いろんなことを知ってます。おばあさん、そのナベをかしてくれませんか。小石スープをこしらえますよ」

おばあさんは、旅人が何をするんだろうと知りたくなって、ナベを貸しました。旅人はナベに水をいっぱい入れて火にかけました。そして、ポケットからきれいな小石をとりだすと、ナベの中に入れました。おばあさんは、目をまん丸くして、これは貧乏人には耳寄りの話だと思いました。

旅人はお湯をかきまわしながら 「こいつはちょっとうすいようだ。なにしろ、1か月もおなじ石を使ってるんでね。おばあさん、麦のひとすくいもあればおいしくなるんだけど……、いや、なければいいんですよ」 と旅人。おばあさんは、麦のクズがあったはずだと、麦の粉クズをたくさんもってきました。

旅人は、お湯に麦粉を入れ、かきまわしながら味見をしました。「おいしくなってきましたよ。これに、ジャガイモと塩漬け肉を入れると、格別おいしいスープになります……、いや、なければいいんですよ」。おばあさんは、ジャガイモと塩漬け肉があったことを思い出しました。

旅人は、スープにシャガイモと塩漬け肉を入れてかきまわしながら味見をします。「いやー、うまい。これは、王様の料理番にしこまれたスープ料理ですからね。これに、ミルクとコショウが少々あると、すばらしい王様スープになります……、いや、なければいいんですよ」。旅人は、有頂天になったおばあさんの持ってきたミルクとコショウをスープに入れ、小石を取り出していいました。

「さあ、できあがりました、特製の王様スープです。ただ、王様がこんなすてきなスープのあるときは、お妃さまとお酒を1~2杯、ハムをはさんだサンドウィッチを一切れほど召し上がります。それから、テーブルに白い布をかけて……、いや、なければいいんですよ」

もう、おばあさんはすっかり豪勢な気分になっていました。大事にしまっておいたワインと、サンドウィッチばかりか、ソーセージやベーコンやら次々と出してくると、まるでお妃さまになった心地になって旅人と意気投合、おいしいおいしいディナーを楽しみました。

お腹のいっぱいになった旅人が、床で眠ろうとすると、おばあさんはいいました。「あなた様のようなえらい王様のお知り合いは、ベッドに寝なくちゃいけません」

いかがですか、小石スープの威力はすごいものだと思いませんか。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 67

専門家によると、赤ちゃんに対する親の態度でいちばん欠けているのは、個性を見極めようとしないことだそうです。

にぎやかな声であやされたり、高い高いをしてもらうのを、赤ちゃんは誰もが好きだと思いこんでいる親が少なくありません。にぎやかな音や、はげしい刺激を喜ぶ赤ちゃんもいれば、静かな音や静かな運動を喜ぶ赤ちゃんもいるようです。個性を見極めるのは難しいことですが、一般的な思いこみを捨てて静かに向かい合うことを続ければ、お母さんには必ずわかるはずです。

多くの親は、赤ちゃんの個性を見つけようとしていないばかりでなく、幼児期になっても、親から、子どもの側に立って思いやることを失わせていくといいます。まわりの子どもたちの成長や行動にばかり目がいき、わが子をかれらと比較して判断していないかどうかを、機会あるごとに見つめなおしてみることは大切です。

「こうしてやるのがいいのだ」 という親の一方的な好意と思いこみ。これが原因になって、親と子どもの願望のずれが起こってくるのでしょう。抱かれるのはきゅうくつでいやだ。静かに寝かしておいて欲しい。──こう願っている赤ちゃんのいることを、十分に知っておかなくてはなりません。

今日1月18日は、明治・大正・昭和の3代にわたり、植物採集や植物分類などの研究に打ちこんだ牧野富太郎が、50万点にものぼる押し花や押し草などの標本と20数巻の書物を残し、1957年に94歳で亡くなった日です。

日本の山や野原にはどんな草や花があるのか、80年以上ものあいだ、それを集めたり、絵にかいたり、調べたりしたのが牧野富太郎という人です。このような研究をする人は、たいてい大学を出た学者なのに、富太郎は、小学校にしか行っていません。それも、わずか2年間だけです。あとは自分ひとりで本を読んだり、人にたずねたりしながら勉強を続けました。そして、「日本植物志図篇」全11集、「大日本植物志」「日本植物図鑑」などを次々に著わして、世界中に知れわたるほど有名になりました。

ところが、学歴がないために、31歳で大学の助手にむかえられて、51歳になってようやく講師となり、55歳の時には博士号まで贈られたにもかかわらず、78歳でやめるまで助教授にもなれずに講師のままでした。そのため、月給は安い上に研究費も少なく、いつも借金に苦しんでいました。富太郎は、この大学の閉鎖性にはいきどおりをおぼえましたが、しんぼう強く、自分の意志だけを大切に研究を続けたのです。

この「牧野富太郎」に関する伝記は、いずみ書房のオンラインブックで公開していますので、ぜひのぞいてみてください。

なお、牧野富太郎の記述した文の一部を、「青空文庫」で読むことができます。それぞれの植物に対する細かな観察はむろんのこと、名称のいわれ、和歌、俳句、連歌などにどのように歌われてきたかなど、さまざまな視点でつづられる味わい深い博識に満ちた内容は、魅力的です。青空文庫には9点紹介されていますが、参考として、そのうちの1点「植物知識」に出てくる「ヒガンバナ」の項を、少々長文ですが、以下に掲げてみましょう。

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秋の彼岸ごろに花咲くゆえヒガンバナと呼ばれるが、一般的にはマンジュシャゲの名で通っている。そしてこの名は梵語(ぼんご)の曼珠沙(まんじゅしゃ)から来たものだといわれる。その訳は、曼珠沙(まんじゅしゃ)は朱華(しゅか)の意だとのことである。しかしインドにはこの草は生じていないから、これはその花が赤いから日本の人がこの曼珠沙をこの草の名にしたもので、これに華を加えれば曼珠沙華すなわちマンジュシャゲとなる。そして中国名は石蒜(せきさん)であって、その葉がニンニクの葉のようであり、同国では石地(せきち)に生じているので、それで石蒜といわれている。

本種はわが邦いたるところに群生していて、真赤な花がたくさんに咲くのでことのほか著しく、だれでもよく知っている。毒草であるからだれもこれを愛植している人はなく、いつまでも野の草であるばかりでなく、あのような美花を開くにもかかわらず、いつも人に忌み嫌われる傾向を持っている。

とにかく、眼につく草であるゆえに、諸国で何十もの方言がある。その中にはシビトバナ、ジゴクバナ、キツネバナ、キツネノタイマツ、キツネノシリヌグイ、ステゴグサ、シタマガリ、シタコジケ、テクサリバナ、ユウレイバナ、ハヌケグサ、ヤクビョウバナなどのいやな名もあるが、またハミズハナミズ、ノダイマツ、カエンソウなどの雅びな名もある。そしてその学名を Lycoris radiata Herb. といい、ヒガンバナ科に属する。右種名の radiata は放射状の意で、それはその花が花茎の頂に放射状、すなわち車輪状をなして咲いているからである。

野外で、また山面で、また墓場で、また土堤などで、花が一時に咲き揃い、たくさんに群集して咲いている場合はまるで火事場のようである。そしてその咲く時は葉がなく、ただ花茎が高く直立していて、その末端に四、五花が車座のようになって咲き、反巻せる花蓋片(かがいへん)は六数、雄蕊(ゆうずい)も六数、雌蕊(しずい)の花柱が一本、花下(かか)にある。下位子房(かいしぼう)は緑色で各小梗(しょうこう)を具えている。

ここに不思議なことには、かくも盛んに花が咲き誇るにかかわらず、いっこうに実を結ばないことである。何百何千の花の中には、たまに一つくらい結実してもよさそうなものだが、それが絶対にできなく、その花はただ無駄に咲いているにすぎない。しかし実ができなくても、その繁殖にはあえて差しつかえがないのは、しあわせな草である。それは地中にある球根(学術上では鱗茎と呼ばれる)が、漸々に分裂して多くの仔苗を作るからである。ゆえに、この草はいつも群集して生えている。それはもと一球根から二球根、三球根、しだいに多球根と分かれゆきて集っている結果である。

花が済むとまもなく数条の長い緑葉が出で、それが冬を越し翌年の三月ごろに枯死する。そしてその秋、また地中の鱗茎から花茎が出て花が咲き、毎年毎年これを繰り返している。かく花の時は葉がなく、葉の時は花がないので、それでハミズハナミズ(葉見ず花見ず)の名がある。鱗茎は球形で黒皮これを包み、中は白色で層々と相重なっている。そしてこの層をなしている部分は、実に葉のもとが鞘を作っていて、その部には澱粉を貯え自体の養分となしていること、ちょうど水仙の球根、ラッキョウの球根などと同様である。そしてそこは広い筒をなして、たがいに重なっているのである。

近来は澱粉製造の会社が設立せられ、この球根を集め砕きそれを製しているが、白色無毒な良好澱粉が製出せられ、食用に供せられる。元来、この球根にはリコリンという毒分を含んでいるが、しかしその球根を搗き砕き、水に晒して毒分を流し去れば、食用にすることができるから、この方面からいえば、有用植物の一に数うることができるわけだ。

この草の生の花茎を口で噛んでみると、実にいやな味のするもので、ただちにそれが毒草であることが知れる。女の子供などは往々その茎を交互に短く折り、皮で連なったまま珠数のようになし、もてあそんでいることがある。

『万葉集』にイチシという植物がある。私はこれをマンジュシャゲだと確信しているが、これは今までだれも説破したことのない私の新説である。そしてその歌というのは、

路の辺の壱師(いちし)の花の灼然(いちしろ)く、人皆知りぬ我が恋妻を

である。右の歌の灼然(いちしろ)の語は、このマンジュシャゲの燃ゆるがごとき赤い花に対し、実によい形容である。しかしこのイチシという方言は、今日あえて見つからぬところから推してみると、これはほんの狭い一地方に行われた名で、今ははやく廃れたものであろう。

このマンジュシャゲ、すなわちヒガンバナ、すなわち石蒜(せきさん)は日本と中国との原産で、その他の国にはない。外国人はたいへんに球根植物を好くので、ずっと以前にこのマンジュシャゲの球根が、多数に海外へ輸出せられたことがあった。

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