児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2008年01月

私の好きな名画・気になる名画 12

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先週(1月24日号)のブログに [ブリヂストン美術館] のことを記しましたが、この美術館の収集作品のいくつかをを描いたセザンヌは 「20世紀の美術はすべてセザンヌから出発している」 といわれるほど、後世に大きな影響を遺した画家です。でも、生きている間はほとんど認められず、注目もされなかったのはゴッホに似ているといってよいかもしれません。

19世紀の終わり頃のフランスに、モネやマネらのように、風景でも人物でも、画家の心にどう感じたかを表現する、印象主義とよばれる美術運動が盛んになりました。1839年に南フランスの小さな町エクサン・プロバンス(エクス)で生まれたポール・セザンヌは、この印象派の技術を身につけ、さらに発展させたゴッホやゴーガンとともに、後期印象派の天才といわれています。しかし、セザンヌに天才ということばが与えられたのは、ようやく晩年になってからのことです。67歳のとき、絵をかきながらたおれてしまうまでの生涯は、決して楽しいものではありませんでした。

父は銀行を経営するほどの金持ちでした。めぐまれた家に生まれたセザンヌは、小学生のころから絵がすきでした。また中学校では、のちに大文学者となったエミール・ゾラとしたしくなり、文学にも夢中になりました。しかし、セザンヌは、父の希望で法律の大学にすすまなくてはなりませんでした。でも、画家になりたい気持ちがしだいに強くなり、ゾラにはげまされて、ついにパリにとびだしました。22歳のときです。

ところが、内気なセザンヌは、パリの芸術家たちとはしたしくなれず、ルーブル美術館に通って、絵を見学する毎日でした。そして2年ごに美術学校の入学試験をうけましたが、合格できませんでした。セザンヌは、パリの町に小さなアトリエを見つけて、ひとりで絵をかきはじめます。その絵は、絵の具を厚くぬった、だいたんで、はげしいものでした。それから何年ものあいだ、いくども展覧会に出品しましたが、落選するばかりです。ものの構造をしっかりと見て、自分の感じたままに表現するというセザンヌの絵は、だれからも理解されなかったためです。

50歳をすぎたころから、故郷のエクスにひきこもったセザンヌは、一日じゅう絵のことだけを考えて暮らしました。そして有名な 「自然はすべて、球形、円すい形、円筒形としてとりあつかわなければならない」 という結論にたっしました。

ブリヂストン美術館所蔵の 「自画像」 を描いたのもこの頃のことです。外套を着て中折帽をかぶったセザンヌが、身体を横に向けて、顔だけをこちらに向けています。きまじめな頑固おやじといった印象ですが、ものをしっかり見つめようという鋭いまなざしは、緊迫感がただよっています。若い頃の絵の具を厚くぬることから脱皮して、晩年になるほど絵の具をうすくとき、ていねいに描くようになっていて、この絵でも背中や右腕のあたりに白くみえるのは、カンバスの地がそのままになっています。そして、この肖像画は、ルネッサンス以来、さまざまな画家たちの描く目や鼻、顔の輪郭などはっきりした肖像画との違いを、明確にあらわしているといってよいでしょう。

セザンヌはこの絵をはじめ、たくさんの自画像を描いています。何しろ田舎のことで、モデルになってくれる人があまりいなかったのと、たまたまなってくれる人がいても、ちょっとでも動くとすぐに腹をたてたため、長続きしませんでした。セザンヌに 「気難しい孤高の人」 という形容詞がつくのは、傷つきやすく臆病な反面、ぶしつけで攻撃的になるなど、多くの人たちにとってつきあいやすい人ではなかったのでしょう。しかし、セザンヌが生涯をかけてめざした頂は、とてつもなく高いもので、やがてゴーガン、マチス、ピカソらにたくさんの刺激と感動を与えていったのです。

今日1月30日は、「貧乏物語」 「資本論入門」 「自叙伝」 などの著作で知られ、日本におけるマルクス主義の考えを推し進めた経済学者河上肇(かわかみ はじめ)が、1946年に67歳で亡くなった日です。

明治時代の中ごろ、栃木県の足尾銅山の毒が渡良瀬川に流れて、おおくの人が死亡したり失明したりする事件が起こり、その被害者を救うための演説会が東京で開かれたときのことです。

「わたしは、お金を持っていません。これを、きのどくな方へ」

ひとりの大学生が、自分の着ていたものをぬいで、会の人へさしだしました。そして、さらに翌日には、身につけていた以外の衣類をまとめて、会へ送りとどけました。やがて、ふとしたことから、その大学生の名まえがわかりました。東京帝国大学で政治や経済学を学ぶ、22歳の河上肇でした。

肇は1879年、山口県の岩国で生まれました。少年時代は、医者か文学者になる夢をいだいていました。ところが、吉田松陰を深く尊敬していた肇は、しだいに、広く国の政治について考えるようになり、大学では政治学科へ進みました。足尾銅山鉱毒事件の被害者へ衣類をさしだしたとき、肇の心には、きっと、めぐまれない人びとのために力をつくそうという気持ちが、芽生え始めていたにちがいありません。

「世の中の貧しい人びとを救うには、どうしたらよいのか」

大学を卒業して6年後、京都帝国大学で経済学を教えるようになった肇は、貧しい人をなくすための経済のしくみについて、研究をつづけました。ヨーロッパへ留学して外国の社会主義を学んでくると、マルクス主義の研究も深めました。

1916年、大阪朝日新聞に『貧乏物語』を連載して、大ひょうばんになりました。

「貧乏人は、どれくらいいるのか。なぜ貧乏があるのか。どうしたら貧乏がなくなるか」

こんなことをまじめに世に訴えた学者は、肇のほかには、だれもいなかったからです。肇は、新聞の連載をまとめた『貧乏物語』のほか、次つぎに経済学の本を出版して、45歳をすぎたころには、日本におけるマルクス主義経済学をうちたてました。49歳で大学をしりぞき、やがて共産党へ入って、じっさいに自分のからだで社会主義運動を始めました。

ところが、53歳のときに、共産党をとりしまる国の力でとらえられ、5年のあいだ、牢獄ですごさねばなりませんでした。このとき検事から、共産主義の考えを改めれば刑をゆるすと、なんどもいわれました。でも、肇は、自分の信念をかえようとはしませんでした。

肇は、1946年に栄養失調で亡くなりました。それは、戦争にやぶれた日本が、民主主義国家として歩み始めた年でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 31]

むかし、木賃宿をいとなむ欲の深い夫婦がいました。木賃宿というのは、料金の安い旅館とかホテルのことです。ある日、大きな風呂敷包みを背負って、両手に重そうな荷物をぶらさげた旅人がやってきました。

これを見たおかみさんは 「お前さん、あの客はどうもお金をたくさん持っていそうだよ。宿賃の1000円を2000円にしちゃまずいだろうから、なんとか荷物を置いていかせることはできないだろうかね」 といいました。

するとご主人は、いいことを思いついたと、ひざをたたきました。「まず、盗まれるといけないから荷物をあずかりましょうといって、こっちに渡してもらうんだ。それから、みょうがをたくさん食わせる。むかしから、みょうがを食べると物忘れがひどくなるというからな」。「そりゃいいね。ちょうど、みょうがの子が出る時期だから、うらの畑からみょうがをたくさん取ってこよう」 と、おかみさん。

こうして、晩飯にみょうがの料理をたくさん出して、客をもてなしました。みょうがの刺身、みょうがのテンプラ、みょうがのおつゆ、みょうがの煮付け、みょうがの漬物……と、みょうがづくしです。客は、おいしいおいしいと、大喜びで、たくさん食べました。

さて、翌朝のこと。客は 「ゆうべ預けた荷物をもらおう」 といって、荷物を全部返してもらうと、満足そうに出て行きました。おかみさんはがっかりして、主人に 「みょうがの効き目はなかったね。あてがはずれちゃた……」

「いやいや待てよ、効いた、効いたぞ。あの客、宿賃のことを忘れて、払わないで行っちまったぁ」

こうすれば子どもはしっかり育つ 「良い子の育てかた」 68

家庭内における、親に対する子どもの暴力──このことについて、しつけの面から、しっかり認識しておかなければならないことがあります。それは、少年期になってからの親への暴力は、幼児期からのしつけの中で 「親みずからがみちびいてしまった」 ものが少なくないからです。

問題は、親の過保護です。わが子が要求するものは、子どもかわいさで何でも受け入れてしまう。その結果、子どもは、自分をおさえることを経験しないまま育っていく。そして、親が抑制や制約を与えないために、子どもは常に満たされた形で育ち、第一反抗期の反抗もないうちに過ぎてしまう。親は 「親に反抗しない素直な子だ」 と勘違いしたまま……。

ところが、要求、欲望が大きくなり始める第二反抗期 (思春期) になると、親ははじめてそれを抑制させなくてはならないことに気づき、おさえはじめる。すると、子どもは反発──自由にさせてくれない親への暴力──ということになってしまうのです。

最近、親の権威がなくなったといわれます。でも、これはなくなったというより、子どもを甘やかすことで、親自身が権威を捨ててきているといえないこともありません。[過度な欲望をできるだけ抑える]──これこそ、幼児期に最も大切なことではないでしょうか。

「星と星がぶつかることはないの ?」 おもしろ科学質問箱 5

夜空を見上げると、それこそ無数の星たちがぎっしりと、ひしめくようにきらめいています。こんなにたくさんあるのだから、ぶつかってしまうこともあるのでは? と思ってしまいます。でも、それぞれの星同士は、これまたとてつもなくはなれた距離にあるのです。

たとえば、私たちの住む地球は、太陽系といって、太陽と太陽のまわりをまわっている8つの星を中心にしたグループです。太陽に近い順に、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星があります。太陽のように自分で輝く星を「恒星」というのに対し、太陽の光を反射する地球を含むこれらの星を「惑星」と呼びます。(冥王星は、太陽系の惑星とされてきましたが、2006年に開かれた国際天文学連合の総会で「準惑星」と分類されました)

太陽系の仲間だけでも、どのくらい離れて存在しているのかを、太陽をあなたの頭の大きさだと仮定して考えてみましょう。すると、いちばん太陽に近い水星は、あなたの頭から6メートルも離れたところの直径1mmほどの丸い粒でしかありません。金星は10メートル離れたところにある直径2mmほどの球、私たちの地球は、あなたの頭より15メートルも離れたところにある2.5mmほどの球体です。次の火星は、23メートル離れた地球より一回り小さな星です。続いて惑星の中で一番大きな木星は、80メートルも離れたところにある直径1.4cmのビー玉ほどの大きさです。土星は140メートル、天王星は300メートル、海王星は450メートルも離れています。そして、それぞれの惑星は、太陽の引力に引っぱられて、地球が1年かけて太陽の周りをまわるように、どの惑星も自分の軌道からはずれることなく、きちんと太陽のまわりを回っているのを知れば、宇宙にある星たちがぶつかることはない、と断定してよいでしょう。

ちなみに、太陽以外の地球から一番近い恒星は、ケンタウルス座のアルファ星ですが、これが4.3光年だそうです。星の距離はキロメートルという単位でははかりきれないので、光年という名称を使います。光は1秒間に30万キロメートル、1年間で10兆キロメートル走ります。そのためアルファ星との距離は40兆キロメートル以上も離れていることになります。もう想像するだけで、頭がこんがらがりそうですね。

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